最終回――ふたりのこれから
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「まさかこんなことになるなんてね……」
ホテルの大浴場の大きなお風呂に肩まで浸かりながら、まゆが小さく呟いた。ただその感想にはオレもまったくの同意だったので、『そうですよね』と答える。
あのゲリラ豪雨……実は最近よく聞く線状降水帯がもたらしたものだったらしくて、あの後も結構な雨量で長時間降り続いた。その結果線路の一部が土砂崩れで流れ出た土にやられてしまったそうで、電車が止まってしまった。今日中の復旧は難しいとの話をホテルの従業員に教えてもらったので、すぐにホテルの一室をなんとか取ってもらって今日はここに泊まることになった。
恋人とのはじめてのお泊りがまさかこんな突発的な感じに始まるとは思っていなかったので、なんだかフワフワと夢の中にいるような感覚になっている。まゆも時々こちらをうかがうような視線を向けてくるんだけど、オレと目が合うとパッと逸らされたりされるので戸惑っているんだとは思う。
オレたちが部屋を押さえられたのはものすごい幸運だったみたいで、その後で押しかけてきた海水浴客のほとんどは泊まれずに、タクシーで別の宿泊施設を探すために出発していった。違う路線の駅から帰るという手段もあるので、そっちを選んだ人たちもいたかもしれない。
明日も復旧しなかったらまゆのお父さんが車で迎えに来てくれるみたいで、それに同乗させてもらえるという話になった。会ったことがないからどんな人なのか気になるけど、冷たい反応をされることはないだろう。オレたちは恋人同士だと思っているけど、他の人たちから見たら部活の先輩後輩にしか見えないだろうからな。
宿泊客が急に増えた上にそのほとんどが海水浴客だったので、芋洗い状態になっている大浴場でなんとかお風呂を済ませて部屋に戻る。残念ながらツインの部屋がもう埋まっていて、ダブルしかなかったのでそこに滑り込んだ形だ。オレとまゆならふたりで寝ても全然スペースはあるし、特に問題はなさそうだ。問題があるとすれば、好きな人と一緒のベッドで果たして眠れるのかということぐらいだろうか。ほとんど泳いでないけど体は結構疲れているみたいなので、目を閉じたらすぐ眠りの世界に旅立つ可能性も否定できないが。
「せっかくだし浴衣着ようよ、ひなたちゃん自分で着れる?」
「……あんまり自信はないです」
備え付けの浴衣を持ってまゆがそう提案してきた。女になってから浴衣なんてほとんど着る機会はなかったし、自分で着付けなんてできるはずがない。まぁ着物に比べれば簡単そうだから、ただ前を合わせて帯を締めればいいんだろうけど。
「じゃあ、着せてあげるね。ほら、服脱いで」
「わわ、自分で脱ぎますってば」
伸びてくるまゆの手を慌てて避けながら、なんとか剥かれるのを阻止する。なんかあっという間に全裸にされそうな予感がしたんだよな、浴衣とはいえ下着まで脱がなくてもいいはずなのに。
手早く着ていた服を脱いで畳んでからまゆの前に立つと、まゆは楽しそうに浴衣を着付けてくれた。
「確か、男性と女性で前の合わせが違うんでしたっけ?」
「それ誤解している人が多いみたいだけど、和装は性別関係なく右前が正解なんだよ。私もおばあちゃんに教えてもらうまで知らなかったんだけどね」
まゆの説明によると、着付けてくれている人から見て右側が上になるように着るのが正解なんだって。ちなみに逆の左前は亡くなった人の死に装束の時の着せ方なんだそうで、縁起が悪いと眉をひそめられる可能性が高いので間違えないように、とまゆが最後におどけたように言った。それから帯をギュッと絞って、オレから見て右手前のところできゅっとリボン結びしてくれた。
「ひなたちゃん、苦しくない?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます、まゆ先輩」
オレがペコリと頭を下げながらお礼を言うと、まゆは後ろに回って軽く浴衣の背中部分を引っ張った。どうしたのかな、と思ったら襟あしの部分にチュッと軽くキスされる。思わず『ひゃわっ』と変な声が出てしまった。
「こうした方がちょっと楽でしょ。さて、私も浴衣着ちゃお」
「……手伝います、まゆ先輩」
イタズラされた分やり返そうと手伝いを申し出たら、まゆの手のひらで踊らされて顔中にキスの雨を降らされてしまった。ぐぬぬ、解せぬ。いつかはやり返せるように頑張ろう、何を努力すればいいのかわからないけどね。
夕食はホテル内のレストランで海鮮コースを食べたんだけど、鯛めしがすごく美味しかった。他の料理も絶品だったのでついつい食べすぎてしまって、お腹いっぱいになりながらまゆと一緒に部屋に戻った。ジュースを飲みながらしばらくまゆと話しているとお腹もこなれてきたので、持ってきていた肌ケアグッズで最低限のスキンケアをする。もはや『元男なのに』とか自分でも思わないくらい当たり前の習慣になっている、大学のバスケ部の先輩たちとか姉貴にめっちゃ躾けられたからね。ちゃんとやらないと落ち着かないまである。
無言でぬりぬりぺたぺたとふたりでやった後は、洗面台で並んで歯を磨いた。もちろん泊まる気なんて全然なかったから、歯ブラシなんて持ってきているはずもない。アメニティがあってよかったね、とまゆとふたりで顔を見合わせて笑った。
部屋の照明を暗めにしてふたりでベッドに寝転んだんだけど、そういうことをこれからする可能性もあってかドキドキと心臓が暴れている。オレは元男なんだから、こういう時はリードすべき立場なのではないだろうか。いや、まゆはオレが男だったなんて知らないけど。でもオレがそういう期待をしていたとしても、まゆがそう思ってない可能性もあるよなぁ。
そんなことをグダグダと考えていると、オレの手にまゆの手が重ねられた。ちょっとビクッと体が反応していることに気を取られている間に、まゆの指がオレの指に絡んで恋人繋ぎみたいな感じになっていた。いや、違うか。プロレスとかの力比べみたいな感じといえばいいのかな? 時々あやすみたいに親指の腹でオレの手を撫でるようにするの、くすぐったいからやめてほしい。
「……ひなたちゃん」
そう呟いて、まゆの顔がどんどんこちらに近づいてくる。真摯な光をたたえる瞳が閉じられて、お互いの吐息がかかるぐらいの距離に近づく。キスはもう何度もしているけど、今日のキスは特別なものになるはずだ。そんな幸せな経験を、特大の隠し事をしているオレがしてしまってもいいのだろうか。そんな考えが頭をよぎって、なんだか罪悪感に胸がズキンと痛む。
気がつくとオレはまゆと繋いでいない片方の手を、そっとまゆの体に当てていた。拒んでいるわけではない、ちょっと待ってほしいという思いを込めて全然力は入れていない。
不思議そうな表情を浮かべるまゆに、オレはなんとか必死に『ちょっと待ってください』と小さく呟くように言った。なんでこんな時に臆病風に吹かれるのか、せっかくまゆは覚悟して関係をさらに一歩前に進ませようと歩み寄ってきてくれたのに。自分が情けなくて、自分の意思とは関係なく目が潤んでしまう。
突然泣き出したオレに少しだけ戸惑った様子だったまゆだけど、少しだけ逡巡した後でそっと近づいてきて優しくオレを抱き寄せた。まゆの行動にびっくりして、一瞬だけ溢れそうになっていた涙が引っ込んだような気がする。
まゆの胸へと頭が抱え込まれているような体勢になっているので、とくんとくんとまゆの鼓動が聞こえてちょっとずつ気持ちが落ち着いてきた。しばらくその状態のままでいると、頭の上から優しげなまゆの声が聞こえた。
「ごめんね、ひなたちゃんの心の準備ができていないなら今日急いで先に進まなくていいよ。ふたりとも気持ちが決まってから……」
「ち、違うんです! 今日は突然の泊まりだったけど、そうなること自体はイヤじゃなくて」
そういう行為をすることに抵抗があると受け取ったまゆの言葉を、慌てて遮った。こうなったら自分の気持ちを正直に言うしかない。普通に過ごしていたら、多分こんな風に秘密を話す機会なんて訪れなかっただろう。嫌われるかもしれない、軽蔑されるかもしれない。でもオレだけまゆに隠し事をしてこのまま仲良く生活していっていいのかという罪悪感は、きっとずっと付きまとうだろう。
まゆに嫌な思いをさせてまで言うべきなのか。そもそもこうして告白しようとしていること自体、自分の罪悪感を少しでも薄めたいだけではないか。
「私、まゆ先輩に隠し事してます……それも、ものすごく大きい隠し事を」
そんな風にグルグルと考えを巡らせていると、気がついたらポロッと言葉が口からこぼれてしまっていた。懺悔する立場なのに、ポロリと目の端から涙が湧き出てくるのを止められない。悲劇のヒロインぶってるみたいで嫌だ、オレは元男で背も体格もデカくて。こんな情けない人間じゃなかったはずなのに。
「……隠し事なんて、誰でもしてるものじゃないの? 言っておくけど、私だってひなたちゃんに言ってない大きな隠し事あるよ。それも複数ね」
しかしまゆから返ってきた言葉は、そんなあっけらかんとしたものだった。すごくびっくりして、思わずまゆの胸に埋めていた顔を上げてしまった。すごく優しげにこちらを見るまゆの顔が見えて、なんだか恥ずかしくてまた元の位置に顔を戻す。
「大好きな人の秘密をなんでも知っておきたい、なんて思う人も世の中にはたくさんいるんでしょうけど。でも、私はイヤだな。秘密とか言いたくないこととか、人間なんだから生活していれば普通にできるものでしょ。それを逐一相手に報告しなきゃいけないなら、精神的なプレッシャーになるしそれが元で相手のことが疎ましくなるかもしれない」
『もちろん他に好きな人ができたとか、そういうことは言ってほしいけどね』とまゆは言葉を付け足す。確かにオレも秘密を話さなきゃと思うことで、結構な圧というか精神的な負担を感じていたような気がする。もちろん今だってそうだけど、まゆの言葉でほんの少しだけ気持ちが楽になったのは確かだ。
「……まゆ先輩は、私の秘密を知らなくてもいいんですか?」
「ひなたちゃんが言いたいならちゃんと聞くけど、今みたいに泣きながら言いたくないのを我慢しようとしてムリしてるのを見ると別に聞かなくていいと思うよ。大好きで大事な相手を苦しめたくなんてないじゃない?」
まゆはそこで言葉を切ってオレの顔を少しだけ上げさせると、おデコに軽くキスを落とした。
「秘密を知っても知らなくても、私がひなたちゃんを好きだっていう気持ちは変わらないし」
その言葉が嬉しくて、そこから先の記憶はすごく曖昧だ。ただふたりで夢中になりながらシーツの海で泳いでいたのと、まゆの体の温かさと柔らかさは覚えている。
―――翌朝。
「ごめんってば、ひなたちゃん」
ホテルのロビーにあるソファーに並んで座って、まゆのお父さんが車で迎えに来てくれるのを待っていた。手を合わせて謝ってくるまゆに、オレはプイッと顔を横にそらせる。
朝起きたらふたりとも全裸だったのは言うまでもないけど、体中に赤い跡があって最初は海の水にかぶれたのかと思ったぐらいだった。そういう行為の途中でもキスマークを付けられていたのは知っていたけど、オレが眠ってからもせっせと増やしていたなんて呆れるしかない。何よりオレの怒りポイントなのは、首筋とか鎖骨の近くとか服を着ても隠せない場所に付けられていることだ。
なんとかオレとまゆが持っていた絆創膏を全部使って隠したものの、なんかたくさん切り傷や虫刺されができた人みたいな感じになっている。もちろん大浴場になど行けるはずもなく、部屋のシャワーでなんとか汗を流してから貼り付けたのは言うまでもない。
ホテルのロータリーに入ってきたファミリーカーが『プッ』と短くクラクションを鳴らすのを聞いて、まゆが『あれがうちの車だよ』と教えてくれた。まゆのお父さんの前で態度が悪かったらイメージも良くないだろうし、ここらが切り上げ時だろう。この跡が消えるまで、部活でどうやって誤魔化すのか考えなきゃいけないよな。そもそも家で風呂の時に姉貴や母親にバレたらいたたまれない。もし父親に見られたらもっと大変なことになりそうだ。
「やぁ、はじめまして。まゆの父親の……どうしたんだい、その絆創膏」
「いえ、ちょっと虫に刺されたので薬を塗って掻かないように貼ってるだけです」
そりゃあ怪訝そうな顔をするよな、まゆのお父さんには変な印象を与えてしまっていないか心配になる。ちゃんと自己紹介をして、にこやかな笑顔を浮かべてくれたから大丈夫だとは思うけど。
後部座席にまゆと並んで座ってまゆのお父さんからの質問に答えていると、いつの間にか睡魔に負けて眠ってしまった。家に着いたときにまゆのお父さんが『お互い寄りかかるように眠っていて微笑ましかったよ』と教えてくれたとき、オレとまゆは顔を見合わせて苦笑してしまった。
微笑ましくはないんじゃないかな、夜ふかしの原因はえっちなことのせいなんだし。多分まゆもそう思ったから、苦笑していたのだろう。
「それじゃあ、ひなたちゃん。また部活でね」
「はい、まゆ先輩」
関係は深くなっても、基本的な態度は何も変わらない。こうやって毎日を積み重ねていけたらいいなぁと、本当にそう思う。
走り去っていく車を見えなくなるまで見送ってから、オレは家のドアを開けて中に入る。『ただいま』と中に向かって声を掛けると、姉貴がダルそうな声で『おかえり』と返してくれた。
こうしてオレの短い夏休みは終わりを告げて、また学校とバスケ漬けないつもの日常がはじまる。トラウマの克服、新チームのレベルアップなどやるべきことは山積みだけど、頑張っていこう。
ひと区切りついたかな、ということで一旦最終回です。
イチとの話とかも入れようかなと思ったのですが、ダラダラと嫌な方向に続きそうなので省きました。
まゆ部長率いる新チームの活躍を書きたくなったら、その辺もと思っているのですが今のところ未定です。
ここまでお付き合いくださってありがとうございました。




