61――海水浴
いつもブックマークと評価、誤字報告ありがとうございます。
階段を下りて砂浜に立つと、裸足じゃないのに火傷しそうなぐらいの熱を感じる。変にケガしてバスケができなくなるのもイヤなので、砂の上を移動するときはビーチシューズを脱がない方がいいかもしれない。
「さぁひなたちゃん、一緒に準備運動しよ。足が攣ったりしたら危ないからね」
運動部に所属している人なら、このまゆの発言には同意しかないだろう。急に動くとケガをする可能性が高まるのだから、軽くであっても自分の体をほぐしておくに越したことはない。
比較的海水浴客が少ないところに移動して、荷物を傍らの砂浜の上に置く。そして並んでから手が当たらないぐらいに間隔を空けて、ラジオ体操をした。一生懸命にやると上空から注がれる太陽の光の熱さも手伝って、汗が吹き出してくる。じっとりと汗で肌を濡らしながらラジオ体操を終えると、屈伸など物足りなかった部分の運動を軽く付け足す。
周囲を見渡すとフロートやパラソルを貸し出している海の家があったけど、立て看板に書かれている値段を見ると結構高い。登山をしたら自動販売機で売られている飲み物がものすごく高いという話をよく聞くけど、それと同じで観光地価格で値段が釣り上がっているのだろう。
「荷物はロッカーに入れちゃいましょうか、荷物を置きっぱにしてると誰かに持っていかれちゃいそうですし」
「そうだね、休憩も日陰なところに行けばパラソルいらないし。でもひなたちゃんと一緒に乗りたいから、フロートだけ借りようかな」
のんびり海水に浸かりながらフロートに捕まって、まゆとゆっくりするのもいいかもしれない。先に海の家に行ってどのフロートを借りるのかふたりで選んで、イルカの形をしたものをレンタルした。最初はまゆが『先輩だから』と全部払おうとしていたのだが、結構値段が高かったし元男としては彼女に全部払ってもらうのはヒモみたいでいたたまれない。割り勘にすることを強硬に主張して、なんとか半分払うことに成功した。
サイフやタオルなどをロッカーに入れて、鍵についたゴムバンドを手首につける。さて泳ぐぞ、とまゆと手を繋いで波打ち際に向かって駆け出そうとした時に、何故か横から声を掛けられた。
「おっ、女の子ふたりで海に来たの? こっちも男ふたりで退屈してたんだよね、一緒に遊ばない?」
声の方に視線を向けると、オレたちと同い年ぐらいのちょっと不良っぽい男子ふたりが笑顔を浮かべながらこちらを見ていた。たまに視線がオレやまゆの胸元に移動するのに気づいて、ゾワリと気持ち悪さが湧いてくる。それにおそらく170cm台後半ぐらいの身長だから、近づかれるとトラウマの影響で体が勝手に震えだしてしまう。
「……やめてください、この子は男の人が苦手なんです。近づかないで」
まゆがオレを背中に隠すようにして庇いながら、ふたりの男と対峙する。はっきりと怒りの感情が含まれているその声などなんのその、ナンパ野郎たちにはなんの効果もないのかニヤニヤしたままだ。前のオレに比べたら全然筋肉もついてないし、本当ならオレがまゆを庇うべき状況なのに。今の自分の状況が情けなくて、じわりと瞳が潤む。
「妹さんかな? 姉妹で海水浴なんて仲いいんだね、オレたちがお兄さんになってあげるよ」
「キモっ! お前、ロリコンみたいなこと言うのな」
「うるせーよ! でも本当にふたりともめっちゃ可愛いし、せっかくだから楽しもうぜ」
すでにオレたちをナンパできたと確信しているような野郎どもの会話に腹が立ちつつも、どうやってこの状況から脱出できるかを考える。するとまゆがいきなりひょいとイルカのフロートを頭上に持ち上げたと思ったら、オレに向かって小さいけれど鋭い声で言った。
「ひなたちゃん、走って!」
まずまゆが野郎たちが立ちふさがっている反対方向に走り出したので、頭でその指示を理解するより早く足が動いてまゆの後ろ姿を追いかけた。砂浜だから走りにくいけど、普段から部活で走り込みだのシャトルランだの色々と基礎メニューをこなしているオレとまゆだ。筋肉量は相変わらず一般人に毛が生えたレベルだけど、これまでの部活で培ってきた脚力はすごいものであっという間に野郎どもを置き去りにした。
海水浴客もいるから人を避けて走らなくちゃいけないし、慌てて後ろをついてくる野郎ふたりは砂に足を取られてめちゃくちゃスピードが遅い。このままだったら逃げ切れるかも、と思っていたらまゆが突然スピードを緩めた。理由がわからなくてオレもそれに併せてゆっくりと足を止めると、なんとそこには首にかけた双眼鏡で海を監視しているライフセイバーがいたのだ。
「あの、変なふたり組に声を掛けられて困っているんです。助けてもらえませんか?」
「……ああ、あのふたりか。懲りん奴らだなまったく」
前のオレと比べても遜色ないぐらい鍛えられて黒々と日に焼けたライフセイバーさんは、まゆの訴えを聞いて指し示す方向に双眼鏡を向けた後でそう呟いてため息をついた。どうやらあのふたり組、前にも問題を起こしていそうだ。
のっしのっしとふたりの方に歩いていくライフセイバーさんに気づいたふたり組は踵を返して逃げ出したが、さすがこういう仕事をしているのか運動が得意なのだろう。素早く身をかがめて走り出すとあっという間に追いついていた。ひとまずナンパからは逃れられたみたいだけど、また追いつかれて付きまとわれるのは面倒だ。
「まゆ先輩、今のうちに海の中へ逃げておきましょう。またあの人たちが来たらイヤですし」
「そうだね、それがいいね」
ふたりでイルカを波打ち際まで運ぶと、前にまゆが乗ってその後ろにオレがまたがる。まゆの腰に手を回すと、女の子らしい柔らかさになんだかドキドキしてしまう。まぁプニプニ感ならオレの方が上なんだけどな、まゆの方が多分筋肉ついてるだろうし。
なんとかイルカを海に浮くように足を踏ん張って動かすと、オレとまゆが乗っているにも関わらずそれほど力も必要なくスルッと海へと進み出す。最初はグラグラと揺れて海に落ちそうになったけど、前後にふたり乗っているのでうまくバランスが取れているのか揺れも収まって静かにフロートが海上に佇んでいた。
「まゆ先輩、足が冷たくて気持ちいいですね」
「砂浜がものすごく熱かったから余計にね。このまましばらくぼんやりしていましょ、離岸流にだけは注意ね」
まゆが最後に付け足した注意にこくりと頷いて、キョロキョロと周囲を見回して今の位置を確認しておいた。海の波は砂浜で見ていると岸に向かってくるものだけに見えるのだが、岸から沖に向かう流れも存在する。ボーっとしていたらいつの間にか岸から離れた場所で浮いていた、なんて話をよく聞くけどそれの原因がまゆが言った離岸流だ。
岸に向かって泳いでも沖に向かう流れの方が速いから、さらに焦って溺れてしまう事故が毎年あるらしい。オレも中学の頃に仲間たちと海水浴に行った時に調べたのだが、もしも離岸流に巻き込まれた時は流れに逆らわずに陸地に対して平行に移動して離脱するのがいいそうだ。とにかく慌てず冷静にいるのが大事だって書いてたなぁ。
そんなオレたちの心配をよそに離岸流が発生することもなく、暑くなったらイルカから下りてプカプカ浮かびながらまゆと色々なことについておしゃべりした。ただいくら海の中に体を浸からせているとはいえ、太陽はギラギラとオレたちの頭上で光り輝いている。熱射病とか熱中症になったらマズいので、陸に上がって休憩することにした。あれから結構時間も経っているし、あの野郎たちも別のターゲットを見つけているか諦めて場所を移しているだろう。
海の家で焼きそばとラーメンを頼んで、ふたりでシェアする。海の家の料理って、伸びてたりヨレヨレの麺だったりするのに美味しく感じるのはどうしてなんだろう。食事の後も砂浜に直接座ると火傷しそうだから、イルカのフロートにもたれかかるように腰掛けてまゆとのんびりする。そして体が熱を持ったら海に入って冷やす、というサウナでの整い方みたいな楽しみ方で海を満喫した。
海水浴場って人間を社交的にさせる効力があるのか、それともオレたちがものすごく退屈しているように見えたのか。全然知らない4人組のお姉さんたちに、ビーチボールで遊ぼうと誘われて波打ち際で遊んだりもした。全員ビキニ姿だったのでボールをレシーブしたりする時に大きな胸がポヨンポヨン揺れていたけど、元男なのに残念ながらなんにも思わなかったことになんだか色々と胸をよぎるものがあった。
まぁ最初の頃は男に戻りたいと思っていたけど、もうすでに今の自分を受け入れているからなぁ。可愛い彼女もいるし、ちょっとトラウマを抱えたけど好きなバスケも続けられている。十分に幸せな生活を送れていることを思えば、これ以上を願うのは贅沢というものだろう。
1時間ぐらいお姉さんたちと遊んで、彼女たちは満足したのか楽しそうな笑顔で駐車場の方に引き上げていった。自分たちの車があるっていいよね、そこで着替えたり休憩もできるし。
オレたちが子供の頃も急に天気が変わることってあった記憶があるけど、最近はその頻度が上がっているような気がする。さっきまでものすごく天気が良くて太陽の光がギラギラと熱く地上を照らしていたのに、少し風が冷たくなって空を見上げると黒ずんだ雲が空を満遍なく覆っていた。
「わぁ、一雨来そうだね。水着だから濡れても大丈夫だけど、いつの間にか時間も結構経ってるし更衣室に戻ろうか」
「そうですね、まゆ先輩と色んな話もできて楽しかったですし」
「せっかく海に来たのに、ずっと喋っちゃったね。ひなたちゃん、泳いだりしたかったならごめんね」
そんな風にまゆが気を遣ってくれたけど、相変わらず体力がないオレはもう結構クタクタだ。ほとんどのんびりとしながら、まゆと話していただけだったのにね。人の視線とか熱さで体力がいつの間にか奪われていたとかそんな感じだったのかもしれない。
クッション代わりになってくれたイルカのフロートを返却して、さっきは下りだった坂道を上っていく。すると頬にポタッと大粒の雫が当たった。それを皮切りに大粒の雨が容赦なくスコールみたいに地面を強く叩くように降り出してきた。
「ひなたちゃん、走るよ!」
「はい!」
まゆが差し出した手を握り返しながら、ふたりでホテルを目指して駆け出す。まゆに引っ張ってもらえたからか、普段よりも速く走れているみたいで短い時間でホテルの敷地内に駆け込むことができたのだった。




