54――空気が読めない大人
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パチンパチンと壁のスイッチで監督が部屋の電気を点けると、折りたたみ式の長机の上にポツンとノートパソコンが置かれていた。
「ひな。ほい、パイプ椅子」
「ありがとうございます」
監督が持ってきてくれた折りたたまれた状態のパイプ椅子をオレが受け取ると、監督は『ちょっと待っててな』と言いつつパソコンの前に自分の椅子を置いて座り、電源をONにした。
何やらマウスをカチカチとしながら作業をしている監督をチラ見しながら、オレも自分の椅子を広げて座る。ぼんやりと監督の肩越しにパソコンの画面を眺めていたら、何やら森の中の泉みたいな写真が映った。
『お待たせしました、こちらの声は届いていますでしょうか?』
急に大人の男性の声が大ボリュームで聞こえてきて、ちょっとびっくりした。監督が慌ててボリュームを下げつつ、焦ったように返事をした。
「ごめんなさい、聞こえています。ちょっとセッティングが間に合っていなくて、申し訳ないです」
まるで普通の会社で働いている大人みたいに敬語で話す監督を見て、この人って敬語とか使えたのかと変な感慨を覚えた。普段オレたちに対する言葉遣いって乱暴というか、ちょっと男っぽい感じだからてっきり取り繕ったりするのが苦手なんだと思ってたんだよね。
『いえ、こちらが無理を言って時間を作ってもらっているんですから』
男性が慇懃な感じでそう返したのを聞いた後、うちの監督がオレに代わる旨を伝えて椅子から立ち上がった。ええっ、もうオレが話すのか? 生まれてから男だった頃も含めて直接顔を合わせての会話なら何度も機会はあったけど、電話で大人の男の人と電話したことなんてほとんどないからちょっと緊張してしまう。
「……監督、この人は?」
「あっちのチームの監督さん、まぁそれだけわかっていれば十分だろう」
パソコンからちょっと離れたところで監督に小声で聞くと、そんな言葉が返ってきた。うーん、監督はあんまりこの人のこと好きじゃないんだろうな。それがわかるぐらいに社会人としての建前と監督個人の本音の温度差をすごく感じる。オレが適当に話を聞いた後で謝罪を受けて、とっとと席を立ってくれればそれでいいとか考えてそう。相手の監督さんの声ってなんかわざとらしい抑揚があって、なんかこっちを見下している感じに聞こえる。あくまでオレが勝手に感じた印象だけど、謝りたいと言っているのにそういう雰囲気がひしひしと伝わってくるから、同じようにそういうのを感じ取ったんだとしたら監督が不快に思っていても仕方がないと思う。
「あの……河嶋です」
監督と入れ替わってパソコンの前の椅子に座り、とりあえず名乗ってみた。相手の姿は映ってないから電話みたいなものだし、『もしもし』でもよかった気もする。
「ああ、河嶋さん。今日はお時間をもらって申し訳ない、ちょっと待ってね」
パソコンの前にいるのがオレだとわかったからなのか、ちょっと声のトーンが上がった気がした。なんだろう、喋り方からちょっと媚びるような響きを感じるのは気のせいだろうか。相変わらずきれいな景色を写した写真が表示されている向こう側で、『ガタン』と物を動かすような音とか『ギギ―』という椅子が床を引きずられる音がした後でやっと画面が切り替わった。でもその景色がおかしくて、なんか床に土下座したおじさんが見える。薄くなった頭頂部に、部屋の蛍光灯の光が鈍く反射していた。
「この度は我が校の南がとんでもないことをした! この通り、伏して謝罪させて欲しい!!」
スピーカーがビリビリと震えるほどの大声で、画面の中のおじさんは言った。声からしてさっきウチの監督と話をしていたあちらの監督さんだと思うんだけど、なんか最初にガツンとやって話の主導権を持ちたいという思いが伝わってくる。いや、オレがそう感じただけなんだけども。
微妙に画面が揺れたり動いたりしているところから、ノートパソコンを持っておじさんを映している人がいるのだろう。呑気に撮影してないでおじさんの行動を止めて欲しい、そう思いながら口を開いた。
「とりあえず話ができないので、土下座止めてもらっていいですか?」
「おお、許してくれるのか。それはありがたい」
オレが言うと顔を上げたおじさんが笑顔でそんなことを言うので、オレはちょっとムカッとしながら殊更にこやかに笑ってやった。
「許す、許さないは南先輩と直接お話をしてからの話です。とりあえずあなたのその行動は私の判断にはまったく影響しないので、さっさと起き上がった方がいいのでは。今のあなたはただ高校生の私に恥ずかしい姿を見せているだけですよ?」
わざとイラッとさせるような口調と言葉選びをしてそう告げると、おじさんは言われた言葉を理解したのか段階的に顔を真っ赤にして怒りを顕にした。それから『伝統校である我が校を侮辱するのか』とか、『お前のせいで南の進学先として内定していた大学との関係が悪化した』だの『在校生たちの進路にも悪影響だ』などと怒鳴り出す。監督の話だとこの人から謝る機会が欲しいと言っていたはずだけど、なんというか頭に血が昇りやすいのかあっという間にキレてしまったようだ。
とりあえずこちらに非は……ちょっとだけあるのかもしれないけど、理不尽に怒鳴られ続けるのは余計にイライラとする。普通の女子高生なら萎縮して泣き出しているかもしれないが、こっちは元男子だ。こういう高圧的なおじさんには、反抗心しか湧いてこない。
「今そちらの方が言ったこと全部、私たち生徒には全然関係ない話です。そちらの学校に通ってもいない私はもっと無関係でしょ、そちらの部屋にはあなた以外の大人はいないんですか? 話が進まないのでこの人をとっとと部屋から出して欲しいんですけど」
「……了解です、少しお待ちください」
画面が揺れてガタンという音がした後、おじさんの罵声とそれをなだめる複数の男性の声が段々と遠ざかっていく。そのすぐ後にパソコンの位置を調整してその前に座ったのは、20代ぐらいの若い男の人だった。高校生には見えないので、多分コーチとか部員の指導に当たっている人なのではないだろうか。
彼は自己紹介して何度も頭を下げてくれたのだが、別にこの人が悪いわけではないしなぁ。ちなみにこの人は池谷さんと言うらしく、3人いるコーチの中で一番若い人らしい。他のふたりのコーチはおじさんを連れ出すために、ついさっき部屋を出ていったそうだ。強制的に部屋の外に出すなら若い方が力もあるしいいんじゃないかと思ったのだけど、どうやらあのおじさんのお気に入りの人がヘッドコーチらしく、連れ出された後におじさんを宥めすかすのはその人が最適なんだって。『残ったのが発言権の弱い自分で申し訳ない』なんて謝られたけど、むしろ年齢と立場がオレたちと近い方がスムーズに話が通じそうなのでむしろ歓迎したいところだ。
もうさっさと謝罪を聞いて体育館に戻りたくなっているオレとしては、池谷さんに南先輩を出してほしいとお願いした。彼は素直に頷くとさっさと席を立ってフレームの外に出ると、少し小声で何かを話しているのが聞こえた後で南先輩が姿を見せた。でも彼女は片手にハンカチを持って、それを嗚咽を漏らしながら自分の目元に当てていた。年上だけどいきなり泣いている女子が目の前にあらわれて、困惑せずにはいられなかった。何故彼女が泣いているのか全然理解ができなくて、オレは思わず小首を傾げる。
「あ、あの……今回は、本当に……」
声に詰まりながらそこまで言ったのだが、南先輩の口からその続きが出てこない。座らずに立ったまま頭を下げていたので、謝りたいという気持ちは本当なのかな。少なくともあのおじさんに言われて、無理やりやらされている感じはなかった。
「南先輩」
オレが普通に呼びかけただけなのに、彼女はまるで急に驚かされたようにビクリと体を震わせた。ここまでの反応をするのは、正直異常だと思う。今のままだと会話すら難しいんじゃないかと感じたので、池谷さんに呼びかけて南先輩を椅子に座らせてもらった。そしてそのまま彼女の後ろに立ったままでいて欲しいとお願いすると、彼は快く了承してくれた。まぁ自分のところの生徒だしね、コーチの彼が面倒を見るのは当たり前だとは思うけど。うちの監督が女性だからなのか、なんとなく彼ら指導陣の気の利かなさが目に入ってしまう。無意識に比べているのだろうか。
「とりあえず、お話から始めませんか? 少なくとも私は、先輩に対しては別に怒ってないですし」
頑張って笑顔を作って言うと、ほんの少しだけ先輩の体から力が抜けたような気がした。でもまだまだガチガチだし、緊張してるんだろうなというのがひと目見てわかる。
ちょっと長くなりそうだなと思いつつ、オレは話を切り出すための第一声は何がいいのか。脳をフル回転させながら、話題を必死に探すのだった。




