第3話 舞い込んだ朗報
「あんた…床に座り込んでなにやってんの?」
「…………………………………い、いや、なにも?」
てめぇのマスカラが転がってたんだよ!片付けろよ!
―――とは思っても、実際のところてめぇのての字も言えないのが、京介が京介たる所以である。
あぁどうか…痛いことだけはされませんように、と心中祈る。
ふぅん…とつぶやいた姉は、なにを考えているのか、あるいは何も考えていないのか。
…数秒京介の顔を見つめ、それから「うっふふぅ〜」と笑った。
「…え゛」
ソファーの上からうつぶせのままで、頬杖をついてこちらを上機嫌に見つめている美歌は、はっきり言って気持ち悪い。
―――京介は座ったまま、後ろに後ずさる。
―――美歌は笑ったまま、立ち上がる。
まずい、と思ったときには遅かった。
次の瞬間姉―――美歌は、京介に向かって飛びかかっていたのだ。
「うわっ」
ドスン、と美歌の体重―――推定51キロ―――が、京介の体にのしかかる。
「京介ぇ〜」
「なんだよ…酒くさっ」
「なによーいいじゃないたまには。せっかくいい気分なんだからさぁ」
「いい気分ってどうしたんだよ。姉ちゃんが酒飲むなんてめずらしい」
とりあえず、不機嫌ゆえのアルコールではなかったことにほっとする。
「あのねぇ〜、私結婚するから」
「………………………………………………………………………………はい?」
「だからぁー、結婚するの。プロポーズされちゃった」
そう言う姉は、終始ニコニコと笑っている。
プロポーズって…。
「あの、3年付き合ってる彼氏!?」
「そーそー。今日、珍しくあのボケボケ男がちゃんとした店に予約してるもんだから、それだけでもびっくりしてたんだけどねー。ご飯食べてる最中にいきなりね。思わずどっきり?って聞き返しちゃったもん」
―――それもそれでひどい返しではないかと、京介は思う。
「それでべろんべろんなわけ?」
「それでべろんべろんなわけ〜」
未だ自分の上から退かない美歌を呆れた思いで見ながら、それでも京介はほっとした。
よかった…こんな凶暴な女の引き取り手があって。
大体にして、自分は昔から姉に使われすぎなのだ。肩を揉め、だのジュース持ってこい、だのオマエにチャンネル権はない、だの。
ほんのちょっと遅く生まれたからって、なぜここまで下僕扱いされなければならない。
幼少時からそんな不満を抱いていた京介は、ようやくこの姉の呪縛から逃れられそうなことに、心底嬉しくなる。
もちろん姉の結婚自体も嬉しいのだが、その大きさははるかに下僕から解放されたことの方が勝っていた。
「で…これからどうすんの」
「んふふー、とりあえずねぇー、私はここ出て彼氏の家に行くから。京介、あんた一人でここ使いなさい」
「…へ」
「あんた前から一人暮らししたがってたじゃん。いい機会でしょ?」
…元々、なぜ21歳の京介が26歳の姉と二人暮しをしていたかというと、今の大学に通うためだった。
実家から離れているものだから通学なんてできず、当時すでにこっちで働いて一人暮らししていた姉を頼ったのだ。
「そりゃ嬉しいけど。父さんと母さんには言った?」
「まだ。どーせあいつは親ウケいーんだし大丈夫っしょ。ってことで私寝るわ。テーブル片づけといて」
「は!?」
思わず叫んだ。
…話は理解したが、なぜ自分がテーブルを片づけることになるのか、その論理展開が分からない。
「い、異議あり!!」
「却下」
「なんでだよ!待った!」
「待たない。寝る」
「姉ちゃん!」
「何よ」
「け…、結婚おめでとう」
「………―――」
てっきり文句を言われるとばかり思っていた美歌は、不覚にも一緒きょとんとする。
見れば、弟は気恥ずかしそうに目を伏せていた。
―――これだから京介って、いじりたくなるのよね。
近くによって、頭をグシャグシャとなでくりまわして。
「なにすんだよっ」
「…ありがとう」
美歌は、めったに見せないやさしい笑顔でそう言った。
「………おぅ」
「それからね、京介」
「ん?」
―――だから京介は、油断していた。
「寝てるお姉さまを起こすんじゃねえ!!」
はっ、と思ったその時には、頭頂部にげんこつが落ちていて。
「いってぇ!」
…………そう。
深山美歌とは、こういう人間だった。