第29話 けじめ
翌日は皆してがっつりと寝坊して、目が覚めたら昼過ぎだった。
コウが起床してみると部屋の主はベッドの上でごろごろしながら携帯を触っていて、まみは未だ布団を被って幸せそうにしている。
友達の家に泊まって、翌日もだらだらと過ごすという休日の過ごし方は今まで知らなかったのでなんとなく黙って空気を楽しんでいると、コウが起きたことに気づいた一ノ瀬が声を上げた。
「あ。コウ起きた?おはよう。よく眠れた?」
「うん、いろんな意味ですっきりした」
そりゃよかった、と笑う一之瀬との会話をふと反芻して、昨日からお互い名前呼びになったことを思い出す。
「まどかちゃん」
「んー」
「あたし…結構まみちゃんとまどかちゃんで、人生初の体験いっぱいしてるかも」
なにげなくこぼした言葉だった。しかし直後に一ノ瀬が噴出する。
「ぶっ!それって―――コウの初めては私らがもらうってことでいいのかな」
「そっ、れはまたなんかニュアンスが!」
客観的に聞くと結構な破壊力である。
「まま。そーいうことでいんじゃない。ね、まみー」
「うむ。大いに賛成」
「まみちゃんいつから起きてたの!」
「今だよ今。てか、あーもー先輩コウに変なコトしたらタダじゃおかん」
「あんた、それはこっちが昨日『触って確かめろ』的なハッパかけたのに深山さんにとっちゃ酷でしょうよ。だが大いに賛成」
「まどかちゃんまで何を」
話が激しく脱線している。
アホなやり取りを一通りしていると、そのうちにコウは自分がかなり空腹であることに気づいた。そういえば昨夜バイト前に晩御飯を食べてから、今まで何も食べていない。
「ご飯食べたい」
ほぼ無意識に欲求が口からまろびでた。
「おー。なんか、コウの口からあたしたちに『○○したい』って言葉でるの新鮮」
「そうだねえ。どっか食べに行こうか。うーんと、コウ…ってか深山さんちがこっから学校はさんで反対側だから、中間地点になる店行こうよ。そしたらコウはそのまままっすぐ帰りやすいし。まみ、それでどう」
「異論なーし」
「じゃ、あんたは着替えてきて。30分あればいいっしょ?」
あれよあれよという間に事が進んだ。一ノ瀬宅の洗面所やら何やらを借りて、一通り身支度を整えたコウは、居間に居た彼女の母親に挨拶をして、家を出てきた。すぐにまみも合流して電車に乗り、2駅目で降りて学校近くのお手頃価格な店に、ぎりぎりランチの時間に滑り込む。
メニューを覗くとオムライスが売りのようだ。
「どれにしよっかなー!一ノ瀬どれ食べる?」
「えー私は…」
二人がきゃいきゃいと品定めをしている声をBGMに、コウはじっと写真つきのそれらを眺める。
―――オムライスには特別思い入れがある。京介がはじめてコウに作ってくれた料理だ。ぼろぼろ泣きながら食べたことは記憶に新しいし、それを受け止めてくれた京介の言葉も覚えている。
唐突に、早く帰らなければならないような気持ちになった。
―――京介。
「コウ?どうかした」
気づけば二人が不思議そうな顔でこちらを窺っている。
「ごめん、ちょっと考えごと」
「…先輩のこと?」
まみが苦笑する。
「食べたらまっすぐ帰りな。ただでさえ膠着状態なのに、無断外泊だからきっと半狂乱だよ」
その後は他愛もない話をしながら、それぞれが頼んだオムライスを食べた。さすがプロが作った料理はクオリティが高くておいしかったが、あの日食べたオムライスの味には到底及ばなかった。
…足りない。
卵がうまくいった!と子どもみたいに喜んでいた京介の笑顔と声が、やたらに脳裏に浮かぶ。
「じゃあ、ふたりとも、昨日からほんとにありがとね」
「いいっていいって」
「健闘を祈る!」
店を出たら外はもう暗くなっていた。当たり前だ。12月なのだから日が落ちるのは相当早い。
気をつけて帰るんだよ、という一ノ瀬の言葉に頷いて、コウは家の方向に向かって歩き出す。しかし数メートル進んだところで、すぐに呼び止められた。
「―――待って、コウ!」
え、と振り返ると、分かれたばかりのまみが走ってこちらに来る姿が見えた。その手に、見覚えのあるものが握られている。
「これ…ッ」
眼前で勢いよく差し出されたそれは、
―――傘だった。あの日に貸した、水色の、折りたたみ式の。
「これ…返すの遅くなって、ごめん。返そう返そうと思ってたのに、なかなか返す機会なくて」
自分より幾分背の高いまみを見上げながら話を聞いていると、まみが一瞬で今にも泣きそうな表情に変わる。
「あぁ、いや、ごめん。違う、そうじゃなくて…」
「……」
「―――返したくない、って気持ちがあったんだ。だってそれは、唯一あたしの傍にあった好きな人のものだったから」
「……」
「だけど、その人にとっちゃそれはあたしにじゃなくて、コウに、って渡したもので…だから、」
まみは一瞬俯いて言葉を切る。瞬間顔を上げて、
「これで本当に終わりにする。あたしがあたし自身の意思でそうしたいと思うから、そうする。昨日言った気持ちは全部本当で、だからコウも自分の気持ちにうそつかないで、コウがしたいと思うことをして。
深山先輩に、よろしくね!」
それだけ一気に言うと、まみはまた走って一ノ瀬の下へと戻っていった。途中一度振り返って、往来であることなど関係なく「頑張って自分の気持ち確かめるんだよー!」とぶんぶん大手を振っていた。
コウはそれをただ見送った。暗い冬道はすぐに二人の姿を隠した。
一人で家への道を歩きながら、混沌とした感情で視界が滲みそうな自分を叱咤する。なぜ涙が出るのか分からない。だがこれだけは分かる。
今泣くことが許されているのはあたしじゃない。だから泣くな。
泣く権利があるのは他の誰でもない、まみだけだ。
―――沈黙だけが、許された解答だった。ごめんもありがとうも、昨日のような全員飽和状態でならまだしも、あの場で言葉にしていたらその瞬間告白されている側とそうでない側とで優劣がつく。そうなったら自分は何様だ。それでもそんな陳腐な言葉を言いたくなるのは、所詮こちらの傲慢でしかない。
だからコウは何も言わなかったし、分かっていたからまみもそれ以上の反応を求めなかったのだろう。
受け取った傘を握り締める。家はもうすぐそこだ。