第2話 酔いどれな姉
京介がバックルームに引き上げると、一足先に退勤していた同僚が着替えている最中だった。
黒縁めがねがトレードマークの彼は、おとなしく真面目そうな印象を与えていながら、はっきりな物言いをする人物である。
その同期―――小澤遼は、視線を一瞬あわせた後、静かにこう言った。
「おつかれ。さっきの子―――彼女?」
…京介はあまりに予想に反した言葉だったので、思わず声を失った。
頭の中で二回、セリフを反芻してみる。
カノジョ…カ、カノジョ…。
「そっ―――んなわけあるか!!だれがあんな非常識なやつ」
「そう?それにしては会話のテンポがよかったから。とても初対面には見えなかった」
淡々と言う遼に、京介はまたもや絶句である。
「あ…ありえないだろ」
「ありえないの?」
「ありえねーよ!」
遼は、一瞬視線をあらぬ方向へ向けた。
「大変そうだね。深山いつも怒鳴って疲れない?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ、」
京介はまた怒鳴りそうになるのを、ごくんと空気ごと飲み込んだ。
―――おまえも要因のひとつだっつーの!!
家への帰路を辿りながら、京介は深いため息を吐いた。
吐いた息が白くて、思わず何度か吐いて吸ってを繰り返す。
なんだかやたら疲れた気がして、気分転換にでもと歩きながら冬になりかけの夜空を仰いだ。
―――あ、オリオン座。
……まぁ、オリオン座しか分からないのだけれど。
それでも、360度満点の星空は、やっぱり慰めというか…癒しにはなる。
星がちりばめられた空を見ながら、なんとなく今日来たおかしな客を思い出した京介は、また明日も来たらどう対処しよう、なんて思った。
―――少しばかり考えてみて……今日はもう考えないことにした。
考えたらきっと、めんどくさいことになるから。
「ただいま…、!?」
姉と二人暮らしをしているアパートに着いた京介は、扉を開けると固まった。
―――一体なんなのだ、この惨状は。
…お情けのような広さの玄関には、ヒールの高いブーツが転がっている。
居間までの短いフローリングの廊下には、脱いでそのまま散らかしたような洋服が、散乱。
次いで、恐る恐る居間に足を踏み入れると―――そこには、ソファーにぐでっと寝ている姉、美歌の姿があった。
見た感じ、酔っている。
い…一体何があったんだよ。
恐怖政治に近い形で上下関係ができているこの深山兄弟では、弟が寝ている姉を起こすなど、考えられないことだった。
その上、綺麗好きな姉がここまで部屋を汚くするのも、ありえないことだった。
従って―――何かそれほどのことがあったに違いない。
そう考えた京介は、一つの結論をはじき出した。
…………触らぬ神に、たたりなし。
そうと決まればさっさと引き上げよう、と素早く踵を返す。
しかしその瞬間、床に転がっていたマスカラ―――おそらく、いや絶対美歌のものだ―――を踏んでしまった彼は、そのまま盛大に転んだ。
ドタッ、と派手な音がたつ。
や…やっべえぇぇ!!今ので絶対起こした。殺される。制裁される…。
息をつめて後ろのソファーを振り返れば―――。
「んー…京介ぇ…?」
耳に届くのは、悪魔の声だ。
京介は、美歌に首を絞められる自分が頭に浮かんだまま、動かずに―――いや、動けずにいた―――。