詩情
あれからどれくらいが経っただろうか。
その間僕は何をしていただろうか。
何か忙しかった気もするし、一方で何も残らなかったという気もしている。
あなたがこの詩集を見るのは何によってだろうか。いずこの縁が僕らの間を結んでいったのだろうか。
さて、この詩集を書いた頃は、僕はまだ独力で詩を書くということが出来ず、音楽の力を借りて、詩を書き出していました。そして細やかながら残ったのがこの詩集です。
ところで私は創造力のよい方でして、私の心には映画のように映像が浮かび(上がることがあり)、そして私の意志でほんの少しその映像を動かして見ることが出来るのです。今にして思えば、おもむろに映像が自動で流れることもあるので、それを人は「空想に耽っている」とか「妄想している」というのでしょうけれど、僕はこの空想力、創造力をこそ、詩作に用いるべきでした。
しかしまだ僕には、僕の素の部分を表現する勇気がなくて、いつも静かな動かないヴィジョンを詩にしています。いや、少し違いますね。もっと正確に言うなら……。言葉だけで、言霊だけで、どこまでヴィジョンが広がるのかという実験であったと思います。今の自分が振り返って見るとそうなんですね。
自分が潜在意識的に実験を、言葉と印象(イメージやヴィジョン)の実験をしていたということです。それはもう一つの詩作のペンネーム、荻野ケヴィンを見てもらってもわかることと思います。そちらはnoteにあります。僕のプロフィールから飛んで行ってもらいたいですね。
そしてこの詩集には水と羽の印象が強かったので、そのようなタイトルを付けました。
水と言えば、僕はそろそろガストン・バシュラールの『水と夢』を読まなくてはならないかと思います。水ってやっぱりよく詩に出てくるから。
それじゃあ、ここまで読んでくださり、ありがとうございました。