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肉食

作者: つで


「急に転勤になったんだ」

 夕飯の支度途中、と言ってもスーパーの惣菜を並べただけの、博人はやけに気の

抜けた声を投げかけた。

「テンキン?」

 私はとっさのことで転勤という言葉が浮かばなかった。

「うん。広島にね。支社の拡大で人員がいるらしいから、呼ばれたってわけ」

 シュルシュルとネクタイがシャツから滑り落ちる音がやけに鮮明に聴こえた。

 広島かあ…広島って、地図で言えばどの辺なのだろう。小学校の地図帳で、県庁

所在地を赤い丸で囲った記憶がある。さて、それ以来広島について触れたことの

ない私が、一体どれくらい広島の特徴を述べられるのか…。

 冷え切った唐揚げをレンジで温めなおそうと思っても頭の中の「広島」が邪魔を

する。これから唐揚げを食すことではなく、広島について一刻も早く知る必要が

あるのではないか。


「じゃあ、このマンション、どうするの?」

 私は思考回路が広島一色になった頭で、ようやく唐揚げをレンジに投入した。

「あー解約かなあ。しばらくもどってこれないし」

「解約…」

「まあ、こういう時のためにお互いマンション借りていてよかったな」

 あっけらかんとする博人は、昨日の博人より全くの別人に見える。昨日までは、

あれほどこの土地、このマンションの住人であったのに、広島へ転勤すると口に

した瞬間から広島の住人にでもなったのか。

「美幸も、こうやってメシの用意がなくなれば仕事やプライベートも充実するよ

な」

 仕事は小さな鉄鋼所の事務で毎日伝票整理と月末の給与明細作成の繰り返し、プ

ライベートには一切博人につぎ込んできたこの身に、今後どうすれば充実するのだろ

うか。


 博人へ殺意にも似た感情が沸く。


 今年は三人の友人が結婚した。全て披露宴が同じ季節に重なり、招待状が三通揃

ったときは今まで感じたことのない屈辱により叫び出したくなった。


 新郎、新婦の年齢が上がったのは招待状からでも見てとれる。女性陣が全員二十七歳

、男性陣は二十七歳から三十歳の間。しかしおめでた婚とは違い、新婦たちは相手をよ

く見極めて結婚を決意した様子が表れている。銀行員、市役所職員、製薬会社と揃い

もそろって新郎の身持ちが固い。三十歳前になると大恋愛よりも無難な線を選ぶもの

なのね、と鼻白んだが、いざ式に参加すると新婦は皆、成熟した女性としての幸せを掴ん

だような眩しい、でも、少女のような笑顔で微笑んでいた。


 私は式に参列して初めて、「結婚」という形のない脅威を味わった。

 それ以来、結婚という言葉が日に何度もちらつくようになったのだ。

 テレビのコマーシャルや結婚のハウツー雑誌、カレンダーの大安までもが目に留まるのだ。この世にこんなにも結婚が溢れ返っていたなんて今まで気がつかなかった。


「広島まで、五時間かあ」

いつの間にか部屋着になった博人は駅で無料配布している時刻表をめくる。

博人の三十五歳という年齢はさほど気にしたことなどなかった。


 しかし三十代前半では許されていたことが後半にさしかかるとだんだん許されなくなるこ

とだ。

 セックスが下手くそなこと、部下を集めた飲み会での無茶な若作りで頑張

ること、そして独身ということ。


 博人は残念ながらどれにもヒットしている。彼女としては非常に悲しい。しかし

、だからと言って嫌いになれない。それは、博人が彼氏だからだ。

もちろん他人から見れば魅力でも何でもないところが、私には大切な宝物にみえ

る。まさしく惚れた者負けとはこのことだ。


 上下スウェットのだらしない男性を目の前にして宝物だと思う私は一体何なのだ

ろう…そんな私だって料理すらできずスーパーの惣菜をチンする三十路目前女で

ある。惣菜のパックを燃えないごみに分別する。

 何て、釣り合いのとれたカップルなのだろう。


 二人は、宇宙から見ればチリにも満たないのに、お互い試行錯誤や駆け引きしながら

生きている。そして今、宇宙から見ればミリセンチにも満たない距離が隔たり、

別れようとしている。宇宙から見れば、お互い微動だにしていないのに、

宇宙より遠い広島に博人は行ってしまう。

 別れを目の前にした、甘美で不安定な時が早足で過ぎていく。この瞬間を繰り返

す度に女としての絶好期が遠のくのは分かっている。それでも、私は凛としてこの時を実

感するのが宿命なのだ。


 ピピピとレンジが合図する。ぬくぬくの湯気とできたての香りを再現した唐揚げ

はいつも通りで無性に落ち着いた。


「引っ越しはいつなの?」


「来週中かな。早ければ早いほどいいみたい」


熱い唐揚げは音もなく博人の口で砕かれる。唐揚げは揚げたてじゃないとな。今

日はいつも聴こえない音がよく聴こえる。


テレビでは南アフリカで生きるライオン親子の特集が流れている。


 二人は食い入るように番組を見つめる。お互いテレビに助けを求めている。

 メスのライオンは狩りに出て、オスのライオンは滅多に狩りをしない。オスは日陰で悠

々としている。メスは一頭の草食のガゼルを追い回して、喉に噛みついて仕留める。あ

とは家族の元へ肉を運ぶ。


 肉食女。


 ふと脳裏に浮かぶ。


 目の前には、今まさに遠くへ逃げようとするガゼルが一匹。


 私は肉食女。さながらライオンのメス。このガゼルを狩ることは容易い。








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― 新着の感想 ―
[一言]  おもしろい、続きを読みたくなる。タイトルもいいですね。実際、独身女性がどの職場も多いです。ガゼルは博人ですか。いいねえ。  きっと、私の影に尻尾が映えて、唸り声がきこえるかも。
2009/08/31 11:20 退会済み
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