3話 後編
夏の放課後はただでさえ暑いうえに、運動部の特に野球部の声やバットの金属音が温度を底上げするように感じる。テスト期間だというのに自主練しているのかその音が鳴りやむことはなく、教室に残った生徒たちをうならせていた。
とは言え、実際に教室にいる生徒はまばらで、皆クーラーの効いた自分の家やファミレスで集まっているらしい。当然と言えば当然だ。
「なんでここでやってんの? 意味あるわけ?」
金杉智香がうちわで顔を仰ぎながら何度目かの文句を言う。その意見に賛同したが、彼女たちに勉強を教える者がかたくなに却下し続けていた。
「それではダメなのだよ、金杉。この熱に、暑さに耐えなければ意味などないんだ」
ふ、と髪をかき上げ厳造寺桃介は語る。
「今、他のものは涼しい環境で勉強しているだろう。それが悪いこととは言わない。だが、しかしだ。本番はこの教室で迎えることになる。この熱気で集中できる力を得た我々と、自室でぬくぬくと――もとい、冷え冷えと勉強する奴らとの戦力差は歴然なのだ。それがわからんのかね」
「もとい、って言うやつ初めて見たわ」
厳造寺の言葉を智香はうちわと一緒に仰いでいた。先ほどから雑談が多くなっている。それを注意するほどのやる気が他の参加者には残っていない。
「今日はもうやめにしないか。このまま続けてももう集中力がのこってねぇって」
「そうだね。あたしも疲れちゃった」
立ち上がり提案する朝太に葵が賛同した。暗くはなっていないが、時間はもう五時を回っている。張り切っていた厳造寺も流石に電池切れなのか、あっさりと承諾した。彼の作戦に絶対意味はないと思いつつ、智香は帰り支度を始める。
智香が言い出したこの勉強会だが当の本人は付き合いでの参加であり、身が入っていなかった。葵が常山――常山朝太に近づくための策略であり、智香としては二人で勝手にやっていてもらうのがベストなのだが、なりゆきで加わっていた。
そもそも勉強することが嫌いな智香にとって、こうでもなければやらなかっただろうなとも思う。
「やっぱ絶対涼しいとこでやるべきだって。明日からは違うとこでやろうよ」
しかしだな、と眼鏡を上げる厳造寺を制して葵が助け舟を出す。
「そうだね。厳造寺くんの教え方上手なんだから、涼しいところでやったほうがもっと身に入ると思うな」
葵の言うことはもっともである。教え役として勝手に参加している厳造寺の指導は確かにわかりやすく、いつもより理解が早い気がするが、熱気と合わせて集中が乱れてトントンだと思わざるを得ない。
「もともと優秀な松川にそう言ってもらえるのは実に光栄だ。君は文武両道という言葉がよく似合うね。それに比べて常山と金杉……。二人は少し前の単元からやり直す必要がありそうだ。明日までに予習してくるように」
先生かよ、指摘された二人で悪態をつくが厳造寺は意に介さない。
「涼しいところでやるなら今日のように文句も言い訳も受け付けられないからな。覚悟して臨むように」
どうして勝手に入ってきた源道寺が決定権を握っているような素振りを見せているのか疑問が浮かんだが、教室での勉強会がなくなったことに安堵し智香は深く追求しなかった。
ダラダラと暑さと疲れでうなだれて歩いていると窓際でグラウンドを眺めていた女生徒たちの話声が聞こえる。
「変質者、まだ捕まってないんだってね。こないだ二組の子が会ったって言ってて」
「マジ? 裸で追いかけるとかってヤツでしょ。その子かわいそすぎ」
例の変質者についてのウワサが広まっている。曰く、ロングコートを着ていて、裸を見せてくるとか、笑いながら追いかけてくるとか、塀を軽々飛び越えるとか、内容が色々と聞くところで変化している。
しかし共通しているのは、女性、特に若い女の子を標的にしている事。
智香の背に暑さとは別の汗が垂れたように感じた。その寒気を払うようにつぶやく。
「警察も何してんだか。ちゃっちゃと怪しいヤツかたっぱしから捕まえていけばいいじゃんね」
そうともいかんさ、といつの間にやら先導していた厳造寺が反論した。
「一応職務質問という形で警戒はしているだろうがな。おいそれと逮捕とはいかないものなんだよ」
くるりと振り向き後ろ歩きを始める。速度が変わらない彼を見て意外と器用だな、と智香は感心した。
「……怪しいといえば、だが。常山、昨日の夜何してた?」
「は? おれ?」
「そうだ。お前昨日の夜中、出歩いていただろう。君は塾には行っていないし、今週はアルバイトだってないはずだ。それなのにコンビニもない住宅地あたりでうろうろとしていたな。しかも隣にいた金髪のおん――」
「ああ、男同士の大切な相談があるんだった! 悪いけど先に帰っててくれ! また明日頑張ろうな!」
ラリアットの要領で厳造寺の首に腕をひっかけ朝太が駆け抜けていく。厳造寺がその腕
をタップしているのを見ていると、瞬く間に廊下の角に消えていった。
「何アレ。今あいつ女って言ってなかった?」
「さ、さあ」
言ったものの確かに聞こえた。金髪の女、という言葉が。
話しかけた葵はどう考えても動揺している。恐らくこのあたりの金髪の女の心当たりでも探しているのだろう。
この学校にはいないし、たぶんこっちより年上の可能性があるな、と智香も思案していると、葵は完全に歩みを止めて床を眺めていた。
背も高く、部活で活躍する姿を見た一部の女子から男前だとか噂される葵は、今はただの恋の不安を抱えた少女に過ぎない。
「こりゃ女同士の大切な相談するしかないね」
智香はなるべく優しく葵の肩を抱いた。
――
コンビニで買ったアイスを食べつつ葵の話し相手になっていると、あたりは夕焼け空に変わっていた。
「ごめんね、智香ちゃん。遅くなっちゃった。また明日」
涙目のまま自転車に乗って帰っていく葵を見送る。
葵はいい子だ。
気が弱いところもあるが、芯が真面目で強い。そして自分のような同性に嫌われているものにもわけ隔てない。好みのタイプだけは理解できないが。
智香は自分の事をぼんやりと考えていた。
恋愛経験が豊富で頼りになる、と葵は言うがそんなことはない。確かに今まで交際してきた人数はある程度いる。だがそれが本当の恋愛なのだろうか。葵のようにひとつの恋に一喜一憂することは正直言ってなかった。
惚れたはれたの話は好きだ。他人から聞くのも嫌じゃない。でも、自分の求めたものとは何か違う。その違和感がいつも押し寄せて交際をやめることが常だった。
家路とは少し離れた道を歩き土手沿いの道に出た。
暗くなる前に帰らないといけないのだが、智香には少し用事があった。石でできた階段に腰を下ろして水面に映る夕日を眺める。
河原のどこからか鈴虫が鳴いているのが聞こえた。呼応するよう、相手を求めて音色を奏でる虫たち。田舎に住んでいるからといって皆が虫が得意ではないが智香はそこまで虫が苦手ではなかった。
しかし虫の事を考えると思い出してしまう。少し前に別れた男の事を。
交際期間はひと月程度だった。短い間の中で、彼と過ごした思い出は印象のいいものはあまりない。むしろ逆で、いいところと言えば顔ぐらいだった。
思い出して気分が暗くなる。気が付けば視線は足元の蟻をみていた。懸命に食料を運ぶ行列は草むらに続いている。
友達付き合いにも口を出し、束縛が強い印象があり、それが原因で何度か口論になったことがしばしば。それも確かに嫌な部分ではあったが、もう一つ、どうしても耐えられないことがあった。
それは彼がためらいもなく蟻を踏み潰したこと。そんなことはよくあることだ。道を歩けば知らぬうちに踏みつけることは往々にしてありうる。
しかし彼は笑いながら何度もそれを繰り返した。子供のような無邪気さと違う、ひりつく笑い。智香にはどうしてもそれが受け入れられなかった。だからその場で別れを突き付け逃げるように帰った。それから会ってはいない。
ふと気が付くとあたりが暗くなってきている。コンビニで買った缶詰を開けそっと中身を出した。蟻たちは缶詰に気づいたのか行進をそちらに向けた。
ふ、と息を吐き意を決して腰を上げる。真っ暗になる前に帰らなければ。
自宅の前の道はすっかり暗くなっており、ぽつぽつとある街灯だけが夜道を照らす標となっている。智香はできるだけ早足で歩く。
――しかしその足音と重なるように聞こえる足音が響いた。
智香はぎゅっと目をつむり、かけるように急ぐ。
スピードに合わせ足音が大きくなっていく。懐の携帯電話が振動するが、相手も見ず、家の鍵を取り出した。
素早く鍵を開けて玄関に駆け込む。すぐさまドアを閉めて鍵をかけたら智香はその場でへたり込んでしまった。
携帯が鳴りやまない。恐る恐る画面をみると、相手は母親だった。安堵の息がでる。
「ごめん、気づかなくて。うん、今帰ったとこ。……わかった、気にしないでいいから。……あたしは大丈夫だから」
智香の家は母子家庭で、この家には母娘二人で暮らしている。
母親は帰りが遅くなるという。女手一つで娘を育てるため、母は遅くまで働くことが多い。一人でいることは慣れてはいるが、今日は心細かった。
自室で着替えもせぬままベッドに倒れこむ。携帯電話を操作し、葵の番号をタップしようとして、やめた。
彼女は今、傷心中だ。それにこんなことで連絡するなんてキャラじゃない。
ふて寝をしようとすると携帯電話が振動し始めた。相手の名前は非通知。智香は携帯を投げた。
ベッドに伝わる振動が電話の為なのか、自分が震えているのか、智香にはわからない。
母親にも友人にも相談できなかった。
自分がストーカー被害にあっているということを。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
葵は自転車を思い切り漕いでいた。風が短い髪をなでる。汗なのか涙なのかわからず何度も顔をぬぐう。
朝太に現れた女の影。信じたくないが、先ほどの彼の慌てようはどうみても何か誤魔化している。知られたくないことを必死に隠している。
小さいころから一緒だった。それがこれからも続くと思っていた。そばにいるのは自分だと思い込んでいた。いつまでも、いつまでも自分が隣に立っていると。
でも二人はあくまで幼馴染である。いつか彼に好きな人ができ、その人物も朝太の事が好きになればありうる話だ。葵との関係は幼馴染のまま。
悔しさが頭を駆け巡る。
自分は朝太の彼女ではない。腹を立てる権利などない。
そう思っていても胸の奥が締め付けられ、それを振り払うようにペダルを踏む。
家に着いた。日々のトレーニングの賜物か疲れはなかった。こういう女らしくないところがまた嫌になる、と陰鬱な気分でドアを開けようとしたその時。
隣の玄関から朝太が出てきた。
葵はとっさに身を隠す。今の顔を見られたくないと瞬間的に思ったからだった。
彼は制服ではなく私服に着替え、こそこそと駅のほうに向かい歩き始めた。薄手のパーカーのフードを被って。
いけないと思いながらも、葵は朝太の後をつけ始めた。
朝太は交差点に差し掛かるといったん止まり、左右を見渡す。そしてまた歩き出す。その不審な動きを葵は電柱に隠れながら見ていた。
何をしているのか。誰かを探すような素振りに見えなくもない。
「まさか、彼女……」
夜の密会。だとしたら朝太にとってこれは知られたくない事なのかも。それをこんな風に後をつけるだなんて……。葵はなんどもかぶりをふるが、朝太が見える位置を確保し続けている。
この際真実を見極めるべきだと考えた。幼馴染なら、祝福するべきなんだと。
そう考えるとまた涙があふれてきた。
と、朝太が何度目かの角を曲がったとき、彼も電柱の影に隠れた。朝太の視線の先には長い金髪をなびかせた女がいた。おそらく厳造寺の言っていた女性の事だ。
彼女は遠めからでもわかるほどに美しかった。
葵より少し背は低く、しかしすらと伸びた足にヒールが良く似合っている。出るとこは出て、締まるところは締まった完璧なスタイル。タイトな服装がまたモデルのように葵の目に映った。
完全敗北。そんな言葉が葵の頭を支配した。
勝てるわけがない。女の自分からみても理解できる、あの宝石のような女性にどうやって自分のような、男と見間違えられる女が勝てるというのか。
涙など出なかった。
ただ眼前の事実に打ちのめされるだけだった。
だが、なぜ朝太は彼女から隠れるようにつけているのか。疑問は一つの仮説にたどり着く。もしや朝太が件の変質者なのか。
まさかそんな、と葵は手を口で覆う。厳造寺は二人で歩いていたといっていたからそんなことはないと思うが、もしかしたら痴情のもつれで別れ、納得できない朝太が毎晩追いかけているのだとしたら――。
思案していると、美女は交差点の角を曲がった。
朝太がそれに続こうとしたとき、朝太の前をものすごいスピードで何かが駆けていった。肌色に見えたその影は一瞬で美女の向かったほうへ消えた。
それに反応するように朝太が駆けだした。葵は見失うわけにはいかず、角まで走って身を乗り出すと――。
そこには、全裸の筋肉質の男が美女に襲い掛かって――おらず、頭を美女につかまれていた。
何が起こっているのか理解できない。
それに町中に裸の男がいることに動転して葵は何が何だか分からなくなっていた。
目が離せずただその光景を眺めていたその時――。
「あーおいちゃん」
男の声。そして誰かが突然――葵の肩を、掴んだ。
「い、いや――」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
朝太は家に戻ってすぐさま私服に着替えて家を出た。
まさか厳造寺に見られていたとは。狭い街だ。そんなこともあるが、まさか変身した悪魔を使って囮捜査のまねごとをしているなんてどうやっても説明できない。
明日のファミレス代を出すことを条件に厳造寺に箝口令を敷いたが、資金が必要な時にこの出費は痛い。
ともあれ、大門と組んで変質者を捕まえればいいのだ。謝礼がもらえる可能性が低いのは百も承知だが、乗りかかった舟を降りるのは朝太にとっては気分がいいものではない。妹たちのこともあるし、葵の事も――。
「いや、あいつは関係ないだろ」
言いながらも今日の別れ際の葵の顔が忘れられない。いつも申し訳なさそうに笑う彼女の顔から出た、少しの違和感。
自分が、彼女を『あーちゃん』と呼ばなくしたときと同じ、悲しそうな笑顔。
中学くらいで周りの男子たちにからかわれて呼び方を変えた。彼女にも、もう子供じゃないから、ともっともらしい言い訳をしたことを思い出す。
少し暗くなってきた路地を曲がると大門を見つけた。この間の金髪の美女の姿で歩いている。歩き方や服装は母の力を借りた。妹たちが大きくなる前の楽しみを使ってしまった、と母ははにかんでいた。
何度目かになるこの刑事ごっこも、さすがに成果が出ないためテストが始まったらやめるつもりでいた。厳造寺に見つかったこともある。これ以上変な噂が付いて回る前にどうにか犯人が現れればいいのだが。
電柱やゴミ収集かごに隠れながら後をつけているが、大門の姿はすこし目立ちすぎかもしれない。変質者の狙いはわからないが、人目に付くのを避けるものだと朝太は思う。大門の姿は誰もが見とれる美女である。そんな風よりもっと地味目の姿にしたほうが良かったのかも、と。
それに変質者の実態もよくわからない。ウワサに尾ひれがついていることもあるが、すごい勢いで駆けてくるとか、塀を飛び越えるとか、姿も裸やロングコートだとか様々だった。
ロングコートは大門のことで間違いないが。
目の前の大門が角を右に曲がった。あたりを見渡しても誰の影もない。自分自身が変質者と間違われるかも、と思いつつ、角に身を隠そうとしたその時。
風と共に裸の男が朝太の目の前を通り過ぎた。
「かかった!」
後を追いかけるように角を曲がると、裸の男は金髪女の前に立ち、その筋肉を見せつけるようにポージングしていた。
「お嬢さん! 夜道は! 危険です! よ!」
この場合危険なのはこの男の脳なのだが、朝太はあまりの出来事に声を発することができなかった。その代わりなのか、大門が口を開いた。
「貴様が例の変質者か」
「変質者! ではありません! よ! ただ私は! 見ていただきたい! のです!」
一言ずつポーズを変え、街灯が男の肌を照らす。ワセリンが光を反射し、彼の笑顔を輝かせていた。
大門は律儀に下から上へと視線を動かす。ちゃんと見てあげている。
「ふむ。特段これと言ってみるべきものはないな」
「反応が! 薄いです! ね! 仕方ありません! 私はこれにて!」
男が逃げようとする。
「大門! 捕まえろ!」
大門の手が伸びる。それは女の華奢な腕ではない。悪魔の黒く、恐ろしいほど隆起した禍々しい腕だ。男の顔面を掴み持ち上げる。男は逃れようと暴れるが地に足がつかぬほど大門の腕は伸びていた。
「……お嬢さんの、その力……筋肉……。ぜひ私と……世界へ……。その前に離して……! ノウ!」
男はあきらめずポージングしている。首の太さが耐久力の表れなのだろうか。朝太は肩を落とし、駆け寄り締め上げるよう大門に指示しようとした。
が、その時――。
「いや――!」
耳を劈く悲鳴が後ろから聞こえた。
朝太の体がそちらに反応する。聞き覚えがある声だと気づく前に足が駆けだしていた。
「あーちゃん!?」
果たしてそこにはくずおれた葵と、中年男性が転がっていた。葵の目には涙が浮かび、懇願するような目で朝太を見ていた。
一瞬で頭に血が昇る。男の襟首をつかむ。
「てめぇこの野郎! 何してん……だ……?」
その男は苦悶の表情で朝太を見ると、汗まみれの顔で無理に笑った。
「ひ、久しぶりだな、朝太」
「お、親父!」
親父と呼ばれた男――常山奈津夫はそのまま気を失った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「本当にごめんなさい! 私びっくりしちゃって」
「いいっていいって。どう考えてもおれが悪いんだから葵ちゃんのせいじゃないんだって」
必死に謝る葵に、奈津夫はビールをあおりながらへらへらと笑っている。
奈津夫は日本に着いたその足ですぐ地元の駅にむかい、家族に連絡せず突然帰って驚かせようとしていた。そうやって帰る最中に見覚えのある近所の女の子が電柱に隠れて何かしていたのを発見。驚かせようとして後をつけていたのだという。
「何笑ってんの。葵ちゃんだからいいものの他の子だったら今頃奈津夫さん警察行ってたかもしれないんだから」
陽乃は夫の缶ビールを取り上げた。陽乃の膝の上にいたゆうひがテーブルに挟まれてぐえ、と声を出した。ゆうひの頭をなでながら、恨めしそうな顔で見る奈津夫へあてつけるようにすべて飲み干す。
陽乃は事の顛末を朝太から電話口から聞くと、すぐ葵と奈津夫を連れて帰ってくるよう指示した。朝太が言うに、犯人には下半身に『私が変質者です』と張り紙をし、電柱に括り付けたうえで警察に連絡しておいたという。
大門の事もあり、騒ぎになることは避けたい状況ではあった。朝太は謝礼を惜しんでいたが、それよりも葵に大門の事を説明すること、失神した父を介抱するほうが優先事項だったと話す。
「葵ちゃんすごいね! お父さんやっつけたんでしょ?」
「かっこいい……」
娘たちの言葉に葵はまたおろおろしだす。とにかく何事もなくてよかった。奈津夫はみぞおちのあたりに一発、そのまま投げ飛ばされて背中から落とされ、全身に打撲を負ったのだが陽気に笑っている。
「騙すようなことになったのは詫びよう。葵よ。しかし貴様の能力、目を見張るものがあるな」
はあ、どうも、とぎこちなく返す葵は大門の頭の角をまじまじと見つめる。
「やっぱり信じられないです。大門さんがその……、悪魔だなんて」
「ダイってつけないと怒るよ。ただのアクマじゃダメなんだって」
奈津夫の膝に乗ったまひるが、笑いつつ葵に指摘する。
からかっているそれなのだが、葵は律儀に謝っていた。
「おれもおれも。すごいもんだなぁ。なんでも願いを叶えてくれるって?」
奈津夫は上気した顔であごひげを触る。
「さっきも言ったろ。こいつ勝手になんか持ってくからやめたほうがいいんだって」
「朝太。我を指で刺すな」
「お前ら仲いいな」
どこがだよ、と息子が父親に抗議する。
「だいたい親父のせいでこいつが来ちまったんだからな。親父が面倒見ろよ」
「えー。パパ知らなかったもん。朝太くんが見ればいいと思いまーす」
奈津夫はまひるの手を掴んで掲げた。
陽乃も倣ってゆうひと自分の手を上げる。ばつが悪そうな朝太が大門を睨む光景に、陽乃は吹き出してしまった。
前回奈津夫が帰ってきたとき――思春期ゆえの反抗期だったのか、朝太はあまり父と顔を合わせなかった。自分に対してはそういう態度は見せないが、奈津夫がいない間も父親の話を避けるようなところがある。
今回に関しても変わらないのかと、少し心を痛めていたが、普通に話をしている。
朝太が成長したのか、それとも――。
「貴様ら我を子犬か何かのように言いおって……」
声とは裏腹に憤ってる様子もなく、大門はたくあんを齧る。
「しっかし不思議な縁だなあ。おれがもらってきたじゅうたんから出てくるなんて。まあこれからよろしく頼むよ、大門さん」
「うむ。慣れないことは我に聞くがよかろう」
俺の家なんですけど、とおどける奈津夫に娘と葵が目を合わせて笑っていた。
「ははは、そうだ、葵ちゃん今日泊まっていきなよ。なんなら朝太と風呂入ったらどう?」
「ええええ!」
葵は手をばたつかせ、朝太は飲んでいた麦茶を吹き出した。
「馬鹿親父! 何言ってんだ!」
息子たちの反応がよほど面白いのか奈津夫が大声を上げて笑っている。
「えー。あおいちゃん泊まってってよう」「ゆうたちと一緒に寝よ?」
父と母の膝から降りた双子が互いに葵の手を取る。その挟撃に葵は恥ずかしそうに承諾した。無論、風呂は男女別だが。
「それにしても犯人捕まえられてよかったわ。これでみんな安心ね」
「我の力添えがあってのことである。そのあたり心するように」
「そういう事言うから、お前は大門なんだよ」
大門が来てから家族が少し変わった気がすると陽乃は感じていた。
もともと仲はいい家族だ。そこに心配はない。あるとすればこれから先。任せていいのかも、という安心がほしかった。
少し酔ったかと思い立ち上がり、冷蔵庫に向かう。中にあるビールは一本のロング缶。それをテーブルに置くと、予備をとりに店へむかった。
「ハル」
振り向くとリビングから奈津夫が声をかけた。顔は紅潮していたが、目は真剣そのものだった。
「ビール、まだ飲むでしょ?」
その目から逃れるように歩き出すと、突然抱き留められた。リビングから子供たちの笑い声が聞こえる。
「なにもう、酔いすぎ」
「ごめん、ごめんな。遅くなって」
強く抱きしめられた。その手に陽乃はそっと触れる。
「大丈夫なのか? 苦しくないか?」
「……大丈夫……大丈夫」
撫でる手は震えている。それが伝播するように奈津夫の体が震えだした。
「間に合ってよかった。本当に。おれ、いるから。ずっとここにいるから」
「……うん」
子供たちの声が何時までも響けばいいと陽乃は思う。その音を聞いていると、首筋に水滴が落ちた。いくつもいくつも落ちていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌日、葵たちは駅前のファミレスに場所を移し、勉強会を開いていた。
やはり涼しいところは集中できると、悪びれもせず言った厳造寺を朝太がはたいていた。
ある程度終えた頃、誰ともなく雑談が始まる。今日はおそらくこれでお開きになるだろう。
話題の中心は変質者騒ぎの件だった。
今朝がた学校でも言われた通り、巷を騒がせた不審者は、昨晩警察によって逮捕されたという。逮捕したのは警察だが、正確には異なる。朝太に口止めされているので、事実を知る者は常山家の人々と、葵だけだった。
犯人は夜な夜な女性の前で裸を見せ、その反応を見ることで日々のストレスを発散していたのだそうだ。今後はこの肉体を世のために使うことを誓ったのだとかなんとかと、いやに事情通な厳造寺がしゃべっていた。
「まったく……か弱い女性ばかり狙うとは。男の風上にもおけないな。そうは思わんか君たち」
昨晩大人の男性を失神させた自分はか弱くはないだろうと少し落ち込む葵だった。
「犯人つかまってよかったじゃん。これで安心できる、よね」
そういう智香の顔がすこし暗い。
昨日の晩、智香から一緒に帰ろうとメッセージを受けていた。
店に来る途中も浮かない表情だったのを思い出す。それ以前もふと見ると普段の強気な笑顔が時々こうして元気がなく見えることがあった。そのたびに大丈夫かと声をかけるが、彼女は毎度、何のことかととぼけた。
葵は、時が来ればそれについて話してくれると待っていたが、たぶん今日がその時なのだろう。
「そろそろ帰らない? ドリンクバーで粘るのもなんだし、ね」
葵がそういうと朝太が伝票を持ち会計に向かう。金髪美女の件で厳造寺に口止めとして勉強会の間は朝太が払うことになっている。事情をしらない智香は深く聞かずに奢られていた。
「松川、今日はチャリじゃないんだな」
「うん、智香ちゃんちに寄ってから走って帰る」
一人制服ではなく、部活のジャージ姿でファミレスに来ていた智香は、朝太に笑いかけた。それに対し、そうか、とだけ言って朝太は厳造寺と帰っていった。
見送り、智香と二人で歩き出す。智香が葵の脇腹を指でつついた。
「なになに、昨日と全然違うじゃん。なんかあったの?」
すべてを話したい衝動に駆られたが、それはできない。かいつまんで話すことにした。
「えっと昨日朝太くんち泊まったの」
「は? なにそれ? マジ?」
「いやいやいや! 想像してることと違うからね!?」
智香の反応を見て自分の発言の危うさに気づいた葵は誤解を解くため、慌てて弁解した。
「なんだ。びっくりして損した。……でもよかったね。とりあえず元通り、だ」
元通り。その言葉が引っかかる。金髪の女が大門だったからよかったものの、これからそういうことが起きない保証はない。
そのことに気づいたのか智香が笑いかける。
「あいつのどこがいいのかわかんないけど、がんばりなよ」
「ありがと」
智香は本当に友達思いなのだと葵は感じている。周りの女生徒からはすぐ男を替えるだの、いろいろと噂されているが、そんなことはどうだっていい。自分にとって彼女は優しい女の子なのだから。
だから今度は自分が彼女のために頑張る番だ。
「智香ちゃん、何かあった?」
問いかけに智香はすぐには答えなかった。葵は待つ。智香は俯いたまま、小さく小さく答えた。
「笑わないで聞いてくれる?」
夕暮れ時の商店街の喧騒に消え入りそうな声。細く、弱い声。
「――あたし、ストーキング、されてるかも、しれない……」
言われ、葵はすぐに視線をあたりに散らした。
「つかまった奴じゃない。私だけ狙ってる奴がいるの」
「今、いる?」
商店街の人だかりはそこまで多くはないが誰がこちらを見ているのか判断がつかない。
「わかんない、でもいつもは家の前で追いかけてきて」
「わかった」
葵は智香の手を強く握る。いつもより縮こまった手はすがるように握り返した。
早足で家のほうへ向け歩く。その途中、智香の携帯が鳴った。智香はとろうとしない。
「大丈夫?」
「アイツだ……。近くに、いるかも」
智香が泣き出しそうな声で答えた。番号が知れているのなら智香の知り合いの可能性が高い。
「それって、誰なのかわかってるの?」
「……たぶん、前の彼氏だったやつ……」
以前に智香が話してくれたことがある相手のことだ。他校の一つ上の男子生徒。性格が合わないと智香から別れたという男。
歩みが遅くなっていく智香を引っ張ろうと葵が振り向いたその時――、智香の後ろに男がいた。
「――ねえ、智香。何してるの? 誰、そいつ」
隣の高校の学生服を着て、左肩からは指定バッグを提げたその男子生徒は静かに、笑いながら声をかけてきた。
「お前、誰? 俺の運命、勝手に取らないでもらえないかな」
右手に何か握っている。夕日の逆光でよく見えない。
「智香も智香だよ……。そんな男いつの間に作ったんだ。そんなやつ今までいなかったじゃないか。許されない、間違ってる……」
ぶつぶつと歩み寄ってくる。
「来ないでよ! ずっと跡つけたりして、気持ち悪い……!」
「ひどいな、守ってたのに、そんな言い方ないよ」
智香の声に表情がみるみる変わる。葵は智香の前に出た。
「邪魔するなよ、どけって。なんでいつも邪魔ばかり入るんだ。あの汚い猫も、お前も!」
「葵! ダメ! 逃げて! あいつ、ナイフ持ってる!」
その声に反応するように男子生徒が右手を突き出す。手に持ったナイフは小さいが、脅威に違いはない。
「間違いは、正さなきゃいけない! 俺の運命を守るためにも!」
葵は智香をかばう様に覆いかぶさった。だが――。
「な、なんだおまえ、やめ、やめろ――!」
目を開けると男子生徒の上に何か黒いものが乗っている。
それがトレンチコートの男だということに気づくまで時間がかかった。
トレンチコートの男は、男子生徒を組み伏せるような姿勢から、彼の腕に嚙みついた。
「――!」
声にならない悲鳴をあげる。彼の手から離れたナイフを葵は蹴り飛ばし、携帯電話を取り出して即座に写真をとった。
そしてすぐに警察に電話をかける。膝が笑っていたが、加勢してくれた男のおかげでなんとか立っていられた。
「お前ら……! 許さない、許さないからな……!」
腕から血を流した男子生徒は、男を振りほどくと荷物を放り出して逃げ出した。それをトレンチコートの男は、四つん這いになりながら追いかけようとする。
「待って! もう、大丈夫、大丈夫だから……」
智香の声に男は振り返ると、彼女を一瞥する。
彼の顔は暗がりでよく見えない。だが、緑がかった目と、鼻のあたりに大きな傷があるのだけが見えた。彼はまた顔を背け、そのまま塀を飛び越えて消えていった。
その光景を葵は携帯電話を握ったまま呆然と見ている事しかできなかった。
あのトレンチコートは誰なのか。大門にしては小さかったような気がしたが、彼は変身できる――。
葵の電話からは警察の声が途絶え、通話を切られた電子音だけが暗くなった路地に響いていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ダイモーンが最近の楽しみである相撲観戦を終え、夕飯の準備に取り掛かっていると、ふと足元に見慣れない空き缶が転がっているのが見えた。
その缶は平べったい形をしており、横には猫の写真がプリントされている。
何の気もなしにそれを拾うと、空き缶が淡く光って――消えた。
「そうか、叶えられたか……」
ダイモーンの体に光が入り込む。
その光の一つ一つに映りこむのは一人の少女の姿。雨の日や雪の日の姿。何かを話しかけている姿だった。
その想いのすべてがダイモーンの中に入り込む。彼が思う彼女の姿、思い出が『代償』として支払われていく。
「すべてを忘れても、守り通すか。見事だ」
「おい、何か言ったか?」
皿を並べる朝太に、なんでもない、とだけ答えてカレー皿に白米をよそった。
「しかし貴様の……力持つものの姿が我だとは。どうにも歯がゆいものだな……」
悪魔は笑う。勇敢な戦士の姿を思い浮かべながら。