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大門さんは大悪魔  作者: 条嶋 修一
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3話 前編

 勘違いだった、なんて信じられない。

 そんなことがあってたまるか。


 言ったはずだ。運命だと。

 運命というのはそう簡単に覆すことなどできやしないのだと。

 明るく輝かしい未来があるはずなのに、それを手放すなんて間違っていると、そう言ったはずだ。


 ――間違いは、正さなければならない。


 教えてあげなければいけない。

 間違いを……、勘違いだった、という結論が不正解であることを。


 そのためにやるべき事をするのだ。

 正義の為、君の為、できることをする。たとえ何を言われようとも、そしられ、疎まれようとも。


 ――間違いを、正さなければならない。


 暗がりには一人の少女がいる。夜道は危ないというのに、何をしているのか。なぜ自分を頼らないのか。


 守らなければ。運命を守らなければならない。

 彼の足元に影が生まれる。それはいつもまとわりつき、邪魔をする。それを振り払うように足を振り、手を振る。


 影は消えた。当然だ。自分が正しいのだから。


 ――間違いをすべて正す。そのために自分はこの手を振るうのだから。



  ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 彼は、元来根が几帳面である。


 決まった時間に決まったルートを周回するこの作業を、態度には表さないが気に入っていた。同じルートを回ることを嫌わないこの犬のという生き物の習性も好ましいとダイモーンは素直に思う。


 今、彼――ダイモーンは、いつものトレンチコートにソフト帽をかぶり、マタベエと川沿いの道を往く。

 この服装は目立つと朝太に再三注意を受けていたが、日光が肌にあたると不快なためにそのままである。焼けるようなこともないし、異変をもたらすことはない。ただ、この朝の散歩を密かな楽しみにしている身としては少しでも煩わしいことは排除したいと考えた結果だった。


 そして彼の楽しみのもう一つがニンゲンの観察だった。


 ダイモーンや悪魔にとってのニンゲンは、魂を得るためだけの存在だ。その魂は食料――とまではいかず、なくても死ぬことはない。ただ、得ることによってその力を高め、彼ら悪魔の社会的ステータスにもなりうるものである。より多く、良質の魂を持つ者こそ力持つものであり、地位の高さに表れる。


 彼の目的は、そのニンゲンたちの持つ欲や願いのエネルギーを得て元の世界に戻ることだ。


 ニンゲンの習慣や嗜好、精神のあり方は時代によって変遷する。ダイモーンが以前に召喚された頃よりも文明は変わっており、こうやって観察をするといろいろな差異が見て取れ、非常に有益だった。


 特にこの日本という国のこの時代は、宗教観や精神性が今までに召喚された場所とはかなり違い、ダイモーンには特殊に感じられ好奇心をもくすぐられる。


 常山家の面々に課せられた作業の中でも、散歩はダイモーンのお気に入りとなっていた。


 そうして散歩を始めて何日か経つと、少しずつ変化が起きる。ニンゲンたちは、何度か見かける彼と目が合うと会釈をするようになった。


 以前、悪くなった目を治した女性とは、立ち止まって会話を交わすようにもなった。自身の飼い犬の名前は思い出せぬままだが、常山家の人々が作った名札を見、変わらぬ愛を注いでいる。


 ここ最近だと、とある少女とも会釈程度だが挨拶をする習慣ができた。

彼女とは毎朝、川を渡る橋のあたりで出会う。短くした髪は少年のようだが、すらと長い手足や健康的な引き締まった肉体と、朝日をうけた真剣な表情が年齢より大人びた印象を与える。

 少女は軽やかに走りよると、かならずこちらと犬のマタベエに挨拶をする。


 ニンゲン、特に朝に出会うニンゲンは、ほとんどが犬にも挨拶をしていく。


 彼らは相互で言葉を交わすことができない。


 意図としては理解できるが、その行為に意味があるとはダイモーンには思えなかった。

 自分のように思念を通じているならいざ知らず。


「まったくもって興味深いとは思うな、マタベエよ」

「わふ」


 マタベエはダイモーンへの返答か否か、道のそばの草むらに向かって小さく吠えた。


 ダイモーンがそちらに視線をずらす。

 と、そこには――鼻面に引っかき傷を抱えた一匹の黒猫がいた。


 黒猫はその傷を覆うように顔を前足で拭う。


「貴様、またそのような姿で……」


 ダイモーンは猫を見下ろす。

 猫は答えず、しかしじっとダイモーンを見つめている。そのやりとりをマタベエは腰を下ろして見守っていた。


 風が草を幾度かなでた時、ダイモーンはゆっくりとうなずいた。


「よかろう。……しかし、しばし待て。明日またこの時間にここで会おうぞ」


 猫は、鳴きもせず河原を駆け下りていった。マタベエがいつの間にか座るのをやめ、ダイモーンを引っ張ていく。


 太陽が影を縮め、陽光はますます力強くなっていく。夏はもう始まっていた。



  ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「お父さん、そろそろこっち戻ってくるみたい」


 朝太はとうに食事を終えて自分の分の洗い物をしていた。母の声にまひるがいつか尋ねると、はっきりしないのよね、とため息交じりに答えたのを見もせず聞いていた。


「あ、あと昨日、町内会長さんが来て言ってたけど、最近このあたりで変な人がでるらしいよ。女の子が追い回されたり……だとか。まひる、ゆうひ、暗くなる前に帰ってきなさいね」


「はーい」


 妹たちの聞いているけど意味をわかってない返事に、少し心配になる。女の子を追いかけまわす男がふたりに迫ったらと考えるとぞっとしない。


「暗くなったら兄ちゃんに言えよ。迎えに行くから」

「じゃあ毎日きてもらおうかなー」


 心配してかけた言葉をまひるが茶化す。きっとゆうひはそんな双子の姉の態度にハラハラしているだろうと、目を向けずとも想像できた。


 その時、食事中はいつも会話には混ざらず黙々と食事をする大門が、突然皆に向けて言った。


「相談だ」


 ちょうど洗い物を終えたので食卓に向かうと、陽乃が椅子を正し、箸を置いた。それに倣ってゆうひとまひるも箸を置く。朝太が椅子に座ることを合図とみなしたのか、大門が口を開いた。


「ある者から願いを叶えるよう言われた。可否を問おう」


 重々しい口調や硬い表情からは何も読めない。


「どこのどいつなんだ? 内容は?」


 矢継ぎ早に質問する朝太を一瞥し、大門はゆっくりと回答する。


「どこの誰というのはわからん。名も知らぬ相手だ。そやつが言うには戦うべき相手がいる、とのことだ。その者に打ち勝つため、力を与えてほしいと言われた」


 さっぱり要領を得ない。


「名前も何もわからん奴にそんなことする必要があるのか? それに力ってのもなんだか物騒だな」

「そうだね、話がちょっと見えないかな。大門さんはその人にいついわれたの?」

「つい先ほど。散歩中に河川敷でたまに会う」


 顔見知りのだれかだろうか。朝太が思案しているとゆうひが口を出す。


「おとこ? おんな? 何歳?」


 ふむ、と大門はあごを掻いた。


「男だ。年のころはまひる、お前とおなじくらいだろう。あとは……。鼻に傷を持っている」


 そうなんだ、とまひるとゆうひが同時にうなずく。


「子ども……か。子ども同士のケンカかなぁ」


 うーん、と陽乃は腕を組んで唸る。情報が乏しすぎるせいで判断をつけられないのだろう。母に変わって朝太が口をはさんだ。


「もう少し具体的にわかることはないか? 服装とか背の高さとか」


 妹たちと同じくらいの年齢なら、ふたりと同じ学校に通っている可能性が高い。ヒントがあれば特定できるかもしれない。


 質問を受けた大門はあごを触りながら思案する。


「……全身黒ずくめで、背格好はそうだな、このくらいか」


 大門の手が表すサイズは食卓に並んだ大皿と同じぐらいだった。人だと一歳児にも満たない。


「おい、ちょっと小さすぎないか」

「だいたいこのくらいだぞ。猫というものは」

「猫かよ!」


 考えるよりも先に言葉が出た。


「猫だったのかぁ」「びっくりだね!」


 女たちは笑いだした。ちょっとまて、と朝太は彼女たちを制する。


「猫のことばって、おまえわかるの?」

「ああ」


 短く言うと何食わぬ顔で目の前の麦茶をあおった。


「すごーい!」


 妹たちが身を乗り出して目を輝かせた。


「じゃあじゃあマタベエの言葉もわかるの?」

「無論」

「わ、わ、ゆう、マタベエ連れてくる?」「うん!」

「いいけど、ちゃんと足洗ってあげてからね」


 そろってはぁいと返事をし、二人は早足で部屋をでていった。


「動物の言葉わかるとかって、なんていうか無茶苦茶だな。まあ、なんでもありだとは思ってたけどよ」


 それもそうなんだけど、と陽乃は朝太に目くばせをした。


「力を与えるっていうのはどういうことなの?」

「言葉の通りだが」

「それじゃあわからねぇって言ってんの」

「そやつが倒さんとする相手の力量を超えるほどの力を与えようと思う」


 物理的なものなのか。猫だから縄張り争いで負けたとかで、その借りを返そうとでもしているのかもしれない。しかしかといって干渉すべきことなのか。


 決めあぐねていたら陽乃が手に梨を持ち、包丁を使ってむき始めた。


「大門さん、そのお願いって制限ってつけられるの? 例えば――その相手にしかもらった力を使えない、とか」

「できなくはない。その者の願いさえ叶えられればな。だが」


 量がすくないのだ、と付け加えた。

 おそらく願いの量、というやつだろうか。大門が帰るために必要な、力の収集――実績集めに支障がでるのだという。


「気持ちはわかる。だけどな、そのせいで――それが猫の社会でも、何か干渉するのは気が進まない。前回のこともあるしな」


 先月大門が叶えた願いにより、常連客の一人が目の不調を解消した。

 だが、その代償として自身がつけた愛犬の名前を思い出せなくなった。フォローはしたつもりだが、正直後味がいいとは言えない事件だったと朝太は思う。


「よかろう。その条件、課すとする」

「お前って、悪魔って言う割になんというか」


 言いかけてやめた。


 仮にも悪魔ならこんな問答に付き合う必要なんてないだろうに。確かに前回の事件の際は家族と相談すると決めはした。しかし朝太は大門がその条件を受け入れることはないと疑っていた。それなのに律儀というか、馬鹿正直というか生きづらい奴というか。


「あとはその代償、ね」


 真剣な話をしながらも梨をほおばりだす陽乃。朝太もむき終わった梨を手に取る。


「そこについては我もわからぬ。願いの質と同等のものとなるからな」


 代償は大門にも選ぶことができない。

 池田の件を陣内に報告した時、彼はある推論を朝太に伝えた。形あるものであれ、ないものであれ、願いを叶えた対象から大門が何かを得る。それがいわゆる供物のようなものとして機能しているのではないか。


 その捧げものは叶えてもらう対象が無意識下で選んでいる、もしくは悪魔が無意識に、そして無作為に選んでいる。いずれにせよ慎重にならざるをえない、と陣内は呪文のように早口で伝えた。


「大門さん、大門さん」


 まひるとゆうひがマタベエを抱えて部屋に入ってきた。当のマタベエは突然連れてこられたにもかかわらず、のんきな顔で舌を出していた。


「なんて言ってるの?」

「おろしてほしいそうだ」


 そうなんだ、すごい、と騒ぐ二人をみながら、そりゃ俺でもわかるよと朝太は心の中だけで呟いた。


「じゃあね、マタベエはね、ゆうの事、どう思ってる?」


 ゆうひがマタベエを見ながら問う。


「うまそう、だそうだ」

「え?」


 動きを止めたゆうひに変わり、まひるが質問する。


「そ、それじゃまあは?」

「うまそう」

「大門さんは?」

「うまそう」

「お兄ちゃんは?」

「うまそう」

「……お母さん」「うまそう」

「なんでー!?」


 騒ぐ妹たち。

 朝太はあくびをしながら、マタベエの視線が母の食べている梨から一切動いていないのを見ていた。



  ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「おはよう、朝太くん」

「おう、松川」


 あおいは、登校してきた朝太と挨拶をした。

 彼女――松川葵は朝太の同級生。そして隣の家に住む幼馴染でもある。


 足を椅子から伸ばし、腕を教室の天井に向け伸びをする。そうすると手足の長さが余計に目立つので、気持ちいいところに至る前にやめた。


 葵はすらりとした体つきに、短めの髪が活発そうな雰囲気を出している。しかしその実、内向的で大人しい性格で、目立つことを特に嫌っていた。


 運動神経がよく、父の勧めで柔道や空手をしていたこともあり、特に空手の実力は県でも上位にある。反面、大人しく試合中以外で闘争心が働くことは少ない。年頃になったこともあり空手をやめたがっている節さえあった。


 そして――。


「ね、朝太くん。今日もお弁当? 作ってきたの?」

「おう、今日のは自信あるぞ」

「そうなんだぁ。すごいね」


 女子力の高すぎる男、常山朝太に、昔から気があった。


「そういえばさ、ランニングの時見かけるんだけど、真夏の朝からロングコートのおじさんがワンちゃんの散歩してて……」

「げ」

「そのワンちゃんがね、朝太くんちのマタベエちゃんに似てたような気がするんだけ――」


 口をふさがれる葵。思い寄せる少年の手指が口に当たったことに動転して息が止まる。


「違うから、あれ、そういうのじゃないから」


 顔が赤くなっているのが、自分自身でもわかった。息を止めている事だけが原因ではない。


「あ、悪い」


 すぐに手を放した朝太は少し焦っているようにみえた。謝る朝太に気にしていない、と手を振り、葵は一度深呼吸をして改めて会話を再開する。


「……あ、あれマタベエちゃんで合ってたんだね。じゃ、あのコートのひとって」

「あーなんだ、うちに親父の知り合い? でホームステイしてるやつがいてさ。土地になれてもらう為にも散歩させてんだわ」


 しどろもどろになりながらも、とにかく話をすすめようと早口になる朝太。


「どんな人、なの?」

「外人」


 簡潔だ。


「へ、へえ? どこの国なの?」

「なんだっけ、覚えてないな。中東のほう?」


 そして、あいまいな情報だった。


「一緒に住んでるの……?」

「ホームステイ? だからな」

「ふーん……?」


 明らかにわかる動揺に、隠そうとする何かがあると葵は感じた。なんでウソをついたんだろう。あんまり私にはウソついたりしないのになんで。


「てっきり今ウワサになってる変質者かとおもった」


 近頃、この街に変質者が現れるとうわさになっていた。

 曰く、年頃の娘を追いかけまわすようだとか。田舎に片足を突っ込んだこの街でも都会のニュースのようなことが起きるものなのかと、葵にとっては実感がわかないものだったが。


「あー。わかった注意しとく」


 そう言うと朝太は、外した視線を葵に合わせた。


「お前も注意しろよ」


 突然の真剣な表情に、ひょ、と変な声が出てしまった。


「変質者。女ばっか狙ってるってんだろ。夜は外出るの控えろよ」

「う、うん、わかった」


 チャイムが鳴り、担任が入ってきた。一礼ののち、クラスメイトと倣って窓側の席に座る。

 担任は淡々とホームルームを始めた。来週の月曜からテスト期間に入ること、最近不審者がいるので特に女生徒は気を付けること、その他連絡事項を抑揚のない声で告げていく。


 前に向き直った朝太の背中を葵は見つめる。


 昨年度の高校空手で県大会優勝する実力を持つ、自分への周りの評価は『屈強な女』。青い自身、そんな風になりたかったわけではない。女らしくないのがやっぱり気になる。


 幼少から自分のことをまわりの男子はそれこそゴリラだの、男女だのさんざん言ってきた。

 気が強くないと思っていても嫌なことは嫌というたちなので、ケンカするまでにはいかずとも睨むことで威嚇することだってある。そうすることで散っていく男子たちを見て自己嫌悪に落ち込むサイクルだった。


 しかし、葵の目の前の、自分より少し背の低いこの朝太という男はごく自然に女の子として接してくる。


「……ずるいなぁ」


 ホームルームを終え担任教諭が教室を出ると、再び騒然とし始めた。話題は主に来週末の期末テストについてである。葵はそこまで学力に自信がない。この時期は億劫になる。


 梅雨が明けたというのにじめじめした気分になっていると、ふわりと柑橘系の香水の匂いが漂ってきた。


「あーおいー、また前ばっか見てたでしょ」


 突然かたを組まれた。ゆるく巻いた栗色の髪が葵の頬をなでる。


「智香ちゃん、声おおきいから、やめてって」

「いや、朝からアンタ暑すぎでしょ。いろんな意味で」


 智香ともかと呼ばれた女子生徒は、やっぱあっついわ、とすぐさま離れ襟元のボタンを開けたブラウスの中へ手で風を仰いだ。

その仕草に男子の何人かがちらと目線を送るのを葵は見逃さなかった。


 彼女は金杉智香といい、葵の高校からの友人だった。見た目が派手で男子生徒の人気も高く、実際に今までで何人かと交際していたこともあるという。

 葵とは対照的な智香だが、二人はウマが合うのか、一緒に昼食をとったり葵の部活のない日は遊びに出かけたりしている。


「見てるだけなんて、何も進展しないっての」


 そして恋愛相談もしていた。


「そーだ。常山、ちょっと」


 呼ばれた朝太がなにも言わずに振り返る。


「私らに勉強教えてくんない? アンタ成績そこそこいいでしょ?」

「朝太くんバイトで忙しいんだから、無理させないで」


 葵に向き直る智香。余計なことを言うなと、表情が語っている。


「おれそんなに頭良くないぞ。それならもっと適任がいると思うけど。ゲンとか」


 その言葉に智香が飛びのく。葵も嫌な予感がしてすぐさま廊下側の席を見ると、ひとりの男子生徒が眼鏡を光らせながら近づいてきていた。


 撫でつけたようなぴっちりとした黒髪に襟元まできっちりと締めたシャツが清潔感よりも暑苦しさを醸し出すその男子生徒は、おもむろに朝太の机に腰かけた。


「君たち、僕をお呼びか。そうか呼んでいるか。いい、実にいい。僕と話がしたいなんて朝から縁起がいいことこの上ないね」

「呼んではない。どけ、ゲン」


 朝太がその男子の尻を手ではたくが、意に介さず続ける。


「常山よ。おはよう。今日も暑いが一日がんばろうな」

「おはよう。どけ。そして話聞け」


 朝太の声を無視し、眼鏡を拭き始めたこの男子生徒はゲン――厳造寺げんぞうじ桃介とうすけという。

 芝居がかった仕草と有無を言わさぬ言動で奇抜な印象を与えてはいるが、成績は学内でも上位に上るほど優秀でこのクラスの委員長も勤めていた。


 親がこの辺りでもとくに力をもつ資産家だとか、怪しげな部活動をしているとか、妙な噂が絶えない。


「まあいいや、お前こいつらに勉強教えてやれよ。テスト頑張りたいんだと」

「成程! いい! 実にいい心がけだ。喜んで手でも足でも何でも貸そう。問題集を手作りでプレゼントしてもいい」


 そして学内のほとんど――主に女子から変人扱いをうけていた。


「いやいやいや、いらないし呼んでないから!」


 智香が厳造寺の首をつかんで揺らしている。厳造寺はなぜか嬉しそうに高笑いをしていた。


「だったら朝太くんも一緒に勉強しない? アルバイト、忙しいかな」


 葵が朝太を誘っていることに気づいたのか、智香は手を止めた。


「あー、バイトは来週から無しなんだ。おれも放課後参加するよ」


 智香が駆け寄り葵の手をとる。朝太は不思議そうに首を傾げながら、眼鏡が取れそうになった厳造寺の頭を見ていた。


 ――


 翌朝、葵は日課の朝のランニングにでていた。

 名目は体力つくりだが、体形維持の為にも運動量を下げたくはない。年頃の悩みと部活の補てんのため、今日からはいつもよりペースを上げるつもりだ。


 そして更に、今日はもう一つ目的があった。


 決まった時間に必ずいる常山家の居候――大門という外国人に会うことだ。昨日の朝太との会話ではなぜか曖昧な情報しか得られなかったからである。


 葵は昨日の朝太の様子が気になっていた。大門の事を知られたくないようなそんなそぶりだったように思う。詮索するのは良いとは言えないが、気になってしまったのだ。


 葵と朝太の付き合いは、それこそ産まれたころからだ。

 今は確かにこちらが特別な感情をもってはいるが、幼馴染にそんな態度はないだろう。何か誤魔化したいことがあるのはやましいことがあるのか。それとも心配事かもしれない。


 いずれにせよ葵の心は決まっていた。直接話してみたい。


 こうして朝会うことを止められたわけではない。偶然会って、たまたま会話が弾むことだってある。


 葵がそう言い聞かせていると例の『大門』らしき大男が現れた。

 上下黒と紫のジャージになぜかソフト帽をかぶっている。不格好極まりないが、彼なりのこだわりなのかもしれない。


「おはようございます。」


 葵は走りを止めるとこちらに気づいた大門に挨拶をした。大門は会釈で返す。


「マタベエちゃんも、おはよう」


 マタベエの前に屈み、控えめに頭をさわる。

 いつもならそのままだったが、視線を上げ大門を見る。彼はかなりの高身長だ。

 こういう人が隣だと自分の背の高さは気にならないのかな、と考える。


「何か」

「い、いえその」

「では」

「あ、ちょ、ちょっと待ってください!」


 自分でも驚くほど大きな声が出てしまった。


「あの、大門さん、ですよね」

「ダイモーンだ」

「?」


 若干のイントネーションの違いだろうが、大門で間違いはない、はずだ。

 葵はふ、と短く息を吐いた。


「あの、朝太くんと一緒に住んでいらっしゃるんですよね。どちらからいらっしゃったんですか?」

「どちら、とは」

「えっと、外国? の方なんですよね。日本語がとてもお上手なので」

「ああ。遠いところだ」


 何かごまかされたような感覚。


「そ、そうですか……」

「では」


 右手を上げて立ち去ろうとする。


「えと、いやそのそうじゃなくて」


 何か話をしなければ。


「あの、相談があるんです!」


 大門が眉をひそめた。妙な女だと思われてしまったかもしれない。しかし。


「よかろう。手短にな」


 葵の予想を裏切り、快諾する大門。彼は顎をしゃくって河原にある階段に腰をかけるよう促した。座ると早々に大門が切り出した。


「で、相談とは」

「朝太くんのこと、なんですけど」


 勢いで言ってしまった。具体的な相談事を考える余裕がなかったから仕方がないのだ。他意はない。はず。


「あの朝太くんとは小っちゃいころから一緒で、仲良くしてもらってるんですけど」


 ふむ、と相槌をうつ大門の指をマタベエが懸命になめている。それを見ながら葵は続けた。


「朝太くんは、背の高い女の子は嫌いなのかなって」

「どうだろうな。仲が良ければ直接聞くがよかろう」


 こちらを見ずに空いた手でマタベエをなでる大門。


「き、聞けません! そんなこと」

「そうなのか? 理由はわからんがそれを聞けというなら聞いてやっても構わないが」

「直接聞かないでください。……きっと気にしてるし、私が聞いたのだってわかっちゃう」

「仮に背の高い女が嫌いだとして、困ることがあるのか」

「大いにあります!」


 身を乗り出すとマタベエが葵のほうに近づいてきた。流れで頭をなでると、心なしか大門の仏頂面が残念そうな表情に変わったように見えた。


「私のほうが、ちょっとだけ、ちょっとだけ背が高いんです。だから困るんです」


 ばれてしまったかもしれない、と葵は思った。


 彼女が朝太を好いていることは、小さなころからの秘密だ。

 その昔、まだ葵のことを『あーちゃん』と朝太が呼んでいた頃、遠い昔からの淡い秘密。


 実際は、朝太本人以外のほとんどの知りあいに悟られている秘密だが。


「ではどうしろというのだ。あやつの身長を伸ばせばいいのか」

「え? そんなことできるんですか?」

「そう、んなことはないが――」


 そうだ、と言いかけてやめたように聞こえた。


「時と場合によるな」

「よるんですか?」

「……日本語は難しいな」


 流暢な日本語をしゃべるが、言いたい言葉のニュアンスが母国語と違ったりするのだろうか。


 その時、河原の草むらから黒い影が飛び出した。葵の口から、きゃ、と短く悲鳴が出る。

 影は大門にぶつかり、そのまま抱えられた。


「そうか、そんな時間か」


 鼻に一筋の傷、黒の毛並みに映える緑がかった丸い瞳。

 抱きかかえられながらも鳴き声一つ上げないこの猫に見覚えがある。このあたりでよく見かける野良猫。


「すまんがもう行かなくてはならない」


 大門はこちらを見ず、その手の中の黒猫をそっと地面におろした。


「あ、ごめんなさい。それじゃまた明日」


 葵は立ち上がって土をはたくと、慌てて大門に対して指を一本たてる。


「この話、朝太くんには内緒、ですからね。……絶対に」

「それが望みなら」


 手を振って別れ、ジョギングを再開した。

 草の香りと川のにおいが風にのって鼻腔を通っていく。


 しばらくしてふと後ろを振り向くと、大門は先ほどの階段で猫をじっと見下ろしていた。動物好きなのだろうか。

 変わった人だな、と葵は思う。かなり流暢な日本語に威厳の塊のような口調。


 朝太が言うホームステイ、とは恐らく違う。朝太が何を隠していたのかはわからないが、少なくとも葵には大門という男が悪人にはみえなかった。

 今日大門とたくさん話をしたことを朝太に言えばなんて思うだろう。


「嫉妬とか……はないよね。仲良くしてやってくれってだけだろうなあ」


 バック走をやめ、少しスピードを上げた。



  ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「そうか。まあ仲良くしてやってくれ」


 言うと、目の前の葵はあからさまなため息をついた。


 その意図はわからなかったが、大門に出会ったことをずっと聞かされているこちらとしては釈然としなかったのですこし胸がすく思いがした。

 だが朝太はそう言ったものの、明日からまた大門の散歩に同行しようと密かに決意を固める。


 朝太としては大門と葵が接触して何かトラブルが起こることは正直避けたい。

 なんらかの『頼み事』があっても、家族に相談する段取りになっているので池田のようになることはないだろう。しかしそれはあくまで大門を信用するならばの話だ。


 母や妹たちは手放しで信じているが、朝太には大門に対しての不信感は残っていた。相手は悪魔、警戒は当然の事、自明の理。


 何かあってからでは困る。

 葵は大切な幼馴染だ。いやそれだけではない。――家族みたいなものだから、と言い訳するように、不思議そうな顔をする少女から窓へと視線を外した。


 午前の授業が終わり、いつものように朝太と葵は机を共有して昼食の準備をする。お互い弁当持ちなので、購買行きの友人たちが帰るのを、話しながら待つのが慣例だった。


「大門さん、なんだか話しやすい人で仲良くできそうだよ」


 ふーん、と興味なさそうに答えた朝太に対し、葵は弁当包みを開ける手を止め上目使いで聞いてきた。


「……あの、今度お邪魔していい?」


 その姿に朝太は目線を合わせられず、机に出していた携帯電話をとって画面を見る。特に通知があるわけではない。


「べ、別に断らなくてもいいだろ? 隣なんだし。まひるとゆうひも会いたい、つってたし……」


 妹たちは葵によく懐いている。高校に入る前は葵も朝太たちも互いの家を行き来して食卓を囲んだりしていたものだが、ここ最近は朝太もアルバイトで忙しく、葵も部活で遅くなることが多いのでこうやって休み時間に話をする程度の交流になっていた。


 特に今は大門という居候がいる。そちらばかりに気を取られすぎていて、そんなことを考えることもなかった。


 弁当包みを広げ、中身を確認する。大根のそぼろ煮と卵焼きにウインナー、自家製の二十日大根のサラダに弁当サイズのミニコロッケ。昨日の夕飯の残りが大半ではあるが、いろどりは悪くない。大根がかぶっているのは気にしないことにした。


「そういえば昨日言ってた変質者? お母さんにも聞いたよ。なんだかもうどこでも話題みたいだね」

「何が楽しいんだかわからんが、あんまり厄介ごと持ちこんでほしくねぇなぁ」

「厄介ごと?」

「こっちの話だ。気にすんな」

「なにそれ」


 葵の口にコロッケを突っ込んだ。


「それやるから早く食おう」

「ふぁい」


 友人たちがつぶさに集まり、やいのやいのと昼食が始まった。


 ――

 

「おはようございます」

「はい、おはようございます、朝太くん。それと……あなたが大門さんですか。はじめまして。陣内と申します」


 陣内がソファに勧める。うむ、と返事をする大門が朝太に耳打ちをした。


「間違えているぞ朝太、今は夕方である。挨拶は正しくな」

「これでいいんだよ。うむうむ言ってりゃ済むと思ってるやつに言われたかねえ」

「おやおや、楽しそうでいいですね」


 好々爺は、用意していたかのように麦茶を置いた。頭を下げてからいただく。日が沈みかけた時間でも夏本番、冷たい飲み物がのどに染みわたるのを朝太は感じた。


 今日はかねてから陣内に打診されていた、大門との顔合わせの日だった。

 一応バイトの日でもあるが、朝太が一度家に戻り大門を連れてきたため、すっかり夕方になっていた。


 陣内の口利きで少しシフトを変更してもらっているので時間の問題はないが、その分長く勤務するパートのおばちゃんにはあとで礼を言わねばならない。


「さっそくですが、大門さん。貴方はその、悪魔だと聞いています」

「違うな」


 空になったグラスをテーブルに置いた大門は、思案するように目を閉じて答えた。


「『大』悪魔だ。大を忘れてはならぬ。そこらの悪魔とは大違いである。ゆめゆめ、心するよう」


 そこらに悪魔がいてたまるかと悪態をつき、付き合う必要はないと朝太は目で陣内に合図するが、老紳士は楽しそうに笑う。


「それは失礼を。……大悪魔だというのは朝太くんから聞いています。ですが私にはにわかに信じられません」


 笑っている。が、光の反射か、眼鏡の奥の表情が読めなかった。


「なにか証拠を見せていただきたいのです。……願いを叶えるほかに何ができるのかを」


 言われ朝太もその疑問に興味がわいた。願いを叶える以外に大門が見せた魔法じみたことと言えば、妹たちを少し宙に浮かせたり、動物の言葉を理解するらしいことぐらい。聞きもしなかった自分を少し恥じたが、いい機会だと思い賛同する。


「ほほう。疑うか、陣内とやら。その不敬は許しがたいが、朝太が世話になっているとの事、目を瞑ってやらんでもない」


 そういうと立ち上がり、ジャージのジッパーに手をかけた。ロングコートだと怪しまれるかと思い着せたジャージだが、袖が余っているのは朝太が貸してやったものだからだ。


「おい、朝太、袖、袖を引っ張れ。引っかかっておる」


 ため息交じりに大悪魔様のお着替えを手伝ってやった。やっとのことで脱げたジャージは朝太が二度と着れないほど伸びてしまっていた。


「ククク、多少手間取ったが見せてやろう。この姿を」


 ソフト帽を脱ぎ、くるりと背を向ける。原理は不明だが小さくしていた蝙蝠のような羽が瞬く間に広がり大きくなる。ゆうに三メートルはあろう横幅の翼を大きくはためかせると大門が浮かんだ。


「貴様らには出来えぬ所業、とくと見るがよい」


 腕を組みながら気持ちよさそうに笑う。大きな風が起き、事務所の書類がそこら中に舞う。その姿は確かに悪魔である。丈の短いジャージのズボンさえなければ。


「もういいだろ、降りてこい」


 掃除が大変だ、と朝太が言うと素直にもといた場所へ着地した。掃除という言葉に過剰反応するところが大門と朝太の共通点だった。

 バラバラになった書類をまとめていると陣内が静かに声を発した。


「すごいものですね、貴方の巨体をこうも簡単に浮遊させるとは。物理的にありえないことではありますが……」


「驚いたであろう、そうであろう。我が求めたのはこういう反応だ。朝太よ、見習うがよいぞ」


 陣内はしわの入った手で眉間を抑えて黙り込んだ。その様子に満足したのか上機嫌で大門はグラスを掲げて麦茶のおかわりを要求する。


「それに貴方の言葉は日本語ではありませんね」

「どういうことです?」


 陣内の言葉の意味がわからない。朝太には大門の言葉はすべて理解できている。家族や葵だってそうだ。日本語でなくなんだというのか。


「口の動きがまるで違うんです。発している声と我々が理解している言葉が違うというか。同時通訳のような……」


 ああ、そういうことか、と陣内が手を打つ。


「動物の言葉が理解できるのもそういうことなんですね。貴方が発し、受け取っているのは一種の念、意思、そういったものなのでは?」


「ほう……。貴様、そこらのものとは違うようだな」


 肯定ととった大門は陣内から目線を外さず麦茶をあおる。

 なんのことだか頭が追い付かない。しかしその言葉を信じるならば陣内は大門の唇の動きを瞬時に見ていたというのか。朝太にはそちらの驚きのほうが強く脳に残った。


「このほかに何かありますか?」


 陣内の要求に大門はすぐには答えない。何を渋っているのかわからないが、朝太も大門が何ができるのか興味がある。


「飛んだり動物の話がわかるんだったら鳥みてえなもんだな。大悪魔改め大怪鳥にしろ」

「貴様、我を愚弄するか。……よかろう。後悔させてやる」


 青筋を立てる程憤る悪魔の煽り耐性の低さに、朝太は少し心配になった。


「刮目せよ。わが力の片鱗、その目に刻め!」


 大門の目が輝くと同時、事務所が霧のようなものに包まれた。とっさに手で仰ぐが視界は晴れない。


「てめえ何しやがる! 陣内さん、無事ですか! 陣内さん!」

「私は大丈夫です。それより……」


 徐々にもやが消えていく。大きな黒い影が見える。大門のそれとは違い、縦でなく、横に大きく広がる影。そして銅鑼を鳴らし続けるような大きな音が脳に響く。


 朝太の目の前に――巨大な黒い虎が現れた。


「うわ! なんでと、と、虎っ、虎が!」


 思わず叫ぶ。虎は朝太に向かって大きく吠えた。足がすくんで動けない。大きな瞳は煌々と輝き、目線を外すこともできぬまま立ち尽くしていると、聞き覚えのある笑い声がした。


「情けない姿だな。ゆうひやまひるが見れば威厳など吹き飛ぶぞ」

「だい、もん」


 笑う大きな虎は瞬く間に大男へと姿を変えた。朝太は笑う大門をにらむ。


「おま、お前な! 言ってからやれよ! ああ、もう!」


 びっくりしたことへの恥ずかしさか、恐怖からの安堵か、顔を真っ赤にして抗議する。


「驚きました。変身……ですか。どういう理屈なのかわからないですが……すごいものですね」


 腰がぬけるかと思いましたよ、と言いながら陣内はずれた眼鏡を上げる。


「まだこの他にもあるんでしょうか――」


 質問を遮るように大門は右手をかざす。指が示すのは事務所の壁掛け時計だ。


「今日はここまでだ。帰らねばならん。我は満足したしな」


 針は午後六時に向かおうとしている。朝太のシフトもそろそろ始まる頃合いだった。


「そうですね、ありがとうございました。またいつでもいらしてください。お茶請けでもご用意してお待ちしますよ」


 陣内は残念そうに笑い、二人を見送った。

 事務所の階段を降りる時、後ろの大門が朝太に話しかけた。


「――あの男、獣の姿になった我を見た時、どうしていたか見たか?」


 その声はいつものように不遜な大声とは違う、静かな声。いや、実際には思念というものだったか。


「は? 腰ぬかしそうになってたんじゃないのか?」


 質問の意図が分からず、大門を見る。彼はかぶりをふるとソフト帽のつばをさげた。


「いや、なんでもない。今日は貴様の好きなアジフライだ。大目に米を炊いておいてやろう」


 急がなければ店に迷惑がかかる。大門が言った言葉を朝太はいつもの大言壮語と思い、頭から放した。


 ――


「腹減ったぁ」


 アルバイトが終わり、家に着いた朝太は開口一番本能に従った。育ちざかりなものあるが、大門から言われた今晩の献立が仕事中頭を駆け巡り急いで戻ってきたのである。空腹に耐え、コンビニをスルーした自分をほめてやりたい。


「お帰り! お兄ちゃん汗だくだー」


 真夏の夜に自転車を限界まで漕いできたので当然だ。迎えたゆうひにただいま、と返事をしてからタオルを取りに脱衣所に向かう。


「ダメ、今そっちは――」


 ゆうひが朝太を止めようとすると、ちょうど脱衣所のほうからまひるが顔を出した。


「ゆう、いいからいいから」


 でも、と不安そうな顔のゆうひを押しのけまひるが笑いながら押しのける。


「朝太帰ってきたの? 早く手洗ってきなさい」


 リビングから聞こえた母の声に適当に返事し、脱衣所に着くとすりガラスの向こうの電気が点いていた。大門が風呂に入っているのだろう、何の気もなしに引き戸を引いた。


「む、貴様、ノックをしろ、ノックを」


 そこには屈強な大男が待ち構えて――いなかった。


 相対したのは、金髪碧眼の、美女――。


 最高級の調度品のような滑らかな曲線。水を弾く玉のような肌。流れるような金の髪は濡れ、蠱惑的な肢体をさらに妖艶に輝かせる。


 眼前に広がる光景に、言葉がでない。喉につっかえたまま棒立ちになった。


「おい、聞いているのか」

「ごごごごめんなさい!」


 その声に我に返り、すぐさま戸を閉めた。何が起きているのか理解できない。


 女、しかも裸の女。脳裏にこびりついた映像が吹き出した汗をとめる。耳に届くほど、心臓が騒ぎ立てている。


(なんでおれの家にあんな……女の人……? 何が起こってるんだ!)


 立ち尽くしているとまひるが駆け寄ってきた。目に涙が浮かんでいるのは笑いを堪えているからなのだが、朝太にはわからなかった。


「だ、誰、お、女、はだ、はだか」


 舌が回らないまま妹に助けを求める。だがまひるは兄のその姿に笑い転げてしまって会話ができない。


 呼吸困難になりそうな二人の前の扉が再び開く。朝太のTシャツを着た金髪美女が腰に手をあてため息をつく。


「とっとと夕飯を食べてこい、我の作ったアジフライが待っておるのだぞ」

「……われ、アジ、フライ……?」


 朝太の脳が働きだす。信じたくない、が、それ以外ない。


「大……門……?」

「まったく、まひるにも困ったものだ。夕方の話をしたらこの格好でいろというのでな」


 うっとうしそうに髪をかき上げる。その姿が朝太には刺激的に映ってしまう。


「え? 何? 大成功?」


 母がにやにやしながら現れた。ゆうひも母の影で笑っていた。


「みんなしてなんなんだよもう!」


 恥ずかしさと悔しさで上げた大声は、家族の笑いに油を注いだだけだった。


「ごめん、ごめんって。ほらご飯たべちゃいなさい。……あ、そうだ」


 陽乃が涙目をこすりながら朝太をリビングへ誘う。何か思いついたように意地の悪い声で朝太にささやいた。


「大門さんの作ったオカズ、あるから」


 したり顔の母親に、食欲が失せた朝太だった。


 ――


「そうだ、思いついたんだけど」


 テレビをみながら陽乃は話しかける。


「朝太、大門さんと例の変質者、捕まえたら?」

「はあ? なんでそうなるんだよ」


 アジフライに醤油をかけ、口に運ぶ。冷めてはいるが、うまい。噛んだ時に出る衣の音と油、醤油の香りが食欲を更に促進させた。


「なんていうの? 囮捜査ってやつ」


 テレビから流れる刑事ドラマに影響されているのか、妙なことを口走る母親に辟易した。


「囮ってどうやって……」


 口でそう言ったとき、母の意味することが理解でき、視線をリビングへ送る。

 そこでは妹たちが大門にいろんな変身をさせて遊んでいた。カエルや大鷲、さらには壺やおにぎりなどに次々と姿を変えていた。大きさに制限はなく、無機、有機などにこだわらない。


 母は先ほどのように女性へと姿を変えた大門を囮に使い、変質者をおびき寄せることを考え付いたのだろう。


「あのさ、おれ、テスト期間中なんだけど。それに」


 メリットがない、と言い茶碗の中の白米をかきこんだ。この家でフライに醤油をかけるのは朝太と父の奈津夫。味覚が似ているのは癪に障るが、米にはこれがベストチョイスだと朝太は考えている。


「勉強するんでしょ、学校で。その帰りに少し歩くだけなんだからいいんじゃない?」


 葵に会って聞いたのか、放課後集まってみなでテスト勉強する話が伝わっていた。


「犯人つかまってくれたらあの子たちも……葵ちゃんも安心だし」


 真夏でも熱いお茶をすする母は何か言いたげにこちらをのぞく。無視してテレビを見やると、大御所俳優が演じる刑事が犯人に懸賞金をかけると言い出していた。


「謝礼、あるかも?」

「そんなうまい話、あるかよ」


 そう言って母に茶碗を差し出した。



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