2話 後編
年々さびれつつあるこの街でも、日曜日の駅前は人通りは多い。
最近できたチェーンのカフェにはテラス席が数席あるが、夏が始まっているにも関わらずすべて埋まっている。片田舎の街には珍しいのようで、若者たちが集い都会のおしゃれさを満喫している。
朝太とまひるはその前を通り過ぎて数軒行った先のスーパーへ向かった。
中層マンションの一階と二階を店舗として利用しているスーパーはこの辺りではそれなりに流行っている。隣り合った街に何店舗か支店があり、この駅前店もその一つだった。
入り口では主婦と小さな男の子が、変身ヒーローのお菓子を買うか買わないかでもめている。
「男子ってああいうのなんで好きなんだろ」
「ああいうのがカッコいいんだろ」
「変身したら顔みえないじゃん」
イケメン俳優が配役されることも多い昨今の特撮ヒーローは、主なターゲット層を男児だけでなく主婦や女の子にも広げている。
「ロマンがないんだよ、それじゃ」
兄の答えに興味をもたなかったのか、返事もせずにつないだ手を放して入り口脇の事務所通用路の扉を開けた。そのまま続く階段を駆け上がっていく。
朝太が階段を登りきるころにはまひるが事務所のドアを開けていた。
「こんにちは! 遊びに来たよ!」
「違うって。お邪魔します」
クーラーの涼しい風が室内から流れ、兄妹の体を冷やした。
事務所は十六畳ほどのスペースに来客用のソファに挟まれた背の低いテーブルがあり、奥に事務机が二つ。そのほかはスチール棚に埋め尽くされており、整然とはいえないまでも資料がびっしりと入れられている。ドアの脇に簡素なキッチンがあり、隣には朝太の胸くらいの高さの冷蔵庫が並んでいた。
「こんにちは。まひるちゃんはお久しぶりですね」
事務机から立ち上がった男は、年の頃六十程の初老の男性。人好きのしそうな顔に黒縁の眼鏡がかかっており、総髪にまとめた髪はすべて白くなっていた。
「陣内さん、すいません無茶言っちゃって」
「いいんですよ。どうせやることなんてほとんどないんですから」
そう笑う陣内。彼は朝太の父――奈津夫の古くからの友人でこの店舗のオーナーをしている。
オーナーといっても店長は本社から別の人物が派遣されており、陣内はただこのマンションの持ち主でもあるため引き受けただけだった。その為、彼は業務内容の把握や金庫等のカギを握ってはいるものの、経営に口を出すことはほとんどなく、日がな一日中この事務所で過ごしていた。
朝太は彼の口利きで下の店舗のアルバイトをさせてもらっている。
「朝太くんはお茶でいいですか? まひるちゃんはジュースかな?」
「オレンジのがいい!」
「いや、いいです、お気遣いなく」
臆面もなく要求する妹を朝太は肘で小突く。じゃれていると勘違いしたのかまひるは何度か小突き返してきた。
「座っててください、今日は暑いですからくたびれたでしょう」
遠慮する朝太とは対照的にすぐさまソファに座ったまひるは、暑いのすきだよ! と能天気に答えた。
陣内はお盆に乗せたグラスを揺らしながら、危なげない手つきで三つテーブルに置く。
朝太は座ると姿勢を正して陣内を見据える。
「その、陣内さん。バイトなんですが、しばらく日数を増やすことってできますか?」
「何かありましたか」
ちら、と隣の妹をみる。まひるはすぐさま飲み干しそうな勢いでストローを吸っている。朝太の目線だけで何となく事情を察したのか陣内は詳細を聞かなかった。代わりに壁にあるシフト表を見に立ち上がる。
「ううん……。現状週一回で足りていますし増やすのは難しいんじゃないでしょうか」
「そうですか……」
朝太は肩を落とした。せっかく時間が空きそうなのにバイト探しから始めるとなると時間がかかってしまう。
「ですが」
ゆっくりとした足取りでソファまでもどり腰をかけた。陣内の体重をうけ、古いソファのスプリングが小さく悲鳴をあげる。
「知り合いに掛け合ってみましょう。うちからの派遣という形であればシフトを増やせるかもしれません」
「いいんですか?」
「ええ、かまいませんよ。君は真面目ですし、僕も可愛い女の子の為とあれば何かしてあげたいですから」
「……ありがとうございます!」
朝太が立ち上がり深々と礼をする。急に立ち上がったのでまひるがジュースを吹きそうになった。
「まだ決まったわけではありませんし、それぞれ職種が違いますから戸惑うかもしれませんけれど。見つかり次第連絡しますよ」
「助かります」
「いえいえ」
おやおやおや、とまひるがにやと笑う。
「女の子ってなぁに? カノジョ? あ、葵ちゃんか」
「違うっての、なんであいつが出てくんだよ」
葵という名は常山家の隣の家に住む朝太の同級生の女の子のことを指している。まひるはにやけ顔のまま朝太の反論をジト目で返す。
「いやあセイシュンってやつだね。ういやつよー」
「どこで覚えてくるんだそんな言葉」
肘をぐりぐりとあててくる妹に辟易していると陣内がふふ、と笑った。
「仲がいいですねぇ。ああ、そういえば今日はゆうひちゃんが一緒じゃないんですね」
分が悪そうな朝太に助け舟をだしたのか、話題を変える陣内。肘での攻撃をやめて指で兄の脇腹をつつきつつまひるが答えた。
「ゆうはおうちでお手伝いするんだって。あの子いま、大門さんがお気に入りだから!」
大門という言葉に、朝太が慌てて妹の口をふさごうとした。が、暇な老人は耳ざといのだろうか、陣内はすぐに目を輝かせた。
「大門さん? どなたです?」
「いや、その、最近うちに居候が増えまして。親父の知り合いみたいなんですけど……」
とりつくろう朝太に陣内は、ほうとだけ答え座った。
「初耳ですね、どんな人なんですか?」
「真っ黒で大きい」
「ざっくりきましたね」
懸命にストローで氷を吸いあげて遊んでいたまひるが答えた。朝太がそれを補う。
「外国人なんですよ、留学生で」
「へえ。奈津夫くんも顔が広いですねぇ」
興味があるのかないのか、微笑んだままの瞳の色がどういう感情をしめすのか朝太には読めない。
陣内と奈津夫――父親との付き合いを朝太は詳しくは知らなかった。その昔世話になったと聞いただけで、具体的なあらましなどを朝太は聞いてはいない。しかし何となく察しがついていた。
陣内という男はこの街でかなり顔が知れている。
このマンションもそうだが、周辺にいくつも土地を持つ資産家で、かといって家庭をもつわけでもなく独り身の悠々自適の生活を送っていることは有名な話だ。
しかし毎日遊び歩くわけでもなく、この事務所に彼がいるのにはある理由がある。
この街の住人の何人かの間で、陣内はいわゆる相談役として名をはせている。
住民同士のトラブルの仲裁や、先ほどのように仕事や仕入れなどの仲介、果ては失せ物探しまで、ありとあらゆる相談事が彼のもとに集まってくる。
暇つぶしの道楽だと彼はいうが、この事務所の資料の半分がそれら事件――と言えるほどの規模ではないものがほとんどだが――をまとめたものだ。残りの半分も店とは関係のないものばかりらしいとは父親の談である。
実際の店の資料や、事務所ですら一階のバックヤードにあるので、ここは事務所という名前を間借りした陣内の私室兼資料室となっている。
そわそわしだした朝太を陣内は目ざとく気づき、懐から財布を取り出した。
「まひるちゃん、お菓子、下で買ってきてもらえますか? おせんべいでいいですから。残りはゆうひちゃんと食べる用の分、買っていいですよ」
言い、紙幣を一枚ゆうひに渡す。おおお、と目を輝かせて両手で受け取るまひる。
「陣内さん、そんな、悪いですよ」
「おつかいにはお駄賃がつきものですよ。まひるちゃんお願いしますね」
ラジャ、とまひるは受け取ったお金をポケットにしまい、駆け足で事務所をでていく。
妹を見送った朝太に、陣内は手を組んで促すように言った。
「朝太君。何か、ありました?」
やはり底知れない。緊張と安堵がないまぜになったような気持ちで朝太は口を開いた。
「実は……その」
意を決して握ったこぶしに力が入る。
「――悪魔って、いると思いますか?」
問いには答えず、陣内はただ朝太を見つめる。眼鏡の奥の眼光が鋭くなったような気がした。
「続けてください」
「突拍子もないことだとは思うんですが」
そう付け足して大門について説明を続ける間、陣内は朝太の言葉ひとつひとつにあきれるでもなく、戸惑うでもなく、真剣に耳を傾けていた。
時折、ほう、と、なるほど、と相槌を入れ言葉を促す。朝太は詰まることなく簡潔に話を続けた。
「ふむ。その悪魔――大門さんと一緒に住んで大丈夫なのか、どうしていいものか、と」
にわかには信じがたい話ですが、とつけ席を立つ。
陣内には疑った様子がない。そしてこんな話を受け入れる。自分で話しておいてなんだが、こんな話を仮にでも信じて聞いてくれるこの老人は、よっぽど優しいか、相当の暇人か。ただの好奇心かもしれない。
もしかするとこういった、ちんぷんかんぷんなことを相談する手合いに慣れているのかも、と朝太は勝手に結論付けた。
「この話……、奈津夫君には話していますか」
「はい。母さんが聞いてくれたみたいで。親父は驚いていたようです。しばらくしたら戻るので様子をみて待っててくれ、だとか」
頼りにならない親父ですよ、と次いで出た言葉に朝太は少し恥ずかしくなる。子供みたいに思われただろうか。
「はは。彼は忙しいですし。かといって放置するのも……僕としても引っかかります」
キッチンの換気扇のスイッチを入れるとタバコに火をつけた。ふかした紫煙がファンに吸い込まれて消えていく。
「わかりました。僕のほうで少し調べましょう。差し支えなければ、ですがね」
調べるといっているが、何をどうやって? 相談しといて何だが朝太には見当がつかない。何かツテでもあるのだろうか。悪魔の事に詳しい人物など想像がつかないのだが。
お茶の入ったグラスの氷が解け、カラ、と音を立てた。
「しかし、悪魔が出てきて願いを叶えるなんて話、まるで『千夜一夜物語』ですね」
「せんやいち……何ですか?」
陣内の言葉に聞き覚えのないものがあった。
「アラジンと魔法のランプ、といえば耳に覚えがありますか?」
ああ、と朝太は膝を打つ。有名な海外の昔話だ。ランプをこすると魔神があらわれ、持ち主に問う。あなたの願いを叶えましょう――。
「でもあいつ、大門はそんないいものじゃないと思います。『代償』とかって言ってたし、そもそも悪魔とか……」
「その『代償』というのが一体何を指すのか、気になりますね。実際に願いを叶えてもらったりしましたか?」
朝太は静かに首を振る。妹たちがすこし宙を浮いたが、大門の言葉を信じればあれは契約ではないらしい。
「成程、わかりました。何か起きたら連絡してください。あと……相談料ですが、安くしておきますよ」
抜け目がない。シフトを増やす相談をしたばかりの朝太には苦笑いで返す事しかできなかった。
「ご心配なく。奈津夫くんにつけておきますから。……それとそういう時は」
真面目な表情をくずして大きく息を吐く。
「ありがとう、というべきですね」
「……ありがとうございます」
食えない大人だと朝太は思う。気が付けばすべての事情を話してしまった。話しやすいといえばそれまでだが、それとは別の、話を促す雰囲気を作る技術のようなものかもしれない。
「そうだ、朝太くん。一度会わせていただけませんか? その大門さんに」
「それは構いませんけど」
陣内はタバコを灰皿に押し付けて消火する。と、同時に事務所のドアが大きく開かれた。
「ただいまー! ニンムカンリョーであります!」
ビニール袋を提げてまひるが部屋の中へと入ってきた。
「お疲れ様です。ありがとうございました」
テーブルの上に袋を置くとせんべいを取り出してレシートとお釣りを陣内に渡す。残ったお菓子は三つ。その中から一つを兄に渡す。変身ヒーローのカード付きソーセージだった。
おれの分はいいのに、といいつつ朝太は内心嬉しがっていた。朝の子供向け番組を密かに見ていたのを知られていた恥ずかしさもあったし、このカードを集てもなかったが、幼い妹の心づかいに少しばかり感動してしまった。
「陣内さん、ありがとうございます」
朝太が礼を言うとソファに座ったまひるが朝太の袖を引っ張る。
「おなかすいたー。お菓子たべてもいい?」
「それなら出前でもとりますか。まひるちゃんも一緒にいかがですか?」
「そんな、悪いですよ」
「お寿司たべたい!」
「ちょっと待てって!」
朝太が事務所の時計をみると十二時を少し過ぎたあたり。シフトは十三時半からなのでまだ時間はあるが、好意に甘えすぎている気がする。母も気を遣うだろう。
「いいですね。私もそんな気分でした」
しかし当人がのってしまうと断りづらい。それに朝太も正直なところお茶でごまかしてはいたが空腹なのに変わりはない。そして寿司の魅力に逆らえもしなかった。
「ごめんなさい、ワガママばかり……」
「素直なほうがいいんですよ。女の子は特にね」
「陣内さん、大好き!」
「ほら、モテモテです」
まひるは陣内に飛びついた。が、すぐに離れて兄の後ろに回り込む。
「タバコくさいからやっぱりやだ」
言われ、おどけて見せた陣内を、朝太は失礼だと思いながらも笑った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
携帯電話の振動でテーブルが揺れ、カチャカチャとグラスが共鳴していた。
「池田さん、電話、鳴ってるけど……」
寝ていたのだろう。陽乃の声に気づいた池田は、ぼんやりとした表情を見せたが、すぐさま慌てた様子で携帯を開いた。
「はい、もしもし。小川さん? そうカルミアよ」
応答する池田の声が少し小さくなっていく。
「そうなのね、私のことは気にしないで、うん、いいのよ、はい、はい、またね」
どうも相手が急用で来れなかくなったようだ。陽乃はカウンターから声をかける。
「小川さん、来れないの?」
「そうみたい、お孫さんが熱出しちゃったんだって。残念」
言葉とは裏腹に安堵したようなそんな声色に感じる。陽乃を見る池田の視線は上の壁掛け時計に移動した。
「こんな時間になってたのね、私もお暇してもいいかしら。あ、もしかして、お食事準備しちゃってた?」
「ううん。それより顔色悪いわ。大丈夫?」
平気平気、と返す池田の顔は笑ってはいるが無理がみえる。
「お代、置いとくわね」
「ええ……」
ゆっくりと池田が出ていくのを、陽乃は何もせずただ見つめていた。
「おかあさん、おなかすいた」
ゆうひがテーブルから顔をだす。
「そうね、ごはんにしましょうか」
「あれ、池田のおばちゃんは?」
「帰っちゃった。お友達が来れなくなったみたい。ゆう、大門さん呼んできて」
「うん。まあちゃんは?」
「まひるは陣内さんのとこで食べてくるんだって。また今度お礼しに行かなきゃ」
もう、とため息がでる。最近ためいきばかりだ。
布巾とトレーをもって池田が去った後のテーブルにむかうと、そこにはぽつんと眼鏡が置き忘れてあった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌日も朝太は大門とともにマタベエの散歩にでかけた。
時間も昨日とだいたい同じだ。マタベエが同じ時間帯に自宅前の犬小屋から出てすわり、玄関をじっと見つめ楽しい時間を待つのである。
多少の時間のずれなら大丈夫だが、待機時間があまりに長いとしびれを切らし、か細い声でねだるのである。陽乃はマタベエを溺愛しているので少しでもそのおねだりが聞こえると、どんなに眠くても起きて朝太に散歩にいかせる。朝太がどんなに眠くても朝太にいかせる。
大きくあくびをするマタベエを見ると朝太もつられてあくびをした。
「昨日言ったこと、忘れてないよな」
「はて何だったか」
「余計なことを人にしゃべるなって言っただろ」
「それと我は異国からの留学生ということであろう。承知している」
「覚えてんじゃねぇか……」
フン、と鼻を鳴らす大門。
「我をあまり侮らんほうがいい。数々の食器の位置からゴミ出しの日まで完璧だ」
人差し指をこめかみにあて、大悪魔は自慢する。完璧な家政夫ぶりを。
「……大丈夫なんだな? 信用するからな?」
昨晩、あまりイライラしてると妹たちが怖がると母に指摘された。そういうのすぐわかるからね、女の子は、と。実際にまひるを驚かせたこともあり、感情的にならないように努めるべきと自省もした。
朝太は妥協案として、大門にいろいろと任せてみて、何か問題があれば家族と相談して考える方針に決めた。
手始めに散歩を任せようと思う。会う人間も限られているし、昨日は朝太自身がいたから話しかけられただけであって知らない者ならだれも声など掛けないだろう。目立たなければ。
「でもこいつでかいからな……」
二メートル近い体は遠めに見てもすぐわかる。
「我の器のでかさに貴様もびっくりのようだな」
声もでかい。うなだれるように深い息をはいた。
「……そうね」
「ふははは。ほめたたえる権利を貴様にやろう」
いらねーよ、と見ずに言い放つと、遠くから手をふっている人物がいる。
朝太は目を凝らすがよく見えない。だが段々と近づくにつれ、それが池田だとわかった。傍らにはミハエルが嬉しそうに駆けている。
「おはよう、朝太くん」
「おはようございます」
挨拶が聞こえる程近づいた時、池田は歩みを止めた。朝太もあわせて止まるがマタベエはミハエルに近づいていく。
飼い主同士、飼い犬を注視しながら話始めた。
「マタベエちゃんもおはよう。元気ねえ。あとあなた、大門さんでしたわよね、おはようございます」
「うむ」
相も変わらず態度がでかい男だ、と朝太は思う。だが挨拶を無視したりするような奴ではないことを知っている。警戒はしているが、大門は朝太にとって苦手意識がない相手だった。
兄貴分、とまで親近感があるわけでなく、友達のように付き合う気はさらさらない。朝太の無意識の中での大門の位置づけは、面倒な親戚のおじさんのようなものだった。
そんなことを思いながらも、池田の旅行に行くという話を聞いていると、そうそう、と池田が話の舵を大門に向けて切った。
「昨日はありがとうね。あれから少しぼんやりしたけど、今とっても調子がいいの! すごい効き目。あなたアレ、お金とれちゃうわよ」
「そうか」
二人のやり取りに、朝太が何かあったのか問いかけた時、マタベエとミハエルがじゃれあい始めた。
「こら、マタベエやめな」
マタベエは基本的に危害を加えるような犬ではないが、何かあってからではお互い嫌な気分になるだけなので、飼い主同士でリードを引き合う。
「すいません、ミハエルおとなしいのにいつもこいつが」
苦笑いを向ける。池田はすこしぼんやりしていたのか、しばし間をあけると、はっとして喋りだした。
「いいの、いいから気にしないでね……」
何かあったのだろうか、先ほどとは打って変わって池田の声のトーンが下がっている。
「……ミハエル。そうよね、ミハエルよね」
呼ばれた池田の愛犬は不思議そうに主人を見つめる。
「どうか、されたんですか?」
朝太は不自然なやりとりに妙な感覚を覚えた。胸の奥にざらついた何かが引っ付いたような、それが綺麗にとれず少しだけ残っているような――。
「なんだか物忘れがひどいのかしら、この子のね、お名前がね――」
昇ったばかりの太陽が雲に隠れたのか、照らす光が弱くなり、池田の表情をうまく読み取れない。
「――全然思い出せないの」
嫌な予感がした。
「ほらまた思い出せなくなっちゃって、なんだったかしら」
その予感が確信に近づく。
「……ミハエル……ですよ」
「そうそう、ミハエルよね。なんだかやんなっちゃうわ。もう年なのかしら」
いやね、と頬に手を当てる池田。苦笑している。
その表情を朝太は太陽を隠した雲のせいにしたかった。だがもう光は強さを取り戻し、はっきりと、浮かない笑みの中年女性を照らしだす。
「またね。そう、お土産なにがいいかしら」
おかまいなく、と言う自分の声がちゃんと出ていたのか朝太にはわからない。
去っていく池田の姿を見つつ、朝太の思考はぐるぐる回る。
しばらくの間立ち尽くしていると、マタベエがリードを引く力に意識を呼び戻された。
そして朝太はふつふつと湧く言葉を一旦飲み込み、隣の大男へと静かに問いかける。
「あの人に、何をした」
「願いを叶えたまでだ」
「……願いってなんだよ」
「目を治した。見えづらいとの事だったのでな」
「それで、何を――」
声が大きくなるのがわかったが、止められない。
「何を『奪った』!」
河原に朝太の声が響いた。そして少しの間を空け、大門はおそらく、と前置く。
「名前をもらった。犬の名前だ」
犬の、名前。
それはおそらく、池田の飼い犬、ミハエルのことを指しているのだろう。
さっきの池田の言葉――、あれは物忘れではない。
うっかり、急に、思い出せないなんてことはない。
きっと彼女は永遠に覚えられない。思い出せない。愛犬の名前を。自分でつけたと微笑みながら教えてもらった、その名前を。
「てめぇ!」
朝太は力任せに殴りかかる。それをよけることもせず、大門は朝太を見つめていた。
「何をそんなに興奮している」
「何を! 何をだって!? お前は、勝手に人の大切なもの取り上げて!」
何度も何度も、右手を左手を大門の胸板に突き出すが、大門は何事もないように立っていた。
「それでなんで平然としてられるんだ……!」
「あの女の願いの価値と同等のものをもらったまでの事。その想いを我はいただく。ただ、それだけだ」
殴り続けるこぶしは痛まない。何か異質な、水の中でもがくような、感覚。
次第に朝太は殴るのをやめ、肩で息をする。
やっていけるかも、と思っていた。
常識も違う。感覚も違う。見える景色だって違うけれど、それでも――。
ただ平然とした大門をみると怒りよりも虚無感が、背筋に細い糸を通されているような異物感が朝太を襲う。
反射的に身震いした。
「お前は……悪魔だ……」
「もとよりそう、言っておるだろう」
朝日を遮る大男は、呆然とする少年をただ見下ろしていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「そう……そんなことがあったのね」
朝太と大門が散歩から帰った後、朝食前に朝太から池田の事について説明された。
席に着いたときにはまだ眠気眼をこすっていたまひるとゆうひも話を聞くうちに目が覚めていた。それは兄である朝太が真剣に訴えていたからだろう。
「やっぱりこいつは危険だと思う」
きっぱりと告げる態度に、朝太は自分なりに家族のことを考えて発言していると陽乃は確信する。父が不在の今、この家を守るのは自分の役目だといわんばかりに。
「大門さん、いなくなっちゃうの?」
まひるは心配そうに兄に問いかけた。その隣のゆうひはうつむいて肩を震わせている。そしてそれが嗚咽へと変わるのに時間はかからなかった。
「ゆうひ、大丈夫?」
「……ごめんなさい」
陽乃の声にゆっくりと面をあげたゆうひの顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
「ごえ、ごえんな――」
言葉が聞き取れないくらいに泣き出してしまった。
「どうしたの、ゆう、ゆうちゃん、何で謝ってるの?」
陽乃も泣きわめく娘にひどく動揺した。普段おとなしく、あまり感情表現の得意でない子ではあったが、こんな自分を責めるようなそぶりをしたことはない。近寄ろうと席を立つと、まひるがゆうひの頭をそっと抱きしめた。
「ゆう、おねえちゃんが言ってあげるからね」
嗚咽まじりにうなずく妹の髪を優しくなでる。
「池田のおばちゃんのこと、ゆうが大門さんに頼んだの」
その言葉を受けいっそう大きく泣き出すゆうひ。朝太も驚きながら目を見開いていた。
「……おばちゃんが目の具合が良くないよって、ゆうに言ってて、だからゆうが大門さんに聞いてみたの。おばちゃんの事、たすけてあげられる? って」
それによってなにが起きてしまうのかも、ゆうひには予測できなかった。そのことで兄が大門を責め立てることも。
ただ、善意で行動した。
池田の目は治った。が、結果として彼女は愛犬の名前を失った。幼いゆうひは自分を責めるだろう。自分のせいで池田がミハエルを呼ぶ日は二度とこない事を。大門が追い出されてしまう事を。
まひるは一層大きく泣く妹を強く抱きしめ、兄を見た。睨んでいるような、すがるような、判断できぬまま目には涙が貯まっていく。
「お兄ちゃんは、大門さん、きらいなの?」
「そんなの」
わからねぇよ、と小声でつぶやいていたのを陽乃は聞いた。
「ねえ大門さん。お願いを取り消すことってできるのかしら」
「新たに何か頂くだけだ」
「おまえ……!」
机をたたいて朝太が立ちあがった。音にゆうひとまひるが大きく震えた。
「朝太! 座りなさい!」
「しゃあしゃあと言いやがって!」
「座りなさい」
二度目は大きく声を出さず、静かに息子を制した。
「お母さんから提案があります。それを聞いてからにして」
ばつが悪そうに席に着いた朝太の沈黙を了承ととった陽乃は続ける。
「大門さん、今度誰かのお願いを聞くときは相談してほしいの」
家族を見渡す。それぞれが泣き、怒り、堪えているが母の目を見ている。
「あなたが一緒にいるのに条件をつけたいの。いいかしら」
「それが望みなら」
大門は目を伏せながら静かに頷いた。朝太は彼を横目で睨んだ。
「そんなの、おれが全部却下するかもしれない」
「それならそれでいい。誰かの大事なものを受け取るんでしょう? そんな重大なこと、受け止められないわ」
そんなの、みんな嫌なのもわかってる。陽乃はそう付け足すと子供たちの顔を見て、大門の目を見つめた。
「それでもいい? うちのことだから、うちのみんなで考えたいの」
一人の責任を家族全員で背負う。それは大門を家族の一人としてみなしたということであり、陽乃はその覚悟を子供たちに問う。
ゆうひとまひるは涙目でうなずき、朝太はそっぽをむいている。反論はなし。
「なら決まりね、早くご飯食べちゃわないと」
手を合わせると皆同様に手を合わせ、箸をとる。
「ミハエルは? もうおばちゃんに呼んでもらえないの?」
食事をゆっくりととるゆうひは、鼻声で訴える。目線を合わせずに朝太が答えた。
「あれ、作ってあげればいいんじゃないか。首輪につける名札みたいなの」
言葉の如何を問うように、陽乃は大門に目くばせをした。
「思い出さなくても、読み上げることはできるだろう」
毎度それを見なければいけなくなるのだろうが、と付け加えた。
その言葉に朝太は反応しない。
陽乃は何となく――思い過ごしかもしれないが、大門の声が優しくなったように感じた。変わらぬトーンだし、いつもの仏頂面でたくあんを噛んでいるが、そう思うことが悪いことでないような、そんな気がしていた。
「そうね、作ってもっていきましょう。みんなで」
その日の常山家の食卓は静かに終わった。
数日後の夜。店を閉めた陽乃が車を出し、池田の家に伺った。
常山家の家族総出の訪問に池田は驚いていた。
しかし朝太が買ってきた首輪につけるネームプレートや小さな名入れのタグに、『ミハエル』と双子が書き入れたものを受け取ると、替わりに趣味でやっていた家庭菜園で採れた野菜を渡してきた。
拒否する陽乃に対し、なんだか悪いから、と強引にもたせる池田。そんな彼女に常山家の人々は強く言えなかった。
事情を説明することははばかられたし、信じてもらえるかも怪しい。
そもそもおまじないで目が良くなったことを信じ切っているようだったが、大門によれば齟齬は本人で解釈し、それを問題視することはまずないだろう、という。
池田は早速つけた名札を見せるようにミハエルを抱きながら、車に乗り込む面々を見送った。
訪問してから帰るまで池田は眼鏡をしていなかった。
――
その日の深夜。
子供たちが寝静まったころ、陽乃は店のカウンターに座り、冷蔵庫から出した缶ビールを開けた。客向けには酒は出していないので自家用である。
普段、奈津夫の晩酌の付き合い以外で酒を飲むことはない陽乃だったが、たまにこうやって一人で飲むことがある。
開けたビールも奈津夫がいる時の為に買い置きしてあったものの残りだが、彼も別段酒がなくて困るタチではない。当人がしばらくすると帰ってくるのでその時にでも買えばいい。
二つ目の空き缶を並べ、三つ目を開ける音だけが静寂を割る。
ぼんやりとしだした頭で、池田に起こった事の顛末を聞いた時のことを思う。
あの時陽乃は、見て見ぬふりだって選択肢としてあると思っていた。本音はそれを選ぶことに迷いはあれど、家族のためと思えばためらいを彼方へ追いやれる。
例えば悪魔を住まわせていることが世間に知られ、それが悪用されることだって、ありえないとは言い切れない。そうなれば家族が何かしらの事件に巻き込まれることもある。
例えば大門が誰彼構わず願いを叶えて元の場所に還ることも許容したっていい。許容どころか知らぬ存ぜぬを突き通して、とっとと異常事態を収めて還らせることの何がいけないのだろう。
だが、なぜそうしないのか。
なぜ、厄介ごとを引き受けるようなことをしているのか。
大門は、他者の願いを叶え、代償にその願いの重さに比例した何かを奪う。それで奪われるモノを初めて目の当たりにして陽乃は少し揺らいだ。
池田は目を治し、愛犬の名前を捧げた。
代償がそれだけで済んで良かったと陽乃は本気で思っていた。娘が心を痛めていたが、それよりも大きなものを望んでいたらどうなっていたのか。
そしてそれがもしも――。
胸の底が締め付けられる。酔いかけた意識を戻すような感覚が陽乃を襲う。
「どうした、夜更けに一人で酒盛か」
邪魔をしたか、と通用口から大門が現れた。
「……大丈夫。あなたも飲む?」
精一杯で笑って見せた。大門はいただこう、と言うと自然な足取りで冷蔵庫から缶ビールを取り出した。陽乃の向かいに立つと、握りつぶさぬようゆっくりとした手つきでプルタブを起こす。
「でっかいバーテン。ほら、乾杯」
陽乃が突き出した缶ビールに大門が缶をそっと当てると、そのまま一気にあおった。
「なかなかだ。しかし量が少ないな」
「味わって飲んでよ。安くないんだから」
空いた缶をその手に持ち、大門は陽乃を見ていた。
陽乃は大門に問う。
「お店繁盛させてってお願いしてみようかな」
「すればいいだろう」
だが、と付け加えながら目線を外した。
「本当に叶えたいものとは違うな」
なんでそんなことを言うのだろう。疑問は浮かぶが声には出さず、ふ、と陽乃は笑った。
そして陽乃は大門につられるように目線を外し、小さな、小さな声でつぶやいた。
「ねえ大門さん。……そのお願いを叶えたら私から何がなくなるのかな?」
聞き取れないくらいの声で、いや口に出していたのかも分からないほどの問いかけ。
それを悪魔は聞き取った。
「対価は同じ価値を持つものだ」
大門の低く静かな声が、店内に染み込む。
「そうなれば他の誰かの――」
「ならいい、いらない」
「そうか」
陽乃は笑った。微笑んだように見えた悪魔に対するように。
――うまく笑えているか、自信は全くなかった。