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大門さんは大悪魔  作者: 条嶋 修一
3/10

2話 前編

 薄く広がる青に陽光が差し込む明け方。大きな川に反射する光が容赦なく土手沿いを歩く朝太の目に突き刺さった。


 柴犬のマタベエ(メス)が我先にと手綱を限界まで引っ張り、朝の散歩をにぎやかにしている。彼女は今年で三つになるがまだまだ子供の気分は抜けていない。しかしそれを補って余りある愛嬌がある。


 朝太は悩んでいた。

 朝太の頭痛の種は、まぶしい朝日でもマタベエでもない。


 それは朝日を浴びてもなお黒く、そびえ立つ塔のように高い。その背丈は、日本の平均男性くらいはある朝太の上背とくらべ、頭三つ分以上ある。手足も同様に大きく、長い。およそ日本人とは思えない体躯の男が隣にいる。


 彼は大門。先日朝太の家で召喚された、自称大悪魔だ。


 そんな、清々しい朝にまったくもってミスマッチな地獄の使者は、頭を悩ませる朝太の隣を悠々と歩いていた。


「はあ……」


 思わずため息が出る。


「どうした? 悩み事があるのなら、我が叶えてやらんこともないぞ」


 とうの本人がこの調子であることも、頭痛の原因の一つ。


「厄介者がいてな、そいつがどこかに行ってくれると全部解決するんだよ」

「ふむ」


 大門が大仰にあごをかく。自分のことだと気づいてくれたのだろうか。


「マタベエよ、貴様も犬の身でありながら大変なことであるな。我でよければ相談に乗ってやらんでもないぞ。」


 大門の声に犬のマタベエは首をかしげる。


「おまけにアホときたもんだから手に負えねえよ……」


 興味をなくしたのか、マタベエは土手の草を嚙み始めた。


「そんなことはどうでもいいんだ。……おまえ、ちゃんと道覚えてるんだろうな」

「ふはは、誰に問うている。我に不可能などあろうものか、いやない」

「うっぜえ……」


 深くため息をつく。昨日から何度めなのか、数える気も起きない。


「いいか、お前が覚えてなくてもマタベエが覚えてるんだから道はある程度は大丈夫なんだよ。問題は人だ、人」


「人、とな」


「この辺じゃマタベエもそれなりに顔が割れてる。そんなのを連れてる人間がいつもと違ってでっかい大男になっててみろ、どう思う?」


「イメチェン?」


 小首をひねる仕草がいらだちを加速させる。


「不審者だと思うんだよ、馬鹿」


「何を。我ほど身分がしっかとわかる者はおるまい。由緒ある名家の出の母が――」


 悪魔が出自について講釈を始めそうなので、朝太は話題を変えることにした。


「お前をどう説明したものか……」


 早朝まもなくとはいえ、人通りはそれなりにある。先ほどから通りすがる人は会釈程度で済んでいるが、知り合いに根掘り葉掘り聞かれてしまうことだってある。


 そんな中で『悪魔』を自称する男が居候している家だと知れたら。ましてや母親は喫茶店を営んでいるのに。


 朝太の背筋が一瞬で凍り付く。


「何を悩む必要があるか。堂々としていればよかろうものを」

「どこの世界に悪魔が犬連れて毎朝散歩してる世界があるんだよ……」

「我のとこだと普通」


 大門との会話は予想以上に朝太の精神力を奪う。要するに疲れる。


「あー。そうだ。お前外人ってことにしろ」

「ガイジン? あくまでガイジン?」

「そう、あくまでもガイジン」

「我、ガイジン」

「そう、できるだけカタコトで喋るんだ」

「カタコトとはいったい何だ」

「べらべら喋るなってことだよ」


 不毛なやり取りが続いていたが、前から見知った人物が歩いてきた。散歩のときによく会う池田という高齢の女性だ。彼女の傍ら、飼い犬である真っ白いマルチーズが大門を見上げ、尻尾を振っていた。


 朝太に緊張が走る。


「あらあら、朝太くんおはよう。マタベエちゃんも元気でいいわね。……あら、あなたずいぶん大きいわねぇ。どちら様? 朝太くんのお友達の方?」


 早速構えていた質問に答えるべく、朝太は肘で大門を小突く。


「うむ。誰かと問われれば答えねばなるまい。女よ、しかと聞け」


 事前の打ち合わせはどこへと行ったのか。大門は大仰に手を振った。


「我こそは大悪魔、ダイモーンである! 貴様のような矮小なニンゲ――」

「あー! この人は親父の知り合いでホームステイしてる大門っていう人で! 日本にまだ慣れてなくて!」

「い、いまダイアクマって……?」

「大学生、大学生って言ったんです、日本の大学に研修できてましてそれでうちにホームステイしているんです彼。少し日本語と母国語が混ざってて聞き取りづらいこともあるでしょうけど要は慣れですね慣れ。ちなみに完全に外国の風貌ですけれど大門というのは彼が日系三世だからですからそういうことですから。そういうことですから。しばらくうちにいますので仲良くしてやってください、それはそうと今日もお綺麗ですね池田さん、ミハエルは今日も可愛いなそれではまた」


 面食らったままの池田さんと鼻を引く突かせる彼女の愛犬、ミハエルをそのままに、早足でその場を後にする。


「お前は本当に常識ってもんを勉強してくれ……。いいか最低限だ、それだけはちゃんとしてくれ」


 十分に距離をとった後大門を見ずに朝太は言った。当の大門は何食わぬ顔で朝太を見下ろしている。


「ふむ。それが貴様の願いなら」

「……命令だ」


 初夏とはいえまだ肌寒い風が吹き付ける。かき消されないようしっかりと相手を見据え、朝太は告げた。


「それが嫌なら追い出してやる」


 ――


「ただいま……」


 散歩を終え家に着いた。

 返事はない。妹たちや母はまだ部屋から出てきていないようだ。


「おい、あいつら起こしてきてくれ、飯にする」


 大門と目を合わさずに指示し、朝太は朝食の支度を始めた。

 ふむ、と相槌を打った大門は、階段を上がっていった。


 さて、と前置いてエプロンを付けていると、天井から声が響く。


「起きるがいい、愚鈍な子供たちよ」


「わぁ!」「ちょっと、勝手に入ってこないでよ!」


 着替えていた最中なのだろうか、なにやら妹たちが悪魔に抗議しているようだった。


「起こせ、と言われたのでな。目が覚めているなら結構だ。こら、モノを投げるでない」

「うるさいうるさい! 女の子の部屋にノックしないで入るなんてサイテーなんだから!」

「ヘンターイ」

「朝から何騒いでるの? 母さん目が覚めちゃったじゃない」


 母まで参加し、騒ぎがさらに大きくなった。肩を落としながら、朝太は下準備をしていた朝食の準備を進めていく。


「おかーさん! 大門さんが部屋に入ってきた!」「ヘンターイ」

「あなたヘンタイなの?」

「断じて違う。我は大悪魔なる――」


「朝からうるせーな、あいつら……」


 騒がしさを連れたまま、家人がみな降りてきた。


「お兄ちゃん、ありがとね。じゃあいただきます」

「いただきます」


 朝太は終始眉間にしわをよせ、まひるはむくれている。ゆうひはむくれたまひるの真似をしているが、口元がゆるんでいる。


「……はあ。朝からなんだか騒々しいと思ったら今度はみんなして黙っちゃって。なんとなく想像はつくけど、仲良くできないの?」

「だってこいつが!」

「朝太、箸で人を指さない。まひるもゆうひも真似しないの。何、どうしたの」

「……こいつ常識がなさすぎるんだ。今朝も散歩中に池田のおばちゃんに大悪魔だのなんだのって言い始めるし、やってらんねぇよ」

「女の子の部屋をノックしないのはヘンタイだと思いまーす」「まーす」


 話題の中心にいる大門は、手に取った二本の箸を物珍しそうに眺めていた。


「ほんとあなた、子供っていうか赤ちゃんみたいね」

「失敬な。赤ん坊などではないぞ、我は」


 二つの端を両手に持ち紅鮭に交互に刺す悪魔からは、説得力が見受けられない。


「じゃあ私たちの、弟?」

「ゆう、やったね。私たちおねえちゃんだ!」


 むくれていたはずのまひるは椅子から乗り出してゆうひとハイタッチしていた。


「……もう。それなら三人にお願いしようかな。お兄ちゃん、お姉ちゃんになったあなたたちは、おうちの約束やお当番を大門さんに教えてあげること。もちろんお母さんも一緒に手伝います。できる人」

「「はーい」」


 双子は手を上げて息の合った返事をしたが、朝太は食べ終わった食器の前で手を合わせる。


「ごちそうさま。母さん、俺反対だから。こんなやついつまでも家に置いとけない」


 言い、朝太は早々に食器を台所に持っていく。


「大門さん」

「ふむ」

「まあ仲良くしてね。あんなこと言ってるけどあれただの思春期だから」

「母さん、早く食べないと時間なくなるぞ」


 どん、とテーブルに手をついてすごむと、そのまま妹たちが食べた食器をもって戻っていった。


「はーい。……ほらもう素直じゃないとこが思春期ねぇ」


 朝太が手をついたところにあったフォークを大門に渡して片目をつぶる母。



  ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 朝太やまひる、ゆうひの母、陽乃はるのは『カルミア』という喫茶店を経営している。


 喫茶カルミアは何度か改修しているが、店舗と居住スペースが繋がった構造はずっと変わっていない。


 板張りの床に大きなシーリング・ファン。古めかしいサイフォンと父の趣味だった時代物の小説が並ぶ本棚。カウンターに四人掛けのソファが少し並ぶ縦長の店内は、レトロな純喫茶としてこの町ではある程度名が知れている。


 もとは彼女の祖父が開いたもので、父、そして陽乃に引き継がれ、もうかっているとは言えないまでもそれなりに続けていられた。


 それは祖父や父の代から続く常連であったり、彼女の友達など、地域の人々に愛され続けてきた結果である。そのため、昔ながらの味と新しい味を常に両立させる必要があり、祖父も父も同じように時代に沿いながら地域と共にこの店と歩んできた。


 陽乃はこの店を愛していた。彼女が結婚をするときも店の跡取りが自分しかいないことを夫に相談し、店を続けることができた。


 夫や彼の家族が婿養子に関しても気がねない人物であったこと、彼の両親もこの店の常連だったこと、なにより彼がこの店と陽乃を愛していたことがカルミア存続に繋がった。


 古くなったカウンターを拭きながらふとため息が漏れる。


「お母さん、どうしたの?」


 床を箒で掃いていた手を止め、ゆうひが母へ声をかける。今日はゆうひが店の開店手伝いの日だった。


「いやね、ため息聞こえちゃってた?」

「すごい、大きかったよ」


 はにかむ娘をみてつられて笑ってしまう。


「大門さんのこと?」

「ちがうちがう」


 大門がきてから朝太が少し苛立っていることはわかっていたが、そのことをゆうひも気にしていたんだろう。陽乃は目の前で大きく手を振り否定する。


「大門さんのことね、お父さんと話したんだけど、帰るまで待っててほしいって言われてるから。そこはそんなに気にしていないよ」


 さっぱりした物言いにゆうひはきょとんとしている。


「ちょっと大きすぎるけど子供が一人増えたようなもんだし、今更一人増えようがって感じかな?」


 笑って答えて見せた。


「……じゃあ何かあったの? おなか痛い?」


 ゆうひはまひると違い少し心配性だった。性格もおとなしいので少し悪いほうへ考えるきらいがある。そんな娘を陽乃は心優しい子であると思う反面、気にかけていた。


「大丈夫だよ。元気元気。……あの、駅前に新しいカフェができたでしょ?」

「うん。都会にあるやつ……だよね?」


 そうそう、といいながら拭き掃除を再開する。それに合わせてゆうひも箒を動かしながら母の話を聞く。


「やっぱり少し、お客さんが減ってるの。仕方のないことなんだけど、ね」

「そうなんだ……」


 大手チェーンの強みか、若い人たちはこぞって駅前のカフェに行くのだという。それなりに栄えているこの町にもそういったカフェは二件ほどあったがこことは駅から真逆の方向にありいままで影響はなかった。


 常連の何人かはいつも通り来てくれてはいるのだが、ふらっと立ち寄るような客や若い客はこのところとんと見かけない。


 仕方のないこと、といってはみたものの売上が落ちるのは見過ごしていい問題でもない。

 かといって具体的な打開策があるはずもなく。


「やっぱり何か新しいことでもしなきゃなのかもね……」

「新しい、こと?」

「そ。ゆうは何かある?」

「うーん」


 ゆうひはまた手を止め、首を傾けた。


「まあ考えといてよ、お母さん表開けてくるから」

「うん」


 裏手から出て店のシャッターを開ける。朝九時になると気温も高く額に汗がにじむのがわかった。


「よし、今日もがんばりますか」


 陽乃はあまり深く考え込まないタイプである。切り替えて表の掃除を始めた。

 初夏も過ぎようとしている。今日の天気は快晴だ。



  ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「ねーお兄ちゃん」

「なんだ?宿題なら手伝わんからな」

「ちがうよぉ。どっか連れてってー」


 今日何にもないんだぁ、とソファで足をバタバタさせてまひるが訴えていた。


「ゆうと遊べよ。もうすぐ手伝いも終わるだろ。マタベエも連れてってさ」


 掃除機をかけながら答える。

 常山家の兄妹はそれぞれ当番でその日の役割を決めている。それぞれ手伝いが終われば自由行動だ。


 今日はゆうひが店の回転手伝い、兄の朝太が家の掃除。まひるはお休み。常にお休みの番を作り持ち回りにしている。


 朝太は今日早めに起きて、大門とマタベエの散歩に行く前にある程度掃除を始めていた。それも、あと少しでキリがいいところまで終わる。


 彼は趣味が掃除だと言っていいほどきれい好きだった。


 自分の当番のときに時間があれば日が暮れるまで掃除をするときがある。そんな彼を母はほめそやすが、本人にとってはただ単に楽しくてやっているだけである。ストレス解消にもなるとさえ感じていた。


 高校に入ってからは時間もなくアルバイトなども入れているためここのところあまり念入りにはできていないことが朝太には不満ではあった。


「えー。やだ。お兄ちゃんと遊ぶの。最近全然あそんでくれないし」


 足でクッションをつかみながら仰向けでもてあそぶ。くるくると回しているさまは本当に器用なもんだと感心するが、はしたないと注意すべきか迷う。


「俺は今日バイトあるから駄目だ」

「えー。けちー」

「ケチじゃねえだろ。俺は忙しいの」

「もういいもーん。大門さんに連れてってもらうから――」


「駄目だ!」


 朝太の声にまひるは大きく飛び跳ねた。朝太自身も意識してないほどの大声。

 みるみるうちにまひるの目に大粒の涙が浮かぶ。


「わ、悪い、大きい声だして……。その、あいつはまだ世間になれてないから、さ。それにあいつ、今日は母さんの手伝いすることになってただろ?」


 慌てて頭をなでて取り繕っても、まひるの目からこぼれる雫を止められない。


「うぅ……」


「ごめん、ごめんって。……ああもう! わかった、俺のバイト先くるか? 邪魔しないならついてきていいから」

「……どこ?」

「陣内さんとこだ。行ったことあるだろ? 俺から聞いてやるから」


 しゃくりあげる声は止まらないが、大声で泣くのをこらえてうなずくまひる。朝太はそれを見て携帯電話を取り出す。


「……お疲れ様です陣内さん。朝太です。はい、おはようございます。すいません、今日なんですけど妹も一緒に、ええ」


 陣内、という人物は、朝太の父親の友人で、駅前のマンションの一階でスーパーマーケットを経営している。朝太は毎週日曜日にそこでアルバイトをさせてもらっていた。


 事務所が二階にあり、ゆうひやまひるは父親に何度か連れて行かれたことがある。陣内は独り者で経営といっても店にでることもないので暇を持て余していることが多い。妹たちになにかと世話を焼きたがり、お菓子などもすぐ与えてしまうので二人に大人気だ。


「すいません、ありがとうございます。それでは失礼します」


 電話を切り、まひるを見るともう泣き止んでいて笑顔でこちらを見ている。


「是非いらっしゃいだとさ。絶対に邪魔すんなよ。いいな」

「うん。お兄ちゃん、ありがと! じゃあゆうも呼んでくるね!」


 すっかり機嫌を直し、ぱたぱたと走り去っていく妹。もしやウソ泣きだったのではないか。

 昔みせられた占星術だかの結果に「女で苦労する」と書いてあったのを思い出し、少しげんなりした。



  ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 真夏というにはまだ早いが、容赦なく照り付けてくる日差しは彼女には辛く感じられた。


 家からの距離がそれほどあるわけではないが、彼女――池田敏子は一刻も早くクーラーの効いた店内に入るため、勢いよく喫茶カルミアの扉を開いた。


「いらっしゃいませ!」


 元気よく迎え入れた店員は薄めのライム色のワンピースに白いエプロンをつけた、年のころ十歳くらいの女の子。髪はサイドに二つにまとめ、少し丸い鼻と弓なりになった眼がかわいらしい。


「おはよう、ゆうちゃん、ね。今日も可愛いわねぇ。ほんとお母さんの小っちゃいころそっくり」

「おはよう、おばちゃん。こちらへどうぞ」


 涼しくて快適、といいながら小さな店員さんに促されていつものテーブル席につく。


「今日はお手伝い? まひるちゃんは一緒じゃないの?」

「うん。まあちゃんはお兄ちゃんとお出かけしてるんだ」

「そうなの。ゆうちゃんはえらいわねぇ。じゃあアイスコーヒーいただこうかしら」

「あ、待って待って。ごちゅうもんは何になさいますか?」

「あらあら」


 仕切り直すゆうひに微笑む。奥で店主の陽乃が申し訳なさそうに会釈しているのが見えた。


「じゃあ可愛い店員さん、おすすめはなぁに?」

「えっと、きょうは暑いので、アイスコーヒーはいかがでしょう?」

「まあ、ちょうど頂きたかったわ。じゃあアイスコーヒー一ついただきましょうか」

「はい、かしこまりました」


 すました顔でお辞儀をするゆうひをみて顔がほころぶ。


「池田さんごめんなさい。つき合わせちゃって」

「いいのよ。こんな可愛い店員さんなんだもの。看板娘として売り出せちゃうわ」

「ありがとうございます。今日は旦那さんは?」

「朝から釣りに出かけちゃっていないの。だから今日はここで小川さんとお茶するの」

「待ち合わせ? お昼どうするの? 食べてく?」

「そのつもり。いつものでお願いね。小川さんも一緒だと思うから」

「はいはい。じゃあコーヒー入れたら準備しときますね」


 いつもの、というのはカルミアの人気メニュー、ナポリタンセットのことを指す。陽乃の祖父が戦後まもなく開店してからずっとある定番の味といえるものだった。


「お母さん、今日スパゲッティ?」

「そう。ゆうも食べる?」

「ゆうはカレーがいいな……」

「はい、じゃあお母さんもカレーにしよう。そうだ、ゆう、大門さんにも聞いてきて」

「はーい」


 敏子は大門という言葉に反応した。


「陽乃ちゃん、大門さんってあの大きい外人さん?」

「あ、そっか池田さん会ってるんだっけ。そうそう、外人さん? あの人の知り合いなのよ」

「ホームステイしてるんですってね。朝太くんから聞いたわ。偉いわねぇ」

「あー……うん、そうなの。ちょっとお店も手伝ってもらおうかと思ってるの。勉強も兼ねて、ね」

「失礼する」


 店の奥から身の丈二メートルはあろう巨躯が現れた。サイズの合ってないエプロンと頭にある三角巾が恐ろしいほどに合わない。


「陽乃。カレーは我にとっても馴染み深いものだ。是非いただこう」

「まだ入っちゃダメなのに……」


 ゆうひが引きずられながら大門のエプロンを必死で握っている。


「ふふ、大きなワンちゃんみたいね」


 敏子に気づいた大門が小さくうなずく。


「あらこんにちは、大門さん。外国の方なのに随分言葉がお上手なのねぇ」

「池田、だったな。我にとって言葉の壁など些末事である。なぜなら我はだいあ」

「はい、おまちどうさま。アイスコーヒーです」


 陽乃が慌てた様子でテーブルにコーヒーを置いた。


「あ、ゆうがやりたかったのに」

「ちょっと大門さん、こっち」


 陽乃はゆうひの抗議を聞かぬまま大門をつかんで店の奥に連れて行った

 ゆうひと池田は二人を見つめている。


「ねえ、ゆうちゃん。なにかあったのかしら?」

「わかんない……。きょうはミハエルは一緒じゃないの?」

「今日はね、小川さんとおしゃべりするから長くなっちゃうとほら」


 飲食店なので動物連れは断られる。しかし常連の中での常識だが、短時間であれば裏手につないでの食事が可能だ。かといってこの日差しの中で外に長時間放置することになるのでミハエルは池田家のクーラーで涼んでいる。


「ゆうちゃんはもう夏休み?」

「ううん、二十三日からだから、えっと」


 カウンター内にある日めくりカレンダーをみる。


「あと五日、かな」

「ううん、四日、だよ?」


 ゆうひがすぐに指摘した。


「やだ、間違えちゃった」


 池田にはカレンダーの数字がアラビア数字で十八に見えたが、今日は十九日だったようだ。最近目の調子が良くない。近眼でもあり老眼でもあったが、眼鏡を変えても追いつかないほど、視界がぶれてしまうことがある。


 眼鏡をはずし布で拭いているとゆうひが心配そうに池田の顔を覗き込む。

 無意識にしかめ面をしていたようだ。


「目、痛いの?」

「そうじゃないのよ。ありがとね。なんだか最近見えにくくなっちゃってね。」

「そうなんだ……」

「心配しないで。歳だからしかたないのよ。でもまた旅行にいくから景色が見えにくくなるのは嫌だわ」


 溜息がでる。写真が趣味の夫が定年を迎えてから頻繁に旅行に連れていくのだが、敏子にとっても旅先での景色を見るのは楽しみの一つである。

 浮かない表情のゆうひが、はたと何か思いついたように声をかけた。


「ちょっと待っててね」


 そしてそのまま家のほうにつながる通用口へ走っていった。。

 入れ替わりにその入れ替わりに陽乃が店に戻ってきた。


「何? 慌てて出てっちゃって」

「さあ、なんだったのかしら……。そうだわ、陽乃ちゃん。今度熊本行くんだけどお土産何がいいかしら」

「旦那さんと? いいよ、そんな気を使わなくても。楽しんできてね。温泉行くんでしょ?」

「そう、そうなの。温泉たのしみ! 陽乃ちゃんもたまにはどう?」

「うちは人数いるから難しいかも。みんなの休みが一緒にならないとだし。そもそも一人帰ってきてないから」

「まだ海外? 奈津夫くんいそがしいわねぇ」


 陽乃の夫である常山奈津夫も池田は小さいころから知っている。


「うん。でも昨日喋ってたら近いうちにかえってくるって」

「あら! いいことじゃない!」


 自分のことのように喜ぶ敏子。陽乃は照れくさそうに笑った。

 敏子には息子が三人いるが、みな都会で家庭を持って暮らしている。自分の息子たちと同年代の奈津夫や陽乃は、どうしても我が子のように接してしまう。


「あ、いけないナスとってくるの忘れちゃってた。池田さんまた少し外すね」


 いってらっしゃい、と手を振る。


 喋ってばかりいたせいかアイスコーヒーのコップには水滴がびっしりついていた。ストローだけを持ち啜ると、いつものほろ苦く少し酸味の効いた味が下にじわりと広る。


 昔からここのコーヒーが好きだった。店の雰囲気も。


 幼馴染だった陽乃の父、辰彦の事を少し年の離れたお兄さんとしてあこがれていたこともあった。


 夫とのなれそめにもここに通った。彼もここの常連だったし時折一緒になることもあったが、お互い意識してからくるとまた別の空間で。


 ――視界がぼんやりとしてきた。最近いつも気が付くと世界の色が薄くなったように見える。ところどころかすんで見えていくことが、思い出が薄らいでいくように感じてしまう。


 眼鏡を外し、目をこする。

 と、目の前にあの大男が立っていた。


「――願いを叶えてやろう」


 彼が敏子の目の前で大きな手を広げた。

 ぼう、と青く淡い光が見え、すぐに消える。

 視界が霞む。先ほどとは違い、何か人工的な、硬い視界。頭にもやがかかったようだった。


「あなた、何を」

「我は、そうだな、だいがく、でまじないの研究をしているのだ」

「おまじ、ない……」


 視界が薄く、暗くなっていく。瞼が重く目をあけていられない。意識も同様に薄れていくのを敏子は感じた。



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