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ファンタジー世界における言葉の問題

作者: Via

現地の人々の文化は現代日本とは違うのだから、独自の言葉を使い、違う表現の様式を持っていることが予想される。そういう問題は一切考えず、なんかよく分からないけど話が通じるのだ、ということにしておいても、大きな問題はない。ご都合主義ではあるが、まだ軽度のものだろうと思われる。なぜならば、結局の所、異世界そのものがある程度ご都合主義だからだ。


さて、「ちょっと待ってくれよ!」とか「絶対に許さない、絶対にだ」という台詞の大元、現地の人々の言葉の発音をそのまま文字に起こしたら、一番近いのが「もけけぴろぴろ」だったという可能性が否定できるだろうか? 出来ない。


作者は結局、異世界の文化や表現を、自分の言葉、自分の作品を読む人々の言葉に通訳して語っていることになる。


A,地の文


台詞の方が考え方が難しいので、まずはこちらから。


1,一般名詞


一般名詞については、それほど深く考えなくてよいと思う。我々が「城」と呼ぶようなものが存在し、それを彼らが「ほげほげ」と呼んでいたとしても、作者は単純に城と書けばいい。読者もそれで満足する。誰も困らない。


もしこれに異議が唱えられるなら、後はもう全部現地の言語で書きなさいということになる。それはそれで興味深いが、たぶん誰も読めない物になるだろう。


しかしながら、我々の世界にはない一般名詞の場合はどうすればいいだろうか? その場合は個別に対応することになる。独自の単語を当てたり、我々が知っている中で一番近い言葉を当てたりするだろう。


2,固有名詞


固有名詞の場合は、もう少し事情が複雑になる。


「仁王立ち」という言葉は一般名詞だが、「仁王」は固有名詞だ。もし異世界に仁王が存在しないならば、仁王立ちという言葉も存在しないことになる。では作者は、ある姿を仁王立ちと表現してはいけないのだろうか?


まず、地の文とは、作者が異世界の出来事を読者に分かりやすく説明している部分であることを念頭に置く。ということは、作者にとって、読者にとって、それが仁王立ちという言葉が適切な場面なら、仁王立ちと書けば目的を達していることになる。それ故に、この表現で問題ないと考える。


しかし、地の文とはいえ、一人称の場合もあるだろう。異世界人の一人称の場合は、仁王を知らないのに仁王立ちと書いていいのかという疑問が湧くと思う。これは、台詞と同じ扱いをするべきと思うので、後半で扱う。


さて、固有名詞の問題のもう一つは、名前の読み方だ。日本人の多くは「毛沢東」を「もうたくとう」と読む(と思う)。「マオツォートン」と読む人はまず見かけない。マオはよく見かけるけど。


しかし、日本人名で時に見かける「一二三」を、「One hundred twenty-three」と読むことは正しいことだろうか? 英語圏の人であろうとも、「Hihumi」と読むべきのはずだ。


ということは、固有名詞はその名がつけられている文化での読み方、その音をそのまま再現することが望ましいことになる。これは翻訳してはいけない部分だ。


すると問題が大きくなる。


異世界人の名前は、基本的には私たちにもなじみのある名前、少なくともあまり読みづらくない名前が多い。英語風だったり日本語風だったりするかもしれないが、The Elder Scrollsシリーズのアルゴニアン族のような、耳慣れない名前がつく人間キャラクターは少ない。


どういうわけか? どうして異世界なのに、我々にも馴染みのある名前が多いのか? 文化を一から形成した結果、たまたま地球と同じような命名文化が誕生する確率ってどのくらいだ?


そういうツッコミをしたくなる気持ちは分かる。私もご都合主義が嫌いな方だから、全く気にならないわけではない。しかし、最初に書いたように、異世界そのものがご都合主義だ。


その理屈で言うなら、一から宇宙を作り出したとして、一日が二十四時間(一日は自転周期から求められます)、一年が約三百六十日程度(一年は公転周期から求められます)、という条件を満たし、しかも中世ヨーロッパ風(必ずしもそうではないが)のテクノロジーや社会制度をもつほ乳類が存在し、自然や植生も似通っている惑星が誕生する確率はどのくらいだ?


という話になる。結局、このあたりは「そういう話が書きたいから」という理由で、作者が勝手に世界をでっち上げているに過ぎない。だから、登場人物の名前が地球人ぽいのも、許されるご都合主義ということになるだろう。これがだめなら、異世界そのものを否定するしかない。


3,単位


次の問題は単位だ。距離や重さ、時間の単位などのことだ。作中で「一メートル」という言葉を使っていいのか? と悩んだことのある人は多いのではないか。


結論としては、地の文ならば問題がないと思う。が、慎重に進めよう。


今し方ご都合主義は仕方ないと言ったばかりだが、異世界の住民が、我々と同じ単位を使っているのは違和感がある。自然に考えれば、違う単位を使うだろう。同じということにしてしまったっていい。そこまで行くなら、もう言葉の問題を考えるのをやめ、なぜか向こうも日本語使ってることにしてしまえばいい。


さて、異世界の人達が「うんにゃろめっぺろ」と発音したとしよう。これはその人達にとってのキリのいい距離で、我々が測り直すと「半径9.335キロメートル」の範囲を意味するかもしれない。


その場合、作者はどのように表現するのが無難かと言えば、たぶん「半径約9キロメートル」になると思われる。それで読者は全く混乱せずに読めるはずだ。


ここで生じうる違和感としては、キロメートルという地球の単位が使われていること。それが異世界の話で登場することを、おかしいと感じる気持ちが生じる。


しかし、それで作者も読者も納得し、状況を正しく飲み込めるのなら、何がいけないのだろうか? それを許せない人は、きっと「仁王立ち」も拒絶するのだろう。仁王立ちと似た意味を持ち、その世界に存在するものを由来とする新たな「ぽっぺけぺー立ち」のような言葉を作って納得するタイプということになる。


そういう人がいてはいけないとは言わない。そうしないと納得できない作者や読者は、そういうものを求めてもいいと思う。ただ、それらの人はたぶん少数派であり、あまり意識する必要はないと思っているけども。


結局の所、異世界人が何という言葉を使っていようとも、それを我々の尺度に直したもので描写すれば事足りる。ただし、いくつかの例外があるので、それを説明しないわけにはいかない。


一日ってどのくらいだろう? 「その男は、一日中立ち尽くしていた」という描写があったとする。で、それは具体的に何分? 何秒? いやまて、そもそも一分ってどのくらいだ?


とりあえず、一日がどのくらいだか知らないが、一日とは自転が一回終わるまでの時間としておく。その世界が本当に惑星なのかどうかすら定かではないが、連続するある二日で、それほど一日が変わることもないだろう。あるかもしれないが、その世界はそういう世界ではないということにしておく。そして日の出から、次の日の出までの時間でも計ったことにしておこう。もちろん、もっと天文学的に計算したことにしてもいい。


これが一日だ。そしてそれを任意に分割していく。たまたま二十四等分して、六十等分して六十等分すれば、ほら時分秒が一致する。自転にかかる時間がいかほどであろうとも、一日は二十四時間だし、一時間は六十分になる。が、何の解決にもなってない。


それで、その世界の人たちの呼吸周期、瞬きの頻度がわれわれと一緒だったと仮定して、一分の間に何回行われるのか。それはまだ算出できていない。


だからここでもご都合主義が出てくる。地球と同じ程度の惑星なんだと。だから惑星の大きさも同じくらいだし、重力加速度も一緒だし、自然の分布や地形も似てるんだと。自転の周期が違うことから想定される、様々な指摘から逃れ、世界を一から再構成する手間を避けるためにも、それが無難だ。


よって、一日中立ち尽くしていた男は、だいたい一日中立ち尽くしていたことになる。作者が読者に翻訳して読ませる場合でも、同じように表現できる。


さて、先ほどはたまたま一日を二十四分割したが、異文化でも同じ分割をする保証はない。ここを変えても、指摘スパイラルには陥らないはずだ。人間が勝手に決めていい部分なのだから。


だから、一時間とか一分とかになると、どのくらいの間なのかは分からなくなる。ある間を我々が計り直したとして、三十分に相当するなら、三十分と表現してもいいだろう。たとえその世界に「分」という単位が存在していなくてもだ。仁王がいなくても仁王立ちと書いていいのなら、分がなくても問題あるまい。


さて、最後にお金の単位の話をしよう。お金の単位は、翻訳してはいけない。異世界で流通している通貨が「ぷっこ」だったとしても、それを勝手に「円」とか「ドル」と変えてはいけない。


なぜならば、ぷっこを計り直すことが出来ないからだ。いや、仮に出来たとしてもやってはいけない。たとえば、イギリス王ジョージ四世が、五千八百万ポンド程度の借金を抱えたことがあると言われている。それは現在の日本円に直すと八十二億円相当という説がある。だからといって「ジョージ四世は八十二億円の借金をした」と書くわけにはいかない。


お金の単位は固有名詞に近いものと考えるべきだろう。その世界の人がぷっこと発音するならぷっこなんだ。


B,台詞の文


さて次は台詞の場合はどうなるのかを考える。地の文は、作者が読者のために通訳していると考えることで解決できたが、台詞はどうなるのか? 結論から言えば、台詞でも事情は一緒ということになるが、そこに至るまでの過程を示す必要があるだろう。


4,一般名詞


これは新しい問題を生じさせていない。地の文と同じように扱えばいい。さもなければ、台詞全部を異世界の言葉で書けということになる。


5,固有名詞


さて、地の文としては仁王立ちを使っても問題ないという主張をした。ここまで読み進めているからには、ひとまずこの結論に(不服はあったとしても)受け入れているものと判断する。


しかし、現地民自身の言葉として「仁王立ち」と発言することはあり得ないだろう。仁王など知らないのだから。にもかかわらず、台詞に仁王立ちと書いてしまっていいのだろうか?


その問題を解決するために、先に次の問題に進む。


6,感嘆詞


「ああ!」とか「やった!」とか「くそが!」とか、そういう台詞もある。英語でも「well」「shit」「fuck」など、いろんな感嘆詞がある。


さて、台詞としてこれをどう表現するべきだろうか? 感嘆詞といえども、言語によって違いがある。ものすごく広範囲に見られる、何かを考え、なんと言うべきかを考えているときの、「あー」などの例もあるが、原則的には文化ごとに違う表現をする。


ということは、異世界の人々も独自の感嘆表現を持っているはずだ。では、「ひゃっほー」という表現はやめるべきだろうか? ちゃんと現地民の言葉をそのまま「うげっぎょ」と音写するべきだろうか?


そんなはずはない。私はとてもそうは思えない。やはりそこは、ひゃっほーであるべきだ。ということは、感嘆詞といえども、音をそのまま真似るべきではないことになる。音をそのまま真似るべきなのは、固有名詞だけの特徴だ。


結局の所、台詞といえども、その人が言わんとしていること、その人が言いたがっていることを日本人が言うとしたら、何という表現になるか、それが問題だ。


事実かどうかはともかく、夏目漱石がI love youを「月が綺麗ですね」とでも訳しなさいといった話は有名だ。英語圏の人間が言ったそのとき、日本人ならばなんと表現するだろうかを考えた結果がこの表現だ。


このような翻訳姿勢が、翻訳の専門家から見て正しいものかどうかは知らない。私は翻訳家でもなければ、翻訳事情に明るくもない。だが、事芸術作品に関して言えば、文芸や映画などの世界であれば、当然あるべきものだと思う。条約文書などで許されるかは考えない。ここは『小説家になろう』であって、その領分は創作活動なのだから。


してみると、仁王立ちに関しても、我々がその状況を言葉にするとしたら「仁王立ち」と言いたくなってしまう場面なら、そう翻訳してかまわないことになる。


結局の所、台詞だからといって特別なわけではない。


では、時代劇において「殿、チャンスですぞ」という表現も許されるべきかという問題が出てくる。


私も実は、あまりそういう表現は好きではない。が、確かに我々ならばそう表現しそうではある。なら、翻訳としては正しいじゃないか。ここに矛盾らしきものが生じる。


これはたぶん根の深そうな問題なので、深入りをせず、いくつか指摘するに留める。


現代人でも、チャンスですぞ、はあまり馴染みのない表現だろう。ですぞ、という若干古風な表現と、チャンスという新しめの言葉が混ざっていることが一つ。これが盗賊の若者が、「かしらぁ、こいつぁーチャンスだぜ」とかだったら、受け入れられるかもしれない。


殿様のお付きの家老の身分なら、もうちょっと厳かな表現をするものではないかという意識が、違和感の元ではないかという気はする。言い換え可能なほかの表現としてより適切なものが容易に想起できる(「殿、好機到来でござる」等)、ということも一因だろう。


7,単位


さて、最後の問題を解決しよう。台詞における単位というのがくせ者だ。


すでに挙げたように、その世界の人にとって9.335キロメートルというのがキリのいい距離だったとしよう。我々が「敵陣の手前十キロの地点に馬防柵を築こう」と言うところを、彼らは「敵陣の手前にゃろめっぺろの地点に馬防柵を築こう」と発言するわけだ。


地の文だったら、「敵陣の手前約九キロの地点に馬防柵を築くことになった」ですませることが出来る。だが、台詞には約の意味は入っていない。その世界の人自身は、ある程度の誤差は認めるにしても、きっちりにゃろめっぺろ手前の地点を想定している。ここに、勝手に「約」という曖昧さを許す表現を入れるわけにはいかない。それでは意味が変わってしまう。


かといって「敵陣の手前9.335キロメートルの地点に馬防柵を築こう」と書くのも避けたい。何でこの将軍、そんなに細けえんだよ、という印象を持たざるを得ないだろう。


我々にとってキリのいい距離と、彼らにとってキリのいい距離が違う以上、この溝を埋める術はない。すると、我々の取り得る対策は、二つになる。


一つは、異世界の単位系を、我々のものと一緒にしてしまうこと。どうせ異世界なんてご都合主義なんだからいいじゃん派はこれがおすすめ。


二つ目は、異世界人の台詞の中に単位を含む言葉を入れないこと。「敵陣の手前、騎兵活用が予測されるこの地点に馬防柵を築こう」という台詞にし、地の文で「将軍が指したのは、およそ九キロメートルこちら側の平原だった」とでも解説しておく。


*


以上で本稿は終了となるが、結論としてみれば「だいたい我々が使っている言葉をそのまま使っていいよ」という事になる。


が、別に、オリジナルの言葉を作る事が悪いわけではない。作らなくてもかまわないだけであり、作りたければ作るといい。必ずしも読者のためになるとは限らないが、それっぽい雰囲気を醸成してくれることは間違いない。

実は大きな問題を残しているので、ここで補足しておこうと思います。


I love youを「月が綺麗ですね」と翻訳するのは、とてもよいことだと思います。しかし問題は、仮に月という概念、一般名詞を持っていない人々の愛の告白を、同じように「月が綺麗ですね」と訳せるのかということです。


仁王が存在していない世界の人の言葉を、「仁王立ち」と訳していいのなら、月が存在していない(月を知らない)世界の人の言葉だって、「月が綺麗ですね」でいいじゃないか、という理屈は成立します。


しかし、私にはこれは違和感しかない。仁王が存在していない世界の人々が、「あのやろうが仁王立ちしやがって通れねえんです!」というのは許せるけど、月を知らない人が「月が綺麗だね」と言うのはおかしい気がする。


おそらく。私の言葉の歴史の知識では断言できませんが、文化への染みこみ具合の差ではないかと考えます。私たちは、「仁王立ち」という言葉を、「仁王のような立ち方」として理解するのではなく、「仁王立ちのような立ち方」と受け取るはずです。少なくとも私はそう。


一方で「月が綺麗ですね」は、「月という対象が、綺麗と形容できる状態にありますね」という意味で受け取ります。もしいつか、我々が「月が綺麗」という言葉を一つの熟語として受け取るようになったら、月のない世界で「月が綺麗だね」という台詞が出てきても違和感を覚えなくなるかもしれません。


少なくとも、月のない世界だとしても「月並み」という台詞が登場することは不自然でもないでしょうから。

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[一言] 例えに出てきたのが仁王立ちで良かった。 これがロリコンだと、言葉の由来的には仁王立ちより適切な例えに成り得たが色々台無しになる所だった。
[一言]  そこなんです。  異世界物を書きたくとも、どうしても言葉の違和感に引っ掛かる。  折り合いをつける為、短編を書きましたが、どうも納得がいかない。  言葉での表現は難しいですね。
[良い点] Via 様 凄く真摯に検討しているのが良い。 異世界ではあり得ない表現を悩んで、対応する異世界表現を作るのは案外楽しい。 仁王立なら、「猫熊立ち」✳︎とか ✳︎その世界には、二本足で威…
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