風なんて感じない
走る時には風を感じる、なんて言われることは多いが、実際に全力で走っているときにそんなものを感じる余裕などない。あるのは体を内側から裂くような不快感と痛んだ食べ物を飲み込んだ時の胸焼けのような気持ち悪さだけだ。
「フゥゥゥゥゥ……、、」
大きく息を吐いて呼吸を整える。走り切った後はこうしないといつまでも不格好な姿を晒してしまう。そのような無様な事は許せなかった。
「お疲れ様です先輩。これ、氷嚢です。どうぞ」
1学年下のマネージャーがアイシング用の氷を渡して来る。彼女の名前は何だったか。一瞬思い出すための努力をしようとして、彼女の名前を憶えていないということと憶える必要もないことに気づいて、その無駄な行いを打ち切った。
「どうも」
彼女の手から氷嚢を受け取りながら、電光パネルの一番上に映る先ほどのタイムを確認する。そこに表示された時間が過去の自分の記録と比べて劣っていることに気付いたが、自分自身走っている最中にもそんな気がしていたから特にショックを受けることもなかった。
息が整ってくると競技中の苦しみの反動のように晴れやかな気分が訪れる。澄み切った思考に浸るこの瞬間。自分自身の世界に完璧に浸れる刹那。最早自分が400m走といういろんな意味で中途半端な競技を走っているのはこれが目的になっているといってもいいかもしれない。
この短くも魅惑的な幸福感に浸りながらユニフォームの上にジャージを羽織り、スパイクを運動靴に履き替え選手用通路を進んでいると声をかけられる。
「お疲れ木島。調子は上々か?」
「ベスト更新出来なかったんだから言い訳がないだろ」
「よく言うよ。一番前を独走しておいて」
堂前は皮肉めいた口調で話しながら、小さな切れ端を渡してきた。
「お前の今回の記録、メモっといたから。すぐに公式記録が張り出されるだろうけど一応もっとけ」
その紙切れを受け取り、一瞥する。
──木島雄太 50:11──
もう何度も見たその数字は特別自分に何かを感じさせるものではなく、特に感慨もないままポケットにそのまま突っ込んだ。
「お前今回も4×400リレーでねーの?100専門の俺が出るんだし投擲の橋本も走るんだぜ。一番400が走れるお前が出なくてどうするよ」
「もう何度も言ってるだろ。リレーに出て何かが得られるとは思えないし、そもそも今日はただの記録会だろ。」
堂前は予想していたといわんばかりに手をひらひらと振りながら戻っていった。
自分たちの高校の待機場所に戻り、ブルーシートの上に寝転がる。何人かいた自分の種目を終わらせた奴や、自分の種目の開始時間まで時間をつぶしている奴らからのいかにも儀礼的でこう言っておけば角の立たないといった感じのねぎらいの言葉を適当に受け取りながら木島雄太は目を閉じ、自分の中に閉じこもった。
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