interlude 3 鳴弦―bow―
山間の道を馬車が緩慢に登って行く。貴族用の豪奢な物が六台続き、その前後は物々しい装備を揃えた王国軍が警護する。馬の嘶きに呼応して葉擦れの音が辺りに響き、狐狸の類が、今にも木々の間から光る瞳孔を垣間見せそうな、妖しい夜である。
もう日没からかなりの時間が経った。本来ならとっくに宿場町に着いているはずだが、王立管弦楽団の面々はまだ山道に揺られ、その面には疲弊の色が浮かぶ。
その行列の一番後ろの馬車に、窓から顔を出して空を見上げる少女がいる。
――サール・カシラス。
稀代のツェーロ奏者が、自分の生まれ故郷、かつてエルターニャ公国があったその地に向かう。
そんなサールの横には、長髪で鼻梁の高く通った細身の男が控えていた。その男が行程の遅れを平身低頭、サールに謝罪している。
「構わない、ミライル大尉。」
サールは興味が無いように返答して夜空を見上げている。自分の髪と同じ色の天蓋を眺めるのが、彼女の唯一の趣味みたいなものだった。
そよぐ風に耳が少し顔を出す爽やかな短髪。小さな顔に鋭く開かれた目。
――冬の険しい高山に一匹の山犬。それこそサール・カシラスの高潔さを思わせる印象である。
軍の指揮を執る大尉を強引に馬車に呼び込んだのはほかならぬサール本人である。彼女はまだ王立管弦楽団の正式なメンバーではないものの、今回の演奏会にあっては同列の扱い、つまりは貴族階級に相当する。その彼女が、大尉と並んで馬車に座るなど、本来はあってはならないことである。
「それで、どういったご用件でしょうか。カシラス様。」
ロンド・ミライル大尉は痺れを切らして話しかける。自分を招いたからには余程重大な伝言、あるいは頼みがあるからに違いない。そう踏んだミライル大尉は、サールが口を開けるまで待つべきだと考えていた。が、彼女は一向に話し始める素振りを見せない。このまま宿場町に着くのは体裁が悪く、また部下にも示しがつかない。何より、叩き込まれた階級意識が、これ以上彼女と同じ席に座っていることを許さない。
少し震えた大尉の声で、サールは窓を閉めて座り直した。演奏に臨むときのような凍てつく瞳と細い眉が、大尉の呼吸すらままならなくさせる。
「私は星が好きなんだ。」
サールは自明の事実を確認するような、淡々とした口調で言う。
「そうでいらっしゃいましたか。」
大尉にとってはあまりに拍子抜けな言葉で、危うく聞き返すような失態を犯すところだった。
「君は好きか?」
「……はい、私のような武官には到底汲み尽くすことの出来ない美しさ。それでもなお無上のものと信じてやみません。」
サールは瞬きせずに大尉を見据え、それからまた空を望む。
「不思議なものだな。あれはどうやら私たちの手の届かぬ先、天球よりも遥か先で輝くものらしい。」
「そう言う者もいます。」
「それがどうだ。人から見れば全ては壮大な曲面の上。触れることは依然叶わないが、言葉に聞くよりも淑やかで微力、ゆえにいつまでも飽かずに見上げられる。」
ミライル大尉は己の呼び出された目的を雑談だとは露ほども思わない。目の前の少女はそれを好まないだろうし、何よりも川辺の石の上を確かめて歩くような、僅かな緊張と安堵の繰り返す会話。彼女は確かに何かを言わんとしている。
……それにしても、なんと心地よい語りだろう。
大尉はもう決してサールの話を急かすまいと心に決めた。
サールの瞼が閉じられる。すると雪が融けて表れる山肌のように、少女の顔に年相応の温かみが戻る。少なくとも大尉には彼女が微笑んだように見えた。
「――私の志す音楽は、大尉、こういうものでありたいな。」
「……申し訳ございません。やはり愚昧な私にはどうにも……。」
「いや、……君は理解出来るような気がするよ。この星空を見て、ありのままに美しいと思える君ならば、私よりも……。いや、すまん、余計な話だった。本題に入ろう。」
大尉は少しばかり残念に思ってしまった。もう少し自分が思慮深い人間だったら、彼女はもっと深奥に秘めた思いを伝えようとしてくれたかも知れない。
しかし今は任務が最優先である。己の浅学を嘆く時ではない。
「いや、なんということは無いんだ。ただ君の経歴と、為人が知りたくてな。恥ずかしいだろうが、少し自分語りをしてくれ。」
十代の少女とは思えない、威厳と自信に満ちた声。しかし聞き苦しくなく、縷々と流れる言葉に、やはり大尉は聞き惚れる。
それでも彼は彼女の素朴な願いにすぐさま首肯することは出来なかった。
「失礼ながら、それはどういった理由からでしょうか?」
大尉は鳴り止まぬ鼓動を、日々鍛えた胸と精神で押さえ訊ねる。線は細いものの、若くして大尉にまで上り詰めた王国軍屈指の男である。その剣の技量もさることながら、気転の利く賢さと状況判断能力が高く買われてここまで出世してきた。
その男の経歴は確かに華々しいものだが、音楽家には何の価値もない些末なものである。優秀だが、それは相対的なもので、いくらでも替えがきく。ミライル大尉はサールを前にしてそれを誇る気にもならなかった。ただ、その心意はここで聞き出すべきだと判断したまでである。
「そうだな。まあ、大尉には打ち明けておくが、私はこの演奏会の真の目的を知っているんだ。」
大尉は唾を飲む。
……しかし、それと自分の経歴になんの関係が?
「そもそも、全てを知らないのは大尉、君の方だ。」
馬車が揺れているとは思えないほど、サールは先程から姿勢を少しも崩さずに言う。
「君が受けた命令はこうだろう。……まず楽団を護衛し、演奏会を成功させる。そしてその日の内に指定された場所に少人数で向かい、そこで待つ大罪人の処刑を行う。違うか?」
ミライル大尉は賢明な男である。ここで誤魔化すようなことはしなかった。
「サール・カシラス様。つまりあなたは、その罪人と知り合いなのですね。」
サール・カシラスの出身はかつての公国、この隊列の目的地、エルターニャ。処刑する予定の男もエルターニャに長く住まう者である。二人は同じ時期、同じ街に住んでいた。
そして今回の演奏会、指揮者のマニー二・トラヴィンスキーがサールを高く評価しているのは本当だが、そのお披露目が、今は廃れてしまった元公国というのは少しおかしな話だ。
故郷の英雄に錦を持たせ、エルターニャの王国への不満を一時的に解消させる。確かに大儀はある。が、それにしても彼女を王立の楽団に正式に迎え入れるのが先だろう。
指令書を拝受し、その本来の目的を口頭で伝えられたときの、僅かに抱いた疑義が甦った。
「分からない、という顔をしているな。」
そう。ミライル大尉にはそこまで理解しながらどうにも解せないことがある。いつだってそうだ、と大尉は軍人としての頭を急いで働かせために、さっきまでの緊張がどこへやら、微かに笑ってみせる余裕がある。
……いつだって、最後まで絡まっているのは人の情である。
ミライルが真に傑物なのは、その点を理解し、かつ作戦遂行のために最も重要な要素であると「諦めて」いるからだ。そこを避けて論理を通そうとするのは愚者のすることである。
沈黙も気にせず、大尉は親指と人差し指を神経質そうに擦り合わせながら数秒、沈思していた
「……諦めて、いや、尊重されているのですか?その男を。」
軍人としてのミライルはもう畏まらなかった。きっと目の前の少女はそれを望んでいない。ゆえに自分の推測を恐れずに告げた。
サールはこの日2度目、さきほどよりも大胆に顔を綻ばせたが、それも須臾の間。しかしミライル大尉はそれを見逃さなかった。その表情で確信に至る。
「大尉はすごいな。普通、逆を考えるだろう。私とそいつの間に何か負の感情があって、そいつが処刑されることに、私はなんら口を挟まず、利用されることを良しとする。むしろわざわざ足を運んでいるぐらいだから、それに協力する。それがこの話の中で私が置かれた文脈だ。」
大尉はすぐにサールの言葉を否定する。
「いえ、私はその男がどんな罪を犯したのか知っています。なぜ今まで見逃されていたのか、それもおよそ検討がつきます。そしてその男は逃げずに、確実に、私たち前に現れると上は言う。それはつまり、最後の、そして最高の晩餐を、その男が待っているということです。」
「……うん。そうだな。少し荷は重いが、あいつには私ぐらいが身の丈に合った晩餐だろう。……だがまだ続きがある、そうだろう?」
眉を下げ、面白くなさそうにサールは言うが、それは大尉への期待の高さの裏返しである。彼の思考の流れを断つまいとする心遣いに、大尉は無意識に甘えている。
大尉がなおも言葉を紡ぐ。
「はい。問題はこの場合、カシラス様が私どもの作戦、その障害となられることはないか、その一点に限られます。それもこうして旅路を同じくしていることがすでに答えですけれど、けれどもそれ以上に……。」
「……私が嬉しそうとでも言うか?」
「……僭越ながら。」
サールは満足そうに首肯し、それからまた黙して夜空を見上げていた。耳から顎にかけての輪郭と、浮き上がる喉の筋の美しさに、ミハイル大尉はどこか長閑な、月の浮かぶ湖畔の岸にでも体を横たえているような、そんな錯覚を覚えた。こんな冬空の下であるにも関わらず、寒さとは質の違う、心地よい涼気を感じていた。
「難しいことじゃないんだ。」
大尉は馬車の車輪が回る音にすら耳に触れる水の面影を感じていたが、サールの言葉ではっと我に返る。
そもそもなぜ最初に自分の経歴を問うたのか。それはミハイル大尉でも最後まで分からなかった。彼女はそれを簡単な理由だと言う。
「私の……そうだな、今は友人と言っておこう。歳はあいつの方がまあ、上だが。……とにかく、そいつの命を絶って、そいつの人生の、本当の最後の瞬間に、目の前に立っている奴だ。……品定めくらい、せずにはいられないんだよ。」
サールはもう一度、今度は唇が大きく頬を持ち上げるようにして、笑った。己がした悪戯を、誰かに率先してばらして、胸を張るような、そんな無邪気な笑顔。冷酷で機械的と揶揄される、正確無比の演奏をするツェーロ奏者は、今夜はそこにいなかった。
この時、ミハイルは上司に、それから日々鍛錬を休まなかった自分に、心から感謝した。人を殺めるのは、それが罪人でも到底気の進むものではない。慣れることなどない。今回もきっとそうに違いないだろう。
けれども、今目の前に居るサール・カシラスと、まだ見ぬ罪人との間の、気高く、高貴な結びつきを断つ役目を全うできること。いや、それを余人の手の届かぬ所へ、昇華して、永遠のものとする、神聖な場の立会人になれることが、これ程までに誇らしいとは。
「私は認めてもらえたでしょうか?」
ミハイルは確信を持って問う。
「そうだな、悪くない。……私の右腕の代わりには。」
右腕という単語に大尉は気付かされる。もしかしたら彼女は本当に、自分の推測したように、此度の処刑の邪魔立てをするつもりだったのかもしれない。――自らの手で友を。目の前の少女にとっては、それが避けるべき一番の苦ではないのだ。それ以上に耐えられないことがある。
そうであるならば、やはり大尉は自分を称賛せずにはいられなかった。
サールは自分の右腕を中空に掲げ、握っては開き、仰ぎ見る。
「私はこう見えて『弓』の扱いには長けているからな。あいつの命もこれで射ってやるつもりだったんだ。」
ツェーロ奏者のサールが弓を番える真似をする。存外、この冗談を言うためだけに「右腕」などど言ったのかもしれない、そう考えると大尉は笑いを堪えることが出来なかった。
「……それは怖い。カシラス様はさぞや美しい弦音を鳴らすのでしょうね。」
「ああ、胸に刺さる矢にも気づかないほどのな。」
ミハイル大尉は馬車から降り、部下に預けていた自分の馬に乗りながら、これまでにない高揚感、使命感に四肢が強張る。
道は知らぬ間に平坦になり、宿場町の灯りが凍え切った一団に安堵の吐息をもたらす。誰もが温かい食事と寝床を脳裡に思い浮かべ、徐々に走らせる馬の速度を落とす。
冷たい夜気と冬空が名残惜しい。計画の絶対の成功を心に誓った大尉は、最後にもう一度だけ遠く瞬く星辰を見上げた。
が、そんな彼の固い決意も、その翌朝にあっさりと、しかも身内に打ち砕かれることになろうとは、この時どうして思い至ることが出来ただろうか。
夜がまだ完全に明けきらぬ、霜が草木に降りる頃、宿からサール・カシラス本人と、馬が一頭消えているという報告を受け、ミハイルは絶句した。