interlude 2 信念―belief―
互いに久闊を叙する、とはならなかった朝食の喧騒。夕食まで家族団欒に水を差してはなるまいと、九太郎は自室に籠り、たまに床を突く笑い声にほっと胸を撫でおろす。
小さな満月が、横寝したベッドから丁度窓の向こうに見える。
「痛ってぇなあ。」
頬を指で押してみて呟く。当然のことながらそこは赤黒く痣になっていた。
「当たり前よ。ワイドももう大人の男なんだから。」
「でもあのひょろひょろだぜ。」
「あんな挑発の仕方して……それにしてもワイド、レーダのこと好きなのかしら。」
九太郎は朝のやり取りを思い出し、これは良いからかいの材料を得たとにやりとする。
「あのむっつりすけべ。レーダは胸おっきいからなあ。」
「ああ!そういえば朝、レーダの胸触ってた!浮気だ浮気!しかも倫理に悖る!やっぱり自分と同じ黒髪が好きなんだぁ!」
「……カミラの時は何も言わないじゃん。」
「否定しないのね……。なんかあの人は、なんか数に入らない感じ。」
「分かんねえなあ。」
「……ねえ、九太郎。」
「なに?」
「……ありがとう、ね。」
夜の寝室で、仲睦まじく囁き合っていた番いの声が途切れる。毛布の中で九太郎が寝返りをうち、衣擦れのような音が互いの耳を占める。
そして小さな舌打ちの音。
「いいって、いいって。ったく、お前は恥ずかしい奴だな。」
「へへ……本当に、ほんとうに、ありが……と、うっ、……ふぇぇ、ううっ。」
「泣くなよ、くだんねえ。相変わらず可愛い子ぶった泣き方しやがって。」
「 ……いいじゃんか。私、可愛いんだから。」
二人はにらみ合って、それから微笑み合った。あんな一日の始まりだったにしては良い夜だ――九太郎がそう思っていると、凛とした声が直接頭に響き、心地よく浸っていた余韻を躊躇なく裂く。
――だから、もう逃げて良いんだよ。
その言葉は九太郎の頭を痺れさせる。悪魔の囁きなるものはどうしていつもこう甘美なのだろうか。
九太郎は鼻を激しく啜り、毛布に顔を埋める。その丸くなった背中に女の手がゆっくりと重ねられる。
「いや、俺はいいんだよ。本当に、何も感傷に浸っている訳じゃない。俺は偶然ってのがやっぱり嫌いなんだ。自分の信念を天に奉じて、ここで終わりにするんだ。」
「キュウ、レーダには偶然の美こそが真理だって豪語してたじゃん。そこを掘り返す奴は馬鹿だって。何も埋まってなんかないって言っていた。」
慈母のように、鼓動に合わせて背中を叩く。依怙地になった子をあやす様な、人に許しを与える懐の深い声。
「ああ、そんな奴は土を馬鹿みたいに掘っている犬と同じ。……だから、俺はそれでいいよ、俺は、それでいいんだ。」
「今キュウがいなくなっても、遠い先、よぼよぼになってからいなくなっても、何も変わらないよ。どっちも悲しいし、美しくもない。」
「そうだろうなあ。でも、もうだめだ。俺は今消えるのが一番美しい最後だって、最も価値があるって信じ切っちゃってるから。俺の得意なことだ。自分に酔ってるんだよ、アル中らしく。他に何か信じる物も、依るべき物も、俺にはないからさ。だから、異邦人なんだ僕は、この世に、そう、生まれた時から。」
「頑固……だね。」
「じゃなきゃ自称芸術家なんて言えないよ。お前の願いを叶えて、死ぬんだ。病気で死ぬのも、事故で死ぬのも、俺にはやっぱり耐えられない。…………そろそろ寝よう。久々にこんな時間にベッドに入ったんだ。それも一人で。」
「……私、いつも待ってるのになあ。」
それからも夜が明けるまで、九太郎の寝息をじっと聞き続けた者がある。
月光に照らされ夜伽する女の肢体が部屋に現れる。ベッドの脇に膝をついて、九太郎の手を毛布の中で握っている。
画材の鼻を突く匂いが充満している部屋の一面、そこに直接描かれた大きな絵画がそうして寄り添う2人を祝福していた。
「愛してる……。愛してる……よ。……このまま私が殺してあげたいほどに。」
その声は果たして九太郎に届いただろうか。
女の涙は零れる鱗粉となって青白く床に積もる。