父親と兄妹
メアリとポンが暫くしてリビングに戻ると、いつもより遅くなった朝食の食卓にアパートの面々が揃う。
長男のワイド・ディムール。その向かいには長女のレーダ・キリマヴェージ。
ワイドの脇には次男のロッド・マイヤードが座る。その向かいは空席で、ロッドの隣には次女のポン・グレコ。
ポンの正面には同い年で三女のメアリ・アボニー。
そして最後に、他の兄弟たちより幾分年の離れた双子。四女のレア・アウリウスと五女のフィア・アウリウス。
これが廃墟間近の三階建てアパートメント、もとい、サルべード家に住まう子供たち全員である。後は家長の登場を待つばかりであるが、まだ10歳にも満たない末っ子の双子には、美味しそうな朝食を前にしてなぜ待たねばならないのかが微塵も理解できない。
「早く食べてーなー」と、姉のレアが言えば、「食べてーなー」とフィアが続く。声の抑揚はよく似ているが、その顔には明確な差異がある。
姉であるレアの方は眉も目も少し釣り上がっており、顔の輪郭も鋭いのに対し、妹のフィアは背も低く、顔も少しふっくらしている。そしていつも眠たそうに眦が下がっている。どちらかと言えばフィアの方が年相応の幼さと映る。
二人とも焦げ茶の髪をし、両方のサイド、もみ上げの部分を三つ編みにしている。これはロッドの毎朝の仕事であった。
双子は立ち上がり食卓の周りを走り回ったり、上の兄妹を誘って遊ぼうと躍起になる。
「レア、フィア、もうちょっと我慢してね。九太郎さん、もう少ししたら降りてくると思うから。」
レーダに遠く対角線から窘められるが、
「レア、九太郎嫌いだからもう食べちゃう。」
「フィアはもっと大っ嫌いだから食べ終わっちゃうもんねー。」
二人は頷きあってパンに齧りつく。小さな頬が詰め込み過ぎたパンで膨らみ、それを牛乳で押し流そうとコップに手を伸ばした矢先、無防備なレアの頬を、隣に座るポンが思いっきり平手打ちした。
乾いた破裂音が食卓の張りつめた緊迫感そのものとなって響く。
レアはパンを吐き出し、突然のことに理解が及ばぬ顔でポンを見上げた。涎が口の端から垂れたまま、徐に大粒の涙を流し始める。痛みというよりは驚きによる涙のようだった。
「なにふざけてるんですか。まだ九太郎が食べてないんですよ、ね、そうだよね、フィア。」
メアリと衝突した時とは比べものにならない底冷えのする声。ただでさえ頬の刺青を不気味に感じている双子は震えあがる。たまにしか帰ってこない姉は、2人にとってはほとんど他人、しかも理不尽に厳しく、その外見も恐怖でしかない。
「ひっ!ご、ごめんなさい。」
茫然とレアの方を見ていたフィアは、ポンの顔が自分に向くなり竦んでしまって、持っていたパンを皿に戻し、レアと同じく泣き始めた。
見かねた三女のメアリが大声でしゃくりあげるフィアの頭を自分の胸に寄せ、ワイドも席から立って、ポンとレアの間に割って入る。
「ちょっとポン姉、まだピリピリしてんの?」
と、メアリが灰色にくすんだ髪の合間からポンを睨む。しかしポンは全く意に介さずフィアに向かって、
「ねえ、二人とも早く食べたいならさ、さっさとそれ持って自分の部屋に行ってくれるといいなあ。なんて。」
「グレア、止めなさい。」
今度はワイドやメアリではなく、席に座ったままのレーダが穏やかに制す。
「他の方もどうぞ自分のお部屋で食べたらどうですか?二日酔いの盆暗の相手は嫌なんでしょう?」
誰よりも愛らしいはずのポンの相貌が、不敵に笑うだけその分、誰よりも効果的に皮肉を表現し得る。小さな顔を包む柔らかな髪までもが人の癪に障る。それは兄弟の中で最も人格者であると見做されているワイド・ディムールですら例外ではなかった。
長兄のワイドが押し黙ると、血気盛んで既に臨戦状態であったメアリも控えるしかない。レーダもまた自慢のピアスを指で揺らしながら目を伏せる。
「九太郎、はやく、はやく、トイレは後でいいから……!」
「きもち、わりぃ……。」
「ええ!飲み込んで、今は飲み込んで!」
廊下からロッドの大騒ぎする声がする。二人の足音が近づき、リビングの扉が鈴の音とともに開く。
リビングの子供たちは皆静まりかえって扉の方を注視していた。
「……あ?どうしたんだ、みんなこっち見て……いてて、頭いてえよ。レーダ、ちょっと水くれ。」
「え……は、はい。九太郎さん、お久しぶりです。おはようございます。今すぐに。」
レーダが驚きに挨拶を詰め込みながら台所に駆ける。その横顔をポンはじっと眺めていた。
ワイドとロッドの男性陣が席に着き、メアリも妹のフィアから体を離して姿勢を正す。双子は必死に目元を擦って、まるで泣いてなどいなかったと主張するよう。ここで泣き止まなければまたポンに叱られる、そう怯えているのだった。
九太郎はロッドの向いの空いていた席、つまり右に長女のレーダ、左に三女のメアリを従えて、どかりと背凭れに体重をかけて座る。
「九太郎、具合悪いんですか?」
ポンが斜向かいの席から身を乗り出す。冷たい声音は変わらないが、今朝の彼女の様子からは考えられない、慈愛に満ちた台詞を聞いて、メアリは鼻を鳴らして笑う。
しかしポンはメアリの事など眼中に無いようで食卓に伏せった九太郎の顔を心配そうに覗き込んでいる。
「九太郎さん、これ水です」と、レーダがコップを差し出す。
「ああ、さんきゅ。……ん、ふぅ、少し楽になった。……っち、ワイド、てめえはこっち向くんじゃねえ、朝から神妙な顔しやがって、また吐くだろ。おい、ポン、お前がこっちに来い、ほらとっとと。ワイドはそっちで双子の相手でもしてろ。」
ぞんざいな扱いを受けてもワイドは眼鏡の奥の微笑みを絶やさない。そんな兄をメアリは頼りないと、非難するような眼差しで責めた。九太郎がリビングに現れてから、彼女はまだ一言も発していない。
そんな中、九太郎が何かを思い出したように拳で掌を叩く。
……いつものことなのにわざとらしくしやがって。
メアリは心の中で唾を吐きかける。
「ああ、そうだった、あぶねえ、あぶねえ、レーダ、ポン、メアリ、さっさと稼いできた金だせ。いやあ、カルロスへのツケがもう限界でさ、それにカミラにも。いやあ、助かった、助かった。」
意地の悪い笑みで九太郎が催促する。
年長の兄妹たちは顔を見合わせ、それから双子の顔を気にする。子供の面前で金のやり取りはしたくない。かといって九太郎の機嫌を損ねるのは更に良くない。妹たちも愚かではないのだ。もうすでにこの雰囲気を察して、不安そうな顔を誰に向けるべきか迷っている。
……可哀想に。
そう思ったのはワイドであり、レーダ、それにメアリだった。
レーダとポンは既に用意していた金を九太郎に手渡す。半年分の給金、そのほとんどである。「ちょっと少ねえな」と、革袋を覗き込みながら九太郎。それから目敏くまだ金を出していない娘を睨み、
「ああ?なんだ?メアリ、さっさと出せ。」
「…………。」
メアリは渋った。妹たちのことを考えればここはぐっと耐えて愚かな父親に金を渡すべきである。怒るのは、断罪するのは、その後でいい。今ここでなければどこでもいいのだ。
自分の働いた労力や時間を惜しんだのではない。けれども納得できるものでもない。
このまま渡さなければどんどんリビングの空気が重くなる。現にレーダが不安そうに九太郎の後ろから顔を出してこっちを見ている。懇願、それがありありと伝わって来て、メアリはようやく自分も用意していた革袋を食卓に投げ出す。
「おめえ、お金を投げちゃいけねえよ、大事なもんだろう?」
メアリはフィアの手を強く握って歯噛みした。お金で親とやり合う姿なぞやはり見せてはならない。その思いでなんとか耐えた。
食卓の全ての席が埋まり、ワイドが食前の祈りを捧げる。九太郎とポンを除いた者は胸の前で手を合わせ、ワイドの声に耳を傾ける。
神に祈りを捧げない、無神論は王国では重罪である。
しかしその間、九太郎は隣に座るレーダの肩に手を回し、隙を見ては自分の方に抱き寄せようとする。それを薄眼でメアリが蔑むように、レアとフィアは理解できない生理的な嫌悪を感じながら見ていた。
「いただきます。」
ワイドに続いて皆が唱和する。目を開けたレーダは九太郎にへこへこしながら肩に乗った手を外した。
双子はもうポンに叱られたことなど忘れて、一張羅の服に豆のスープをこぼしながらがっつく。それをワイドは優しく注意しながら、拭いてやったり、褒めてやったりと忙しい。
食卓は自然に、ポン・レーダ・ロッド・九太郎と、ワイド・メアリ・レア・フィアの二つのグループに分かれる。
「レーダ、王都は最近どうだ?」と、九太郎が朝からワインを飲みながら言う。具合が悪いと言っていたのが嘘のようだ。
「そうですね。私は余り変わりありません。王室は少しごたごたしていますが……。あとは『名無し』による暴動がやっぱり増えてきていて……。」
「お前も偏見の目で見られたりするのか?」
「いえ、私はちゃんとした後見人がいますから。」
「まあな。オットーさんは元気か?」
上辺では何ともない世間話が続く。むしろ子煩悩な良い父親のようである。が、如何せん九太郎の腕の動きが全てを裏切る。
「ええ、それはもう話相手になるのも疲れてしまうくらい…………あ、あの、その……。」
レーダの首元が赤く斑に染まっていき、脇を締めて体を身じろがせる。
「なんだ?」
「胸……手が、えっと、当たって……。」
九太郎の腕がレーダの美しい黒髪の下を通ってまた肩を抱き寄せ、それだけに止まらず回した手で胸の辺りを触っていた。
「わりぃ、わりぃ。」
「あの……どんどん、強く、なって、ん。いや……!」
レーダの声が遠慮するものから怯えた悲鳴になり体を固くする。
「おい、てめえ!糞オヤジ!!」
メアリが立ち上がって、九太郎の腕を強引にレーダから剥がす。
「メアリ、朝食は静かに食べろ。お前はほんと行儀が悪いなあ。」
「うるせえ……ふざけんのも大概にしろ……。レーダ姉さんはな……。」
そこでメアリが口ごもる。言ってもいいものかと逡巡するような間を置いて、
「……レーダ姉さんはもう婚約者だっている大事な身なんだよ……。お前みたいな子供の稼いだ金巻き上げてレッドライン行く様な不潔な男が触っていい体じゃねえんだ!!」
レッドラインという言葉にロッドが赤面して、慌てて腕を突き出しメアリに何かジェスチャーする。が、放たれてしまった言葉を遮ることなど誰にも出来ない。
「レッドラインって何?」「どっか楽しいところ?」
ロッドは案の定だというように頭を抱え、ワイドは騒ぎ出した双子に悪戦苦闘しながら言い訳をする。
九太郎はふざけた調子を緩めて二日酔いの優れない顔色で眉間に皺を寄せる。
「婚約?聞いてねえなあ……って、お前ら帰ってきたばっかりか。で、どういうことだレーダ?」
レーダは居住まいを正して九太郎、つまりは父親に説明する。
「いいえ、メアリの早とちりです。あの、私が正式に踊子になって、王室公認の舞踊団に入ったら結婚しようと言ってくれた男の方がいまして……。」
レーダがその求婚者の名を告げると、九太郎は顎に手を置き、うんうんと頷いた。
それからレーダは九太郎に促され、より詳細な過程を、普段よりも落ち着いた口調で語った。この家族にとって母のような存在のレーダは、おおらかで、そして何より恥ずかしがり屋である。そのレーダがこの手の話題で理路整然と話す様はメアリには意外に映った。
「話は分かった。で、お前はどうするつもりなんだ?」
「お断りするつもりです。」
その言葉を、九太郎は茶化さずに真正面から聞いた。メアリにはレーダの方を向いた九太郎の背しか見えず、その表情はうかがい知れない。が、――
「レーダ姉さん!事情は分かんないけど、そんなもったいないことしちゃだめだよ。どうせこいつの所為なんだろ、断るのは!こっちに来る馬車の中で言ってたじゃん!良い人だって、あんな嬉しそうな笑顔で……。」
「そ、それは……。」
さっきまでの冷静だったレーダの表情は薄氷のように割れて本来の彼女が狼狽えだす。真っ赤になった顔を自分の胸に埋めるようにして小さくなった。
九太郎はそんなレーダの姿を見下ろしながら、いつもの人を小馬鹿にした笑いを前置きにして言い放つ。
「……メアリの言う通りだよ。俺の所為だ。」
「だったら……。」
「何せ、レーダの初めての相手は俺だからな。そんな奴誰も貰ってくれねえ……当たり前だろ、なあ、ワイド、そんな女嫌だよなあ?」
九太郎が下卑た笑みを家族に向ける。
天地の入れ替わるような衝撃が家族を襲った。それが質の悪い冗談であったとしても、九太郎が言うと真偽を越えて汚らしい。
嫌悪の情に染まったメアリが、しかし、不意に九太郎の口から出たワイドの名にはっとする。自分のすぐ脇に、さっきまで双子を甲斐甲斐しく世話していたはずのワイドが立っていた。
その顔は、自分よりも激情に塗れ、すでに頭より高く振り上げられた拳はにやつく九太郎の顔面を殴り飛ばしていた。
体を支えようとして九太郎が食卓を掴んだために、大きな一枚板のテーブルは大きな音を立ててスライドした。椅子に座っていたポンとロッドは成すすべなく食卓に腹の辺りを押され椅子から転がり落ちた。食器が落ちて割れ、双子の悲鳴が上がる。
床にレーダが作ったスープが零れる。その匂いが一気に部屋に広がる。
「……てっめえ、聖職者が人様殴んじゃねえよ。」
メアリは咄嗟にワイドに抱きついた。さすがの九太郎も自分ごと暴力を振るうはずがない、そう確信して。
ワイド兄さんさえ遠ざければ、後は自分が、この男の頭を地面に叩きつければいい。メアリにはそれが容易に出来る。
メアリは額に兄の温もりを感じながら、毎晩、毎晩、就寝の前に考えていたことをこの場で自分に言い聞かせるように繰り返した。
いつか実行しようとして、出来なかったこと。
……もうこの男は私たちの家族にいらない。
……レーダ姉さんや私、ポン、みんな五年も経って王都でやっていけている。ワイド兄さんはこの街の教会で、ロッドもきっとここを出て王都で仕事を見つけられる。双子はみんなで面倒を見ればいい。
……『お母さん』だって、もう十分だって言ってくれるはず。私が……私がこいつに……。もう、こんな奴のために、みんな苦しまなくていいんだ。自由に、生きるんだ。無理やりやらされた仕事を、止めたっていい。きっとレーダ姉さんだって、踊子なんてやりたくないはずなんだ
……そうに、そうに決まってる……。
唇の端を切ったのか、九太郎の左の頬が赤く染まっている。よろよろと立ち上がった男に、ワイドがまた詰め寄ろうとするのを、メアリが押し止める。ワイドよりも圧倒的に小柄なはずなのに、メアリはびくともしなかった。
「……メアリ、ありがとう、ごめんね。」
予想外の力で止められたワイドは、腑抜けたように冷静さを取り戻し、メアリの光沢の無い灰色の髪を撫でた。そして無言でリビングから出て行く。レアとフィアが、九太郎からなるべく距離を取るように、部屋の壁際をつたいながらワイドの後を追う。
リビングには、何かと九太郎の肩を持つポンとロッド、それにレーダが残る。
レーダは九太郎が立ち上がってからはずっと彼の服の袖を摘んで申し訳なさそうにしている。それは九太郎がワイドに暴力を振るわぬようにしているのか、はたまた不安や動揺からそうしているのか、どちらとも判断がつかない。
ただ確かなのは、九太郎の発言を撤回する気はないということ。
「ねえ、ロッド兄。」とメアリが口を切る。
こういう時、ただ傍観することしかできないロッドが自分に向いた矛先に驚く。
「え、何……?」
「私達がいない間、レアとフィアの相手は誰がしてるの?」
「それは……。」
「相変わらずということね。」
ワイドが開いている教会の学校で日中は過ごし、ロッドが家で家事をする。それはこの5年変わらぬ分担である。
九太郎は何もしない。どころか、家族の中では一番、あの双子には辛辣に当たる。ワイドには喧嘩腰、レーダは道具扱い、ロッドは雑用、ポンは無視、メアリは嘲笑。しかしレアとフィアには、最低限の会話と反応だけ、それは無視に勝る無関係である。
「で、でも、九太郎も仕事を始めたんだ。依頼を受けて肖像画を描く仕事なんだけど、評判が良くて、縁談にもってこいだって。」
「それ、どうせロッド兄が描いてるでしょ。」
「……。」
「最後の小細工だけこの下種がやってる、当たり?そういうの得意だもんね……ぐうの音も出ないでしょ。」
ロッドは降参だとばかりに、九太郎の顔を一瞥してから、いそいそと食卓の片づけを始め、ワイド達に朝食の残りを運びに行った。
九太郎は椅子に座り直し、ポンに顔を拭かれている。メアリにはポンの行動も不思議だった。ワイドが九太郎を殴るのを、ただ漫然と見ている彼女ではない。ポンは絶対に九太郎を、その身を挺して守るはずだった。それが彼女の数少ない行動原理であるはず。
互いの過去を知らない、干渉しない、寄せ集めの家族。その為に理解出来ぬ言動、行動がある。されども、しかし――メアリは誰よりも家族を思うがゆえに、眼前のこの男がどうしても許せなかった。
機先を制したのは久太郎だった。
「メアリ。」
と、顔を向けずに、虚空に視点を置いて喋り出す。
「王都ではきちんと鍛錬に励んでるな?」
……いつの間に自分の話になったのか。今はお前を糾弾する時間だ。
メアリは苛立ちを隠そうとはしなかった。
「は?当たり前でしょ。あんたが言ったんだ。正式に軍に所属出来たら、自由になんでもやって良いって。だから死に物狂いでやった……お前とは違うんだ、日がな一日飲んで、遊んで、金を奪って……。ああ、そうだ、この間王室で女王様に謁見したよ。剣技を競う大会で優勝してさ。どうだ、なあ、もう十分だろ。お前に拾って貰った恩は十分に返したはずだ。」
「……そうか、それはすげえなあ。……女王は息災か?」
「まあ、王女が亡くなられた時よりはマシなんじゃない。」
メアリが見た女王は、五十代にしてはだいぶ老け込み、痩せていた。それはこの元公国の領地で王女が五年前に亡くなられた、その時の心労によるものが大きいのだろう。公国出身のメアリは、女王に謁見する際、僅かに負い目のようなものを感じていたが、銀時計を下賜されるとき、小さな声で、「公国は素晴らしい所でした、いずれ、また……」と言った。
「また行きたい」なのか、「また元のように」なのかは分からなかったが、その一言で、メアリは軍人を目指す者の端くれらしく忠誠心を掻き立てられたのだった。
「そうか……なあ、メアリ、あと、二週間だけだ。な?」
「……?」
メアリにはその言葉の意味が分からなかった。なんとなくポンの顔を見るが、彼女にも思い当たる節がないようで、九太郎の顔を愚直に見詰めている。
「二週間って、演奏会?」
レーダがメアリの後を継ぐ。
「ああ、サールの野郎が来るらしいからな。それで、それでしまいさ。だから大丈夫だ、メアリ。」
九太郎がメアリの髪を指で梳く。こんな奴に触れられたくない。そう思っていたはずなのに、あまりにも優しく、懐かしい声音で名前を呼ばれ、されるがままになってしまった。
演奏会がなんだ。それで見違えるような善人にでもなるのか。メアリは信じる気にもならなかった。
それから髪に触れる九太郎の手つきが段々と検分するようなものに変わって、
「お前、髪をテキトウに切り過ぎだ。ばっさばさじゃねえか。レーダに後で整えてもらえ、ハサミ持ってるだろ?」
レーダが頷く。メアリはもう戸惑いやら、羞恥やらで、それ以上九太郎を責めることが出来なくなった。