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帰郷の朝

 部屋に冷たい潮風が入り込む。


 朝の日差しはこの瓦解した街の隅であってもこんなに眩しいのに気温は一向に暖かくなる気配がない。なんとも芯の抜けた光だ。


 ……昨日ちゃんと閉めたはずなのに。


 ポン・グレコはそれでも憤ることはなかった。むしろすっきりした目覚めに満足して、細くてよく絡まる、全体的に緩くウェーブのかかった髪を両の手でくしゃくしゃと揉む。前髪は眉の辺りで切り揃えられたセミロングで、動く顔に一足遅れて追いついて来る。


 ポンは髪を耳にかける仕草をしてベッドから降り、何も敷いていない石造の床の冷たさを足裏に感じながら、開いたままの窓から海を眺める。エルターニャの海はいつも穏やかにそこにあって、街を、人を、見守っている。


 ……この景色も半年振りだ。


 ポンの部屋は横幅の狭いアパートの三階にある。街の高い建物は漏れなく倒壊してしまっているため見晴らしはすこぶる良い。


 部屋に差し込む一条の陽光がポンの髪に当たって黄色に透ける。昨晩の雪は朝になって止んだ。船はあらかた出港してしまった後らしく、外はまだ静寂の中にある。


 ポンはそのまま佳景を愛でつつ穏やかな朝を過ごしたかったが、やはり寒さには敵わない。ベッドの脇に脱ぎっぱなしだった紅色のコートを下着の上に直接羽織り、白いファーの付いたフ―ドを被って冷気に赤らんだ耳を隠す。そうしておけば跳ねやすい髪も自然に納まる。そうして無造作に壁に建て掛けられている鏡に顔を映してみれば、いま若さの盛りにある自分がこちらを見返してくる。


 まだ成長の中途にあって完成には程遠い。が、その皮膚の内に眠るまだ見ぬ美貌が陽炎のように人を惑わす。


 ふと閃きにも似た直感がポンを襲う。 


 ……私はこれ以上美しくはなれない。


 14歳の少女はそれをぞっとするほどの恐怖と共に知っていた。この世に生を受けたときに授かったはずの神秘的な魅力が、一刻、一刻と時が過ぎる内に凝り固まって、体から剥がれ落ちてゆく。


 朝起きて鏡を確認する習慣は、その喪失の恐れによって身に付いたものである。


 成長すれば今よりもっと綺麗になるだろう。誰もがそう言う。しかしそれと引き換えに失うもの、その神秘さはいつでも生身の体に付随して鏡からは伝わらない。


 そこに映った自分は、辺りを這いずり回る薄汚い同年代の少女たちと何も変わらない。


 ただ違うのは、着古した上質なコートと、右の頬から首にかけて鮮やかに咲く大輪の薔薇の花。中心に近い花弁は赤く、その周りは桃色、それから徐々に肌の白さを利用したグラデーションとなる。首には茎や葉が描かれ、左の頬にも散った花弁を一片、二片とあしらっている。


 頬に寄生するように咲く薔薇。


 それに見入っていると背後から声がする。


 「ポンポン起きたの?」


 窓を開けっぱなしにした犯人が、寝惚けたまま、ふざけたように可愛らしい声で呼ぶ。


 「……。」


 「ごめんね、勝手に部屋に入って……。」


 ポンは鏡の奥で上半身だけ起こすか弱げな少女――真実は男であるロッドを冷めた目で射ながら、


 「出てってもらえますか?ね、ホモセクシャル。」


 ポンのからかいではない辛辣な言葉にロッドは委縮したように見せかけながら、全く退く様子はない。それどころか許されることを前提にしたような図々しい態度。


 黄金の髪は太陽の子のよう。それが屈託なく笑うものだから相対した者は逃げ場がなくなる。


 「うん……。ごめんね、でも昨日は少しポンポンと話したかったんだ。九太郎のことで。それで夜中に来たんだけどいつの間にか寝ちゃってたみたい……。」


 「窓は?開けっ放しなんですけど。」


 「朝方まで海を眺めてたんだ……て、あれ、だったら僕はなんでベッドに寝てるんだろう?」


 ロッドは自分の体を不思議そうに眺めまわす。


 「知らないです。きっとワイド兄さんが勘違いして上げたんじゃないですか。兄妹は仲良くって例のお決まりのやつですよ。」


 皮肉に笑うポンがロッドの方を向く。薔薇の花弁が表情に合わせて影を帯びる。


 ……それなら窓は?と、ロッドが思うより早く、ポンは窓を開けたり閉めたりして具合を確かめていた。どうやら留め金が壊れていたらしい。ポンはそれだけ分かるとロッドに構わずすぐに部屋を出て行った。


 階下で食器が賑やかに鳴るのを聞きながらポンは一階のリビングに向かう。閉めた扉の向こうでロッドが何かを言っているが無視を決め込む。


 リビングからはもう暖気が階段まで漏れて昇ってきていた。


 「グレコ、おはよう。昨日は寒くなかった?……ね、ちょっと食器運んでちょうだい。」


 ポンは人に名前で呼ばれることを了承していない。が、彼女を素直に苗字で呼ぶのは、このアパートではレーダ・キリマヴェージ、その人だけである。ポンより6つ年上の20歳で、ロッドの2つ年上。濡羽色のロングヘアに赤茶の瞳、前髪は白い花の髪飾りで派手に留めている。左の耳には肩に触れるかと思うほどの、長く枝垂れたピアスを揺らしている。


 彼女は背も高く、ポンは肩までも届かない。


 ――レーダ・キリマヴェージ。絶対的な美の勝者の前で、霊的な羽衣を纏ったようなポンの美しさも届かない。


 レーダがポンに柔和な笑みで振り向く。


 ……朝からなに着飾ってるんですか?


 ポンは言いかけた言葉を飲み込む。言ったとしても暖簾に腕押し、意味のないことを知っている。しかし思ってしまうことは自分でも止められない。


 ポンは行き場のなくなったその言葉の替わりに食卓の脚をつま先で蹴飛ばす。


「おわっ、ポンねえ止めてよ、牛乳零れちゃったじゃん!」


 明るく活発な声が驚きに任せて声を搾る。それは責めたてる口調ではなく、起きてしまったことそのものに不平を言うよう。謝ればすぐにでも水に流してくれる。そうであるはずなのに、ポンは口を噤んだままその機会を逸している。


「……ねえ、零れたって言ってんだけど。」


 当然険の孕んだ物言いに変わるが、それでもポンは態度を改めない。


「おい……こっち向けよ。」


 自分の席に座って頬杖をついていたポンは、対面で配膳をする自分より少し顔の幼い少女を一瞥してから、


「……ちっ、お前のくっせえ唾でも入れて自分で飲めよ。」


 と、呟くように言う。当然目の前にいる相手の耳に届かぬはずがない。被っていたフードを叩くように脱がされ髪を引っ張られる。


「……っ、ちょと、ちょっと、止めてくださいよ、困るなあ、メアリ。痛いじゃないですか。冗談ですよ、じょうだん、ね。」


 ポンは呆れたように笑いながら視線を斜め下に流す。その人を食ったような気だるげな態度に、メアリと呼ばれた少女は我慢ならずコップに残っていた牛乳をポンにぶちまける。


 髪を掴まれていたポンは避けようがない。柔らかに浮いていた前髪も額に張り付き、頬の薔薇も白く汚れる。


 ポンは片目を瞑り、頭から垂れてくる牛乳を指で拭って、


 「……あーあ、私こんな寒い日に外で水浴びるの嫌なんですけど……っなぁ!」


 穏やかな口調から一転、ポンもまた手元に引き寄せてあったコップで応酬する。


 「てめえっ……!」


 後は食卓を挟んでの張り手のやり合い――に、なるはずであった。


 「こらこら、どうしたんだい。ポンにメアリ、帰って早々喧嘩は良くないよ。ほら、レーダちゃんが困ってる。」


 振り上げたポンとメアリの腕を掴むのは、長身痩躯で眼鏡をかけた優男であった。ポンの背後に立つ彼が目で促す先には、胸の前で両手を揉むレーダの不安げな姿がある。


 「ワイドにい、ポン姉が酷いんだよ。配膳は手伝わないわ、イラついて牛乳零すわ、無視するわ……なんとか言ってよ!」


 仲裁に入った理知的な男性――ワイド・ディムールは、まあまあと言うように掴んだメアリの腕を軽く振ってから放し、少し屈んでポンに向き合う。


 「ポンはどうしてそんなに苛々しているの?」


 そう問うてくるワイドを、ポンは真っ向から見据えながら、


 「……気安く名前で呼ぶのは止めて欲しいなあ、なんて。ねえ、ワイド兄さん。相も変わらず糞辛気臭い顔を近づけないでください。」


 幼く無垢な微笑みが訴える。赤い外套も相俟あいまってどこか雪国の露店にでも立って健気に客を呼び止める売り子のよう。


 そうしてポンが標的をメアリから背後の男に替えたとき、しんと静まり返ったリビングに金髪の少年が慌ただしく駆けこむ。


 「ああ!ごめんなさい!それ、僕の所為なんです、僕が勝手にポンポンの部屋で寝てたから、だから、それで……。」


 ロッドは不貞腐れて座っているメアリと立ったままのワイドの顔を交互に見ながら必死に弁解する。あまりの慌てぶりに全てが茶番になって流れる。


 が、ポンにしては面白くない。


 「……ホモが調子乗んじゃねえよ。」と、また彼女は独りちる。


 そのままロッドが何度も頭を下げているとメアリが先に折れた。彼女の精神は熱しやすく冷めやすい、豪気な性質である。


 「……もう!いいよ!ロッドにいがそんなに謝んなくても……分かった、分かった、ごめんねポン姉、一緒に髪洗ってこよ?」


 メアリはそう言いながらポンを待つことなくさっさと玄関に向かってしまった。残されたポンにレーダが1階の自室から持ってきたタオルを渡す。それをポンはひったくるようにして受け取り、髪から拭くべきところ、まず真っ先に薔薇の頬をタオルで温めるようにして包んだ。


 ワイドは彼女が髪まで拭き終わるのをじっと待っていた。それから労わるようにして妹の頭を撫でてやると、ポンはもう我慢ならないといった舌打ちを残してリビングから出て行く。玄関の扉が激しく閉められる音がリビングまで轟いた。その音にレーダが肩を跳ね上げ、それから赤い瞳を揺らしてワイドに頭を下げる。


 「ごめんなさい、ワイド。いつもこんな役ばかり。」


 「いいんだよレーダ。僕は長男だから。……それにしてもロッド、なんで君は髪の毛が少し濡れているんだ?まさか君もポンに牛乳をかけられたわけじゃないだろう?」


 ワイドが心底不思議そうに眼鏡を押し上げながら聞く。確かにロッドの髪もまた水に濡れて一際輝いていた。それに後ろを青いリボンで可愛らしく結っており、レーダには及ばずとも、身嗜みには気合いが入っている。


 「あの……朝食の前にどうしても寝癖が気になって、先に外で直していたらメアリの怒声が聞こえてきたから、もしかしたらポンポンと喧嘩かなって思って……急いで来たんです、えっと……なんか、その、とりあえずごめんなさい。」


 羞恥に染まる頬を隠すように下を向き、髪を弄るロッド。


 レーダは「いいのよ」と微笑ましく眺め、ワイドは困った笑みで答えた。


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