interlude 1 萌芽―sprout―
九太郎とロッドが家路を同じくした雪の夜、元公国エルターニャの港湾にひっそりと小型の帆船が着く。
それからしばらくして、哨戒をしていた者の慌てて要領を得ない連絡を受けた港湾の漁師達が、ランプを持ってその帆船の周りに集い始めた。
「おい、お前らどこのもんだ!」
見知らぬ船舶と予定にない着岸。近年は海賊の活動も活発化しているため、駆け付けた漁師たちの面に緊張が走る。真っ暗で視界も悪いこの岸に衝突させず船を止める技術と経験。海賊である可能性が高いと判断するのにそう時間はかからなかった。
ランプの心許ない明かりの先で、すでに下船していた者の影が揺れる。
大柄な男と、小柄な女が1人ずつ。他にも船員はいるのかもしれないが、降りて来る気配はない。
ただ海を眺め立っていただけの彼らは、にじり寄る者の存在を認めながら、逃げる素振りも見せずあっさりと漁師たちに囲まれた。ランプの炎が闖入者を闇夜に浮かべる。今にも組み伏せてしまおうと身構える屈強な男たちを前にして、華奢な女の方が振り向き、一礼して一歩前に踏み出す。
漁師たちはそこでやっと息を吐く。ひとまず対話が出来るということが分かり、目に見えて緊迫した空気は弛緩する。彼らはやはり漁師であって軍人ではない。頑強な体を持つが荒事には不慣れだ。
女の抑揚のきいた声が埠頭を彼女の舞台に変える。が、それは全く以って漁師たちの望んだような対話ではなかった。
「……人は徒に中身の喪失を嘆きたがりますけど、純粋な痛切というのはどうもかような光景に形を採る、あなた方はそう思いませんか?」
女は月光の滲んで潤む瞳で訴えかける。エルターニャの街並みを、手を大きく広げゆっくりと見回して、望郷の思いに浸るかのように、あたかも自分が飛翔する一羽の鳥となって街を鳥瞰するように。
遠くの山峰は夜空より暗く聳え、その鋭利な稜線は今この瞬間にも街に迫る波濤のよう。
密航者の女もまた、漁師らに囲まれ逃げることも能わず立ち尽くし、後は捕縛されるばかり。そんな状況であるにも関わらず、その優雅な所作に乱れはない。
ここにいない誰かに、あるいは自分自身に語るようだった女は、ようやく焦点を周囲の男たちに合わせる。
「こんばんわ。突然押しかけて申し訳ないのだけれど、九太郎・ソロア・サルベード様のお宅はどちら?教えてくださる?」
「九太郎……?」
この狭くなってしまった街で、いや隆盛を極めていた頃からそうだが、九太郎の名を知らぬものはもぐりである。ゆえに漁師たちは、その男も、その住処も当然の事ながら知っていた。
が、なぜその名前がこの目の前の不審な女の口から出るのか。
「あんなならず者に……?」
動揺が互いの顔から顔に伝播する。他の者ならまだしも、九太郎に用ならば悪い奴らであるはずがない。それは九太郎への曲がった信頼であった。
あんな奴を、攫うにしても、危害を加えるにしても、なんら利点が浮かばない。
……そもそもこんな港湾までどうして進入出来た?
港から少し海に出れば小さな孤島があって、そこには王国軍の監視の目がある。港に入る船は必ずその島の前を横切らなければならない。
……夜中だから見逃したのか?しかし、いくら王都から遠く手薄い軍の警戒網でも、それを掻い潜ってここまでたどり着けるものなのか。
……こいつらはどこから、どうやって、このエルターニャに来たのか。挙句の果てにそれだけの困難を経て求めるのはうだつが上がらない男一人。
目的は何か、銘々が僅かな時間で考える。九太郎は見下げ果てた奴だが、みな嫌っている訳ではない。なにせ酒の肴には丁度良い笑い者だ。
本当にただの渡航者かも知れない。そう思いなすものも少なからずいた。
そうして逡巡した後、漁師たちは互いに無言で決断した。集会所まで連行しながら目的を探る。その間に九太郎にこのことを報せ、場合によっては引き合わせる。
暗黙の内に共通了解を得て、ようやく漁師たちの代表が口を開きかけ、他の者たちが密航者2人ににじり寄った時、女の方の影がふらりと揺らぐ。
「――え?」
声を出せた者は1人だけだった。
一瞬の隙に全てのランプが地面に叩き落とされている。
派手な音を立てて割れるガラス。港湾はまた一瞬の暗闇に包まれ、夜の静寂に波の砕ける音が連綿と聞こえる。
地面に漏れた油に火が着く。女の足元に炎が蜷局を捲いて蠢く。降る雪が火炎の舌先に触れては融ける。
――深紅の髪と琥珀色の瞳が漆黒に浮く。
その風貌は最初から変化がない。それでもうねる炎が、予期せぬ襲撃が、男たちの視覚を過敏にする。鮮やか過ぎる色に、漁師たちは金縛りにあったように動けなくなる。そして誰が、女の怪しげな微笑を窺い知る余裕を持っただろうか。
「――願わくは、」
女が呟く。
我に返った漁師たちが一斉に飛び掛かる。女は腕やら脚やらを乱暴に掴まれても終始無抵抗で、何かうわ言のようなものを呟き続けた。
漁師たちはほっと安堵する。ランプを叩き落としたのは本当にこの女であったのか、と疑わしく思うものの、こうも拘束されては手の出しようがない。それにどうやら相方の男も反抗せずにすぐ傍で仲間に取り押さえられている。
この期に及んでも、船から仲間が出てくる様子はない。
こうなってしまえばもう駐在の王国軍に引き渡す。漁師たちは自分たちの縄張りを自分たちで死守したことに満足し、呆気なく手柄を放棄することにした。
組み伏せられた女は頬を地に擦り付けながら、街の方向をじっと見ている。炎はすでに汲んだ海水で消化された。
それから半刻もしない内に、漁師たちと同じく港湾付近の哨戒職務にあたっていた制服姿の軍人が数人、遅まきながら騒ぎを聞きつけてやって来た。漁師たちにとっても見知った顔ぶれである。
「ご苦労だった。やはり港の警備はもう少し人員を割かねばなるまい。いつまでも君たちの手を煩わしてしまって申し訳ないが、今回はそれが功を奏した。……王都には言い続けているんだ。しかしどうにも腰が重い。こちらの都合で面倒をかけてすまないな。」
漁師たちよりもかなり若い男だったが、その毅然とした態度と言葉に、彼らはしどろもどろになりつつ恐縮するばかりだった。
「応援が来るまで待つしかないか。どれだけあれに乗っているかも分からない。」
軍の将校は女に軽く尋問するが何も言わない。それを見て漁師の1人が九太郎の事を報告する。
「九太郎・ソロア・サルべードか。奴なら確かにこんな連中と関係があっても不思議ではない。」
将校がどうしたものかと考えを巡らせていると、気が変わったのか、女が苦しそうに口を開く。
「船にはもう誰も乗っていませんわ。私を人質にでもして確認してはどう?……とにかく、九太郎様に会わせて頂ければ全て、話しましょう。」
「様、ねえ。」
将校はそれでも集中と緊張を解かずにいた。そしてすぐに部下に命じて船を調べさせる。その決断の速さに、漁師たちは舌を巻く。
「信じて貰えて何よりですわ。」
「馬鹿か。あの船にもう人が乗っていないことなど端から分かっている。お前たちの様子を確かめていただけだ。」
淡々と、誇ることなく述べる将校に、女はこの夜初めて相手の言動に反応を示した。
「このまま2人には本部まで来てもらう。お前たちも出来る限りついてきて欲しい。詳しい状況の説明と、それから礼がしたい。それに暴れられた時に頼りになるからな。」
そもそも漁師たちは将校に逆らうことなど出来ない。それでも依頼する形を採る将校の人柄に、漁師たちは感銘を受けた。
十数人の集団が、街の北にある軍の本部を目指してぞろぞろと宵の街を歩く。壁の壊された家屋で肌を寄せ合い眠る浮浪者たちが、何事かと顔を出し、軍服を見、自分に関係が無いと知ってまた横になる。
隊列の真ん中、両手を縛れた女が、歩く自分の足を見詰めながら、なおも呪詛のような言葉を垂れる唾液とともに吐き続ける。
津々と降る雪に唇を凍えさせて。
「――願わくは、彼の瞳に映るこの街に……。」
――その夜、九太郎の家を訪れる者は1人もなかった。