喫茶エル―ロの一日
煙草の匂いに、行き交う酒と人。
囁き声を罵声が塗り潰す喫茶エル―ロの店内は、九太郎が舵を取ってゆるりゆるりと渦巻きながら興奮の頂へと登って行く。
九太郎・ソロア・サルべード。青年と壮年の狭間でふらついている彼は、白いワイシャツに紺のベスト、首には濃い緑のスカーフを巻いて、一向に帰る気配もなく酒場と化したエル―ロに居座り続けている。
恐れ多くもコーヒーのお代わりを要求し、それが断られるとなると勝手に自分で淹れようとする始末。高い豆を躊躇いなく使いカウンターを占拠する。そしてカルロスにとってそれ以上に最悪なのは、彼が淹れるコーヒーが絶品で大層客に受けがいいこと。すでに九太郎の前には行列すら出現し、それで得たチップを店のツケの返済に充てるのかと思えば、その辺の女と接吻するために払ってしまう。
そんな九太郎がまた大声を上げ騒ぎを起こす。落ち着く暇もないのかとカルロスは呆れを通り越して賛辞を贈りたい気持ちになる。
「違う、違う、違うっ!っち、耳障りな演奏しやがって!」
九太郎は顔の前で大きく手を振って、気弱そうな男から弓を奪い取る。「ここはこう弾くんだよ、若造!」
いきなり泥酔した男に絡まれ、演奏を中断された若者はなすすべなく茫然としている。
九太郎はそのまま苛立った様子を隠そうともせず、若者の持っていたツェーロを乱暴に構え演奏し始めた。
――弦楽四重奏。ベオレッタが2本、それに内声部を支えるベーラと、低音で基礎を作るツェーロ。
他の三人の演奏者も浮かべた困惑を拭えぬまま、数小節遅れて九太郎のツェーロに合わせる。演奏が店内に膨らんでいくのに合わせ、段々と調子が乗ってきた彼は、旋律を口ずさみながら上機嫌でツェーロを左右に振る。
公国がまだ健在の頃、喫茶エル―ロは若手音楽家にとっての鬼門であり登竜門であった。九太郎のような喧しい聞き手が多く、しかもなまじ知識と技術を持っているばかりに潰された者も多いが、一度認められてしまえば出世は早い。
しかしそれも今は昔。だが自己研鑽を止まない若手、しかも王国に「連れてって」もらえず辛酸をなめた者たちが、藁をも掴む意気込みで演奏しにやってくる。
最初は狐につままれたようだった若者たちも、九太郎の演奏に耳を澄ましている。
技術的には彼らの方が余程上手い。運弓法もなっておらず、運指もたどたどしい。が、九太郎の指摘するところは、自分たちで曖昧さを残していた部分、突かれるかもしれないと不安に思いながら演奏していたフレーズであることが多々ある。
フレーズを弾き終わった九太郎がツェーロを若者に突っ返して、
「っと、どうだ。こっちの方が後との繋がりがあって良いような気がするんだ。」
勝手に怒鳴り込んでおいて、最後は穏やかな口調で諭すように言う。九太郎はそれを意識している訳ではないが、どこか話術として完成されたものがある。
カルテットのメンバーは、同じフレーズを今度は九太郎に聞いてもらうためだけに演奏してみせる。脚と腕を組んでそれをじっと聞いていた九太郎は、最後に大袈裟な拍手をして頷きながら、
「うん、うん、やっぱりよくなったじゃねえか。……まあ、実のところ俺もよく分からんが。」と、不思議なことを言った。
若者たちは納得がいかず顔を見合わせる。九太郎が自ら演奏して示したのは、自分たちも練習の時点で考慮していた複数の選択肢の内の一つでしかない。が、自信をもってそれを選べるセンスは、演奏家として喉から手が出るほど欲しい才能の内の一つである。
「いや、本当だって。そういう風に弾く奴がいて、そっちの方が良かったから言っただけだよ。」
九太郎はカルテットの前で仁王立ちしながら鼻頭を擦り、それから酒を煽る。眉の端を人差し指で掻くのは、九太郎の照れた時の癖である。
「あら、また女の話ね」と、すかさずカミラが脇から顔を出し、半月型の大きな瞳で九太郎を見上げながらワインを干す。開いたドレスの胸元に垂れた滴が一筋赤く流れ、男を誘うが、
「あ、ああ、あれは上玉だった。この俺にはなぜか全く靡かなかったけどな。」と、九太郎はかえってそれを逃げ道にはぐらかしてしまう。
若き演奏者たちはカミラの顔をちらちらと気にしながら演奏を再開した。
「これなんだったかな……でぃ、でぃ、ディボロだディボロ、の一番!そうだろ、なあ、そうだろ?当たりだろ?」と、九太郎は性懲りもなくまた演奏者たちの邪魔をし出す。
カミラはそんな彼の姿を眺めながら、つまらなそうにワインのお代わりを頼んでいた。
どうやら作品名が当ったらしい九太郎は、大きく満足そうに頷いたあと、そっぽを向いていたカミラの頭を鷲掴みにしてこねる。乱れる髪も気にせず、気持ちよさそうに目を瞑り、顎を上げるカミラ。九太郎の恐れ知らずな行為を、周囲の客が遠巻きに眺める。
カミラにそう易々と触れることの出来る九太郎に、畏敬にも似た眼差しを向ける野卑な男たちと、それに隠れて生暖かく見守る女ら。
彼女たちの興味はカミラにある。
「……汚らわしい女。」
声が喧噪の隙間を縫ってカミラの耳まで届く。おそらく九太郎にも聞こえたことだろう。
カミラの行くところに蔑視は付き物。いわば報酬に対する税だと、彼女は慣れたもので割り切っているが、それでも連れ添う九太郎への遠慮は生じてしまう。
カミラは卑屈な笑みを零すまいとしてグラスを傾け口元を隠す。九太郎がなぜ自分を連れまわすのか。その理由は定かではない。そのことに甘えている自分もいる。
ただ、周りの声に負けて己を卑下することはできない。それはきっと九太郎が悲しむからことだから。
「……私にも少しは構ってちょうだいな。」
そうカミラが言うと、九太郎は彼女の鼻を摘んで左右に振る。「ったく、お前大人だろう。」
「おめえが言うな」と、酒を運びに来たカルロスが耳聡くつっこむ。
九太郎とカミラが笑い、カルロスは呆れ顔で仕事に戻る。
そうして日が暮れ始めた頃、喫茶エルーロの扉が派手に開き、1人の男が入って来る。その顔をカルロスは真っ先に確かめて、この世の終わりのように頭を抱え、それから飾ってあった高価な酒やら葉巻を、従業員に指示して下げさせる。
入って来たのは、小奇麗な身なりの恰幅の良い中年の男性である。縮れた髪を後ろで一つに纏め、大きく開いた胸襟からは赤茶の胸毛がこんもりしている。
「おい、おい、おい、見ろよ、こんな場末の喫茶店にあの『エルターニャ派』の御旗を掲げておられる、大芸術家様がいらっしゃるなんて!!」
上裸で、小脇に酒瓶を挟みながら、九太郎はテーブルを幾つか寄せ合った舞台で見知らぬ女と踊っていた。その最中に声がした。
店の奥で即席に組まれた室内楽団が演奏を止めた。自然に会話する声も立ち消えていく。
男の後ろからは女が2人と男が1人、取り巻きの連中も肩をそびやかして偉そうに店内に入って来る。
カルロスは客にばれないようにカウンターを蹴飛ばした。
……いらっしゃる?馬鹿言え。九太郎の阿保は毎日のように入り浸ってるだろうが、くそっ。わざわざ挑発しに来やがって。
カルロスにとって九太郎は友人であり常連で、支払いは滞るが、それでも必ず遅れて清算する、いわば悪くない客だ。
それに比べてこの男は、金は払うが、貴重な酒の味も分からず水のように飲み散らかし、あげく人を選ばず喧嘩を吹っ掛けては店を壊す。
何より、この店の歴史と宝である絵画を、何度も傷つけた過去がある。それは九太郎が絶対にしないことだ。
「お前もその一員だっただろう?タルバード。出来たのは紙屑ばかりだがな。」
九太郎はガラス瓶の酒を飲み干し、それを地面に叩きつける。一緒になって踊っていた女は早々に逃げ、替わりにカミラがゆっくりとした足取りで九太郎の傍に寄る。
それを目ざとく見ていた悪漢が食ってかかった。金の差し歯をギラつかせ、唾を飛ばす。近くの客がさっと壁際まで引く。
「おお、カミラもいるんじゃねえか。なんだ、手間が省けたなあ。お前に用があって店に行ったら居やがらねえからよ。しょうがなく、そこの屑でもからかいに来たってこった。」
カミラは新しい葉巻に火をつけながら長い脚を組み、テーブルに腰かける。そして男なら誰もが怯み、己の無価値を嘆かずにはいられなくなるような、心底つまらなそうな顔をしてみせる。
「私に何の用かしら。短小の癖にそんな粋がって。」
美人の不機嫌は男の急所である。が、愚鈍なタルバードには刺さらない。
「なにも、前から言ってることじゃねえか。お前の店を俺が買う話さ。その暁には九太郎、お前のかわいい娘たちも働かせてやるさ!泣いて喜ぶぜ、なあ。」
タルバードの取り巻きがわざとらしく笑う。そしてなぜか店主のカルロスも張った腹を叩いてげらげらと笑いだした。客たちは気でも狂ったのかと心配になったが、すぐに元のカルロスに戻って一安心する。
……あまりに手本みたいな悪役ぶり。見てくれも、言動も、演じるにしては大根だ。それに、
「馬鹿言うんじゃねえ。タルバード、九太郎は給金次第では喜んで娘を差し出す奴だぜ。お前の言う通りあんなに可愛い子たちなのによ。喧嘩売るならもちっとましな言葉選べってんだ。……って、駄目だ、売るな!外いけ、外!」
やれやれというようなジャスチャーで余裕を見せていたカルロスが途端に慌てる。が、店内の客たちはすでにこれから勃発するであろう騒ぎを期待した眼差し。テーブルは端に避けられ、良心的な客によって柱の絵画は外され撤去されつつある。そして泡を食ったカルロスがそこに割って入れば入るほど場は盛り上がる。
「おめえら、だまれ、だまれぇ!……頼むっ!」
カルロスの哀願虚しく、2人には相手以外が見えていない。
「あいつら思いの外稼いでるからな。お前にやっちまったら俺が遊べなくなるだろう。」
「相変わらずの屑野郎だな、てめえ。」
そこで葉巻の灰を折りながら、カミラは首を傾げる。「九太郎、あなたの方が悪者みたいね。」
「あ?あいつはなあ、最近この公国に残った使えねえ芸術家連中に俗な仕事回して仲介料で儲けてんだ。」
「いや、勿論知っているけれど。」
「大悪党じゃねえか。腹いっぱいになった芸術家なんて芸術家じゃねえよ。殺されたも同然だ。」
九太郎の暴論にカミラは店の一隅を眺めながら「はい、はい」と興味無げに頷く。それを九太郎は承諾の意に取って、首をぐるりと回し、スカーフをするりと外す。
緊張が高まり、固唾を飲む客たち。カルロスは神に祈る時間もなく、温かい常連たちに背中を叩かれながら、せっせと貴重な品々を片づけに回っている。
「お前さんの娘っ子たちのためにもここで俺が成敗してやるよ!」
「あいつらはどうでもいいが、カミラの前で無様な姿は見せらんねえな。……ケツに酒瓶突っ込むぞこの豚野郎!」
二人の距離が縮まる。背丈は九太郎の方があるが、大きさは圧倒的にタルバードに分があり、床に倒されでもしたらひとたまりもない。それにタルバードの指には指輪がくどいほどはめられている。
……このままでは。
と、誰もが九太郎の地に伏す悲惨な姿を想像した。これまで2人は幾度も殴り合いになり、その度に九太郎が苦杯を喫している。ほとんどタルバードの情けによって命からがら逃げだす九太郎の背を笑いながら酒を舐めるのが、喫茶エル―ロの醍醐味なのである。
九太郎の足が床を蹴って始動する。彼我の距離はあってないようなものだった。すぐに間合いは詰まり、 二人の腕が、体が、交錯した。
それは一瞬間の出来事だった。
九太郎が酒瓶を持ってタルバードに飛び掛かり、相手もまた手近のテーブルに置かれてあった酒瓶を振りかざし待ち受ける。流血覚悟の杜撰な突撃を、誰もが目を見張って見守り、それから2人は……。
――『乾杯!!』
悦びに満ちた大声が店内に轟き、2人のごろつきが相手の口にお互い持っていた酒を流し込む。誰もが幽霊を見たようにしんと静まる。
「うっ、けほっ、けほ。お、お前、そんな一気に飲めねえよ。タル坊。」
「んだよ、兄貴。だらしねえなあ。」
九太郎は飲み切れなかった酒をだらしなく零し、一方のタルバードは余裕の表情で喉を鳴らす。乱闘を期待していた客たちは呆気に取られ、カミラはさっき九太郎が絡んでいた若者の演奏者たちに楽器の弾き方を習っている。ついでに自分の店の宣伝も兼ねて。
「……なんだ?お、おめえらこの間まで会えば喧嘩の犬猿の仲だったじゃねえか。何があったんだ気持ち悪りぃ……。」
カルロスはほっと安堵しつつも、目の前の理解し難い状況に口を挟まずにはいられない。口を拭ったタルバードがしてやったりといった感じで「がはは」と豪快に笑い、カルロスの肩を持ちながら、
「いやあ、この間九太郎の兄貴がよ、すげえ量の絵を持ってくるから何かと思えば、全部売ってくれって。いま市場じゃあ兄貴の絵は買い手数多で価格も高騰してっから、棚からぼた餅。それどころじゃねえ、仲介料は7割持ってっていいなんていうから、おったまげたさ。」
「そういうこった。まあ、仲直りの手土産ということだな。おいタル坊、ちゃんとカルロスにもこれまでの分弁償しとけよ。」
「分かってるって。ようやく俺にも絵の価値っつーもんが分かったらな。ちゃんと弁償するよ。破れちまった絵は戻らねえが、すまねえ。」
そういってタルバードは従えていた男からカルロスに金を渡させる。それを茫然としたまま受け取るカルロス。
喫茶エル―ロにまた穏やかな音楽が流れ始める。期待外れ、一気に冷めてしまった客もいれば、九太郎とタルバードを取り囲んで祝宴を始めようとする者たちもいる。
そんななか、カルロスは九太郎の近くに寄り、耳元で、
「……それで、なんでタルバードに売った?」
「俺じゃあ売るにしてもコネがねえよ。」
カルロスは怪訝な顔を崩さない。「それは半分だ。買いたい奴が山ほどいるんだ。コネなんて後からいくらでも掘り返せる。」
「いや、本当にタルバードへのお布施さ。あいつには期待してんだよ。」
カルロスは「冗談だろ?」と言うように肩を大袈裟に上げ下げしてみせる。
九太郎は集って来た客たちの輪の中に加わって手渡されたワインを煽ると、店に割れんばかりの拍手喝采が起こり、それにまあまあと手を上げて答えて見せる。その中心にいたタルバードが「今日は全て俺の驕りだ!」などど豪語したために、店の活気は沈む太陽とは裏腹に夜が深くなるにつれてうなぎ上りとなったのであった。
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「毎度まいどのことながら、本当に申し訳ありませんでした。」
「いいって、いいって、お前さんが謝ることじゃねえ。」
「でも、食器もたくさん割っちゃったみたいですし。多分、たくさん飲んでますよね……?」
喫茶エルーロの前で、長雨に濡れた背丈の低い少女が、一回り以上大きな青年の腕を担ぎながらただひたすら頭を下げている。
ショートカットの金髪はハーフアップにして後頭部で結ばれ、細やかな雨滴が真珠のように髪に散っている。
夜気に震える体が街灯に曝され、誰もがその少女を一目見れば憐憫の情を催さずにはいられない。
エル―ロは昼間の盛況ぶりが余興であったと言わんばかりに、今や吹き曝しの街路にまでワイン樽をテーブルにしての酒盛りが始まっていた。
「いくらかはカミラさんが置いてってくれたよ。後は次の仕事が入ったら、ロッド、お前が付いてって報酬をむしり取って来い。」
「僕にそんなこと出来るかなぁ。」
「じゃないと九太郎がまたつけあがる。忠犬もほどほどにな。その髪もまたこいつの趣味だろう?女みてぇに。」
カルロスが手を伸ばすと、ロッドという名の少女は肩を引いて避ける。カルロスは初めからそれを承知していたのだろう。嫌な顔をせず、まいったとばかりに腕を引っ込めて苦笑してみせる。
「みたいって。僕は女の子の……つもり、ですよ……。」
ロッドの声が尻すぼみとなって、徐々に頭が下がってゆく。旋毛が店主の前に露わになって、前髪から雨水が滴り落ちる。まるで泣いているように――
「痛いっ!」
「だったら無い胸張れってんだ!女々しいな!」
「……だから僕は女ですよぉ。」
両手の塞がったロッドは叩かれた頭を庇うことも出来ず、されど綻んだ顔でカルロスに別れを告げた。
喫茶エルーロのある十字路を原点に、街はおおよそ四つに分割される。エル―ロより北側には山脈が奔り、丁度山を背にするようにして領主の広大な敷地が広がる。ゆえに北側二区画は相対的に裕福な人々が住まう。
片や港湾側は、日雇い労働者と宿無しが、半ば不法にその日限りの宿を探して徘徊するような、廃れた灰色の風景が広がっている。
しかし、いずれの区画にしてもかつての公国の面影はない。北側と南側も、傍からみれば対した差はないのである。それは街の中心に位置する喫茶エルーロが、連日小火程度の喧嘩やいさかいはあれど、毎晩繁盛していることからも窺える。
街全体を流れる退廃的な倦怠感が、何か決定的な分裂の芽を腐らせ、妙な紐帯を結んでいる。
そんな街の大通りをロッドは緩慢に進んで行く。雨はいつの間にか重たいぼた雪となった。
小柄のロッドに、酔いつぶれた九太郎を背負って歩くのは重労働である。
かつては鏡を造っていた工房の前に腰を下ろし、ロッドは膝を休める。九太郎は自分の横に座らせ、頭を肩に乗せる。
店の床はガラスの破片が砕け散っており、妖しく鈍い光を夜の街に反射している。鏡は全て木の枠だけとなって残り、風に曝されながら静かに佇立していた。
「九太郎、そろそろ自分で歩ってください。僕もう限界です。」
ロッドは九太郎がとっくに目を覚ましていることに気付いていた。途中から寄りかかってくる体重がだいぶ軽くなっていたのだ。
揺すられた九太郎は嫌がるようにロッドの肩に顔を埋めながら、
「……ロッド、それじゃあ駄目だ。」
「……?」
九太郎はそれ以上話さず、外にまで飛び散ったガラスの破片を拾い空に掲げる。左目はロッドの肩に潰され、右目だけで透かし見る。
「これは鏡じゃねえな。」
「そうですか。」
工芸の栄えた街だ。どの建物にも装飾されたガラス窓の一つや二つ珍しくない。それぞれの街道に、かつては虹が降り、音楽が語り合った。
その美しさは、しかし偶有的なものであった。
誰もが街を彩ろうとした訳ではない。部屋に籠り愚直に楽器の練習をする者、家具を作るのに一心不乱と釘を打つ者、技術を顕示するため工房の窓に並べられた習作。
そういった人々の生活の跡に陽光が注ぎ、全ては美しく調和する。それは銘々の信奉する信念への、献身的なまでの努力の輝きである。
芸術的に輝く街は、そうした精神の副産物でしかなかった。
「なあ、お前、俺のこと好きなんだろ?」
九太郎が唐突に言う。ロッドの耳が凍傷のように赤くなる。
「え…なっ、何言ってるんですか!……だって九太郎は……。」
「ロッド。やっぱりお前は俺を起こすべきではなかったよ。」
迎えに来てもらっておきながらこの言い草。これぞ久太郎・ソロア・サルべードの真骨頂である。と、ロッドは落ち着きを取り戻し脳裡で苦笑いしながら、「何をいってるんですか」と、首を傾げ、それから九太郎の頭に乗った雪を払う。雪はどうにもすぐ融けてしまって髪が濡れるだけだ。
「そんなこと言ってないで早く帰りましょう、風邪をひいてしまいます……。」
ロッドはそう言いたかったが、九太郎の断定的な物言いが気になってしまって口を噤む。
九太郎は指でなにやら指揮棒を振るような仕草をしながら、諭すように、やはりお道化ながら言う。
「もう目覚めていると知っている。もう目覚めたことがばれているのを知っている。全て知っているのを互いに知っている……。それでも黙々と互いに役割を演じる。欺瞞に欺瞞を重ねて、それで次の日には澄まし顔で一緒に朝食を共にする。それがなんたって芸術的な美しさと恋愛の極意じゃないか……そんなことも分かんないから、お前はダメなんだよ……。」
難癖にも程がある。ロッドはそう早合点して嘆息する。
「……なんだ、やっぱり酔ってるんじゃないですか。」
何か重大な過ちでも自分が犯したのではないかと内心冷や汗をかいていたのに。いつもの少し面倒くさい九太郎だ。それでも「恋愛」という言葉が九太郎の口から出て、ロッドはあまり責める気にはなれなかった。
今度こそ九太郎を立たせて帰ろうと、膝に力を入れた矢先、ロッドの両の頬が急に熱くなる。
ほとんど張り手の勢いで、九太郎の両手に己の顔が挟まれていた。
ロッドの碧眼が見開かれる。鼻先が触れる距離で九太郎に見据えられ硬直してしまった。
「……酔ってねえよ、この馬鹿野郎、ひぃっ、違ぇだろうが……。こういう些細なところにそいつの、本然ってもんが、なあ、露呈するんだよ……お前の作品は、みんなそうだ……うっ、ひぃっ。」
酒臭いことも気にならず、九太郎の白い呼気に包まれながら、ロッドは自分の体を震わしていた。ただ九太郎を起こして帰ろうとしただけで、どうしてそれが絵の話になるのか。ロッドは全く理解できなかった。
理解できないために、怖かった。自分には見えていない道筋が、連関が、九太郎にははっきりと見えている。
それを酩酊した者の戯言と打っ棄って良いのか。見た目も少女であれば、気弱な心も少女のそれであるロッド。彼もまた九太郎と同じ芸術家の端くれである。
「いいか、よく聞け……。お前の作品を、人は日常生活の文脈で見ることはほとんどない……。例え、その辺に捨てるように飾られてもだ。……芸術作品として、芸術を見る心構えで鑑賞するんだ。……その視線の枠組みを、想定して、作品を創る。それでもまだ足りねえんだ。そんな、人を馬鹿にしちゃいけねえ……。自由ってもんを、嫌え、とことん、嫌うんだよ…。自由な精神の発露?はっ、くだらねえ。くだらねえよ、ったく馬鹿が!」
動悸がするのだろう。九太郎は息も絶え絶えに訴える。いつもエル―ロで芸術仲間と口論する時より、遅々とした口調で。最後には大勢の論敵と舌戦を繰り広げるような口振りになる。
九太郎の瞳は連日の夜遊びで血走っていた。眉が飛翔する鷹の羽のように鋭くなる。
ロッドの眦にゆっくりと涙が溜まる。それは唐突な説教に対しての涙ではなかった。驚きと憐憫。いつもはのらりくらりとしかロッドに芸術論をぶったことのない九太郎が、なぜ、今、こんな泥酔したなんでもない冬空の下で熱を帯びるのか。
……これではまるで。
ロッドは二週間後に迫った王立管弦楽団の慰問演奏会のことを思う。公国がこんなあり様になってから初めての演奏会。
元公国民への配慮のため、楽団はソリストに公国出身の至宝を招いた。
ロッドは九太郎のくたれたシャツの袖をひしと掴む。
うっっ、と九太郎は嗚咽をし出した。誰かに持論を持ち込むとき、決まって九太郎は胃そのものを吐き出すような深い嗚咽をする。
どう見ても、飲んだくれが若い女の子に管を捲いているようにしか見えない。が、その言葉の重みが分かるのは一人ロッドだけであった。
人が隠していた本音を語るのは、こうも唐突で冗談みたいなものである。唐突であるがゆえに本音なのだ。
「……戦うのは、現実を覆っている霧のような境界でだ……。互いに互いを無限に仮定しながら、その夢のような先の地平で表現を像にして、こっちに引っ張り戻す。なあ、おい、言っている意味が分かるか……?だから、芸術は、逃げなんだ。逃げて、逃げて、それでも真実なんてもんは端っからないんだよ……。」
自分に言い聞かせるように、九太郎は嗚咽を噛み殺しながら捲し立てる。
それはここに居ない誰かへの宣誓だった。朦朧とした頭で飛ばす檄は、しかし聞くべき聴衆を持たない。目の前の未熟なロッドを除いて。
「だったらどうして……?」
真実なんてないなら、どうしてあなたはそんなに苦しんでいるのか。ロッドは居た堪れなくなって臍を噛む。
彼は日々何かを求めるように徘徊して、その度に落胆して、そういう益体もない毎日を送っている。
……九太郎はあの時からずっと苦しんでいるのに。でもその理由を僕たちは知らない……。
「……同じだよ。真実なんて、最高の美なんてないってずっと昔から知っている。でも、あると自分を騙しておいた方が、動きやすいだろう?息が苦しくないだろう?……楽なんだ……。俺は、お前が羨ましくてしょうがねえよ。男なのに、そんな綺麗な見た目で。お前は自分のそのあり方を、そのまま作品に移せば良いってのに、馬鹿みたいに本質ばかり求めやがる…。お前はその愚かさを、人の嘲りでもって身に染みてんじゃねえのかよ。」
……恋愛も、同じだ。そこに本当も真実もない。ただ互いを仮定し合っているだけ。
そう悲しげに言い残し九太郎はロッドの顔を解放する。それから酔いが覚めたようにさっさと一人で街道を行く。膝の力が抜けたように、時より姿勢を崩しながら、それでも自分の足で歩む。道は次第に鳥の糞やら煙草の吸殻で皮膚病でも患ったように白く斑になった。
雪は到底積もりそうにない。
ロッドは、ぼろぼろの服の裾で目を擦って、九太郎の背中を追いかけた。
「ロッド、みんなはもう帰って来てるか……?」
「はい、昨日の夜に全員。」
「……そうか、久しぶりだな。」
夜の街灯が降る雪を照らし出し、その下には、ぼろのジャケットを瀟洒に着こなす短髪の男と、あちこち裂けて継ぎ接ぎだらけのワンピースを着た少年が、波音を遠くに聞きながら暗がりの帰路を行く。