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エルターニャ公国のならず者

 『冬の朝に手紙を認めること、どうか、お許しください。』


 厚い一枚板で出来た品の良い茶褐色の机。窓際に寄せて置かれ、花瓶には一輪の黄色い花が挿してある。


 ただのインテリアで、何か書き物をするための机ではない。が、白の淡いネグリジェを着た少女は、窓から伝う冷気も厭わず、むしろ好んでそこに座る。


 『曙光しょこうに染まる洋上は、紫の繻子シルクを浸して洗うような艶やかさで、陽は波間に細やかと、白く兎のように跳ねながら、それはどうしても郷愁を、しかも由縁のない郷愁を誘います。』


 少女は窓にはめられた木の格子越しに遠い海を眺めながら、手を差し込んでガラスの窓を開け放った。


 寒さに震えだす指で、なおも筆を走らせる。


 『寂しいという感情は、なんと羨ましく、妬ましいことでしょう。この手紙に宛先の無いように、長らく私の抱えている、このうすぼんやりとした情緒は、やはり郷愁と言うしかありません。それが悲しくて、悲しくて、耐えられないのです。』


 白髪が潮風になびき、風が体を得たようにうねる。まだ昨夜の暖炉の温もりが残る部屋に外気は思いのほか勢いよく入り込み、時より少女の耳や項まで露わにして過行く。


 寝起きたままの姿とは思えない梳いたばかりのような美しい髪。その幾筋かが風に持ち上げられることなく、赤く火照った頬に張り付いた。


 少女から呻くように声が漏れる。


 「くやしい……悔しいなあ……。」


 ……あの頃は思いっきり泣けたのに。


 朝目覚めて天井を眺めながら、はっと気づくことがあった。体も心も澄み渡ったように、眠る間際まで懊悩していたことが、倦怠が、何もかもが綺麗に無くなっていて、何でも出来そうなのに、ただそれを為す気力だけが抜け落ちている自分。


 この先歩むはずの未来が、もうすでに己の掌の上に巻き戻されてしまって、すっぽりと収まってしまったような感覚。


 もういいやって、私より賢い「私」が、考えるより先に諦めている。自分の輪郭だけがシーツの皺のようにベッドの上に残されている。


 人が自らを殺めるのは、きっとそういう瞬間なのだと、私は幼心に分かってしまっていた。


 そんな日は朝食の席に着くと決まって、ふと泣きだしてしまう。


 なんとかベッドを抜け出して身支度をし、挨拶もそこそこに虚ろな頭のまま温かいスープを口にすうっと流し込めば、先刻まで失っていたと思っていた大事な物が重みを増して一息に甦る。


 自分には確かに鬱陶しい体もあれば煩わしい心もあると、喉を通る熱に思い知らされる。


 一匙、もう一匙と、スープを運ぶ手が止まらなくなる。


 体があるなら振り返る記憶がある。すると、前にも後にも果てない時間は暗い洞窟となって続き、遠すぎる小さな光明に眩みながら一人佇むよう。そうして一度心が嘆いてしまえば死ぬことが急に恐ろしくなる。どうして自分はそんな恐ろしいことをさっきまで簡単に実行できると思っていたのか分からなくなる。


 両親は悪夢でも見たのだろうと、そっと私の両の肩に手を添えてくれた。


 その掌の体温にほだされた少女は、食卓に突っ伏して、1人の少年の名を呼びながら、声を荒げて泣いていた。


 そんな悲嘆に暮れる日々から、もう5年が経つ。


 ……でも、もうあんなに、あの頃みたいに、悲しくないんだ……寂しくないんだよ。キュウちゃん。


 少女は声に出さずに呼び掛ける。


 太陽は、もう甘い鴇色ときいろだった水平線を抜けて煌々と輝いている。広い空は面白みのない青色となって少女は筆を置いた。


 控えめにドアがノックされ、乾いた音に反って部屋の静けさが増す。


「起きてる。」


「でしたらわたくしをお呼びください、チタ様。寒くないのですか?」


「暖炉は頭だけ重くなるから嫌なの。」


 チタと呼ばれた少女の言葉を聞き流して、部屋に入ってきた女性は粛々と暖炉に薪を積む。その手馴れた作業をチタは潤んだ瞳のまま斜に見ていた。


「むやみやたらと体を凍えさせても、駄目ですよ。」


 女性はチタに背を向けたまま言う。薪の弾ける音が次第に大きくなって森閑とした部屋を満たしてゆく。


 調度品の影が薄く壁に延びて揺らめいた。


「チタ様は、まだあの男を憎んでいるのですか。」


 互いの影だけが寄り添い、離れながら語り合う。そうでもしなければ、今この時にしか話せないことがる。二人はそれを知っていた。


「まだ、じゃないよ、エリーゼ。そうならないために、何も考えたくないから……。」


 ……こうして震えるほど体を冷たくするんです。


 侍従のエリーゼは憐憫の情を抱かずにはいられない。


 チタの禁欲的なまでの潔癖への志向。自らが「人」であることを心底忌々しく思っている。己の体温さえも唾棄すべき余計なものだと、こうして苦行のようなことをあえてしてみせる。


 それはひどく危うい状態である。と、エリーゼはこうして毎朝のように様子を見にくる。


 「ほら、こちらに。暖かいですよ。」


 チタは萎れかけている花瓶の花を抜き取ってエリーゼに歩み寄り、それを暖炉に投げ入れる。鮮やかな黄色の花弁は盛る炎に喰われ穴が開き、すぐに灰に変わっていく。


 二人は暖炉の前のソファに並んで座った。侍従のエリーゼもチタと同じく白髪であり、肩まで届くほどの長さである。


 さながら仲睦まじい姉妹のように肩を寄せ合い暖を取りながら、橙に燃える暖炉に見入る。先程の花はもうそこになかった。


 「今月は、久しぶりに街での演奏会がありますね。」


 エリーゼは炎を映した瞳をゆっくりとした瞬きで覆い、それからチタの方に膝を向ける。チタもまた大きく背伸びをしてからエリーゼの話題に乗った。


 何事もない朝が、今ようやく始まったようだった。夜明けより鳴き続けていた小鳥の声も、ようやくチタの耳に届き始める。


 「演奏会……。マニー二・トラヴィンスキー様が指揮者だと聞いて、とても楽しみにしているんですよ。側聞そくぶんしたところによれば、静謐の極致、凍えるほど美しい演奏なんですってね。きっと完璧主義者なのね。……なんたって、リハーサルだけで満足してしまうこともあるのでしょう?」


 「ええ、そのまま帰られてしまうことも多々。」


 「今回は、ほら、慰問が目的ですから、そういうことがあるとあれですけど……。」


 チタは危惧するような口振りながら、高揚を声音に隠せない。彼女はその頬のこけて、眼窩がんかの落ち窪んだ老人の肖像画を思い出していた。鋭い眼光をこちらに向けて奔らせる瞳は、演奏の評判のように氷塊を想起させる青色で、指揮棒を振るう手の皺は音楽に捧げた苦悩の跡に違いなかった。


 静かに興奮するチタ。娯楽の少ない彼女にとっては、来る変奏会が僅かばかりの生きる糧であった。


 そうと知りつつも、横にはべるエリーゼにはチタに言わなければならないことがある。心苦しさをぐっと飲み込み、静かに体の力を抜く。


 その一言はチタにとっては思いがけぬ方向からの冷や水となった。


 「チタ様、申し上げにくいことなのですが……。」


 チタの希望に溢れた表情が一転、硬く強張るのを見て、エリーゼが一呼吸置く。「……九太郎・ソロア・サルベードもその演奏会に来るそうですよ。」


 薪の爆ぜる乾いた音が耳に鮮明になる。動かぬ二人の頬が熱に痺れる。


 「え……どうしてキュウちゃん、が……?」


 チタは笑って見せようとするが、何かがそれを皮膚の下で拒む。


 ……その話はエリーゼ、あなたがさっき終わらせたはずでしょう?


 チタは動揺しながらも、エリーゼの次の言葉を待つ。彼は決して自分に会いに来るのではない。そのことは承知している。が、淡い期待を抱かないほどには、チタは少女の頃を脱していなかった。


 もう二週間後に迫った演奏会に九太郎が来る。


 そのことを今の今まで黙っていたエリーゼの横顔を、チタは恨みがましくねめつけていた。自分を慮ってのこととは分かっているが、それでも憤らずにいられないのが人の業というものである。


 ……だから人というものは。


 九太郎、その人の名が出るだけで私はこうも意地汚くなる。チタにはそれが許しがたかった。


 「それが……。」


 竹を割ったような性格をしているエリーゼにしては珍しく、正対した顔はそのままに口を濁している。それだけでチタの儚い願いは裏切られた訳だが、だからといって聞かずにはいられない。


 視線だけでエリーゼに先を促すと、


 「噂では……サール・カシラス様とのお約束だそうです。」


 「……そう、サール、ね。」


 その名を聞いてチタは何もかも諦めたように気弱に自分の膝を擦りだした。


 ――サール・カシラス。弱冠12歳にして王室の庇護を受けたツェーロ奏者。17歳となった今、王立管弦楽団への加入を最も嘱望されている逸材にして、世界唯一と言っていいツェーロのソリスト。


 チタの脳裡では同い年で長身痩躯の可憐な少女が、観客を物のように睥睨する居丈高な姿が鮮烈に甦り、慄然りつぜんとする。


 「あの子とキュウちゃんが……。」


 「はい。どうやらサール様は無理を言ってソナタを演目に入れたそうです。」


 「そう……。彼女は私たち公国の宝だった。そしていずれ、王国の新たな宝になる方ですから……。より一層、楽しみになりましたね……。」


 それは誰に向けたかもわからない、チタの誇りが言わせた言葉だった。エリーゼもそれを察して、そろそろ朝食のお時間です、と言い残し部屋を出る。 


 チタはまだ温まらない足を暖炉に向けて伸ばす。そして来たる演奏会に向けて悲愴な決意をする。


 ……私はただの『貝拾い』。ねえ、そうでしょう、キュウちゃん。


==========================


 大陸で最も文化の栄えたエルターニャ公国は5年前、頑健であったはずの自治権を失してアールス王国に併呑へいどんされた。


 公国を統治していた貴族は領主としてエルターニャの地に残ったが、その他の貴族、芸術家、技術者、職人の多くは王都に移り住むことになった。


 元公国の領土には今や、『名無し(イマーゴー)』の平民、またはそれ以下の階層の人間がほとんどである。


 そんな山と湾に囲まれたこの荒廃した街に、霖雨りんうはそう珍しくない。


 今日も朝から雲が空を覆い、気分を押しつける柔らかな雨が朝から街路の石畳を濡らしている。


 馬車の蹄の音も遠く、人もまた雨に霞んで見えない。


 そんな暗鬱とした日でも【喫茶エルーロ】の前の通りだけは、店内の照明が街路に漏れて水溜りに反射し、薄ぼんやりと明るみながら、喧噪までもがそこから湯気のように立ち昇って道往く人の足に絡みつくように聞える。


 そうして一度足を止めて店内を覗いてしまえば、どこからともなく伸びた腕に体を引きずり込まれ、いつの間にか大きな喧噪の一部となっている。


 街一番の大通り。その十字路の角に喫茶エル―ロはある。道の交差する中心には噴水や銅像の立つちょっとした芝生の広場があり――エル―ロ広場と、歴史ある喫茶店の名を拝借してそう呼ぶのが昔からの習わしである。


 そんな街の憩いの場に、突如として男の怒声が響き渡る。


 「コーヒー出せって言ってんだよ!カルロス!」


 カウンターのテーブルを両手で叩きつけ、犬が噛みつくような姿勢で男は声を張り上げている。


 店内にはまだ日も昇りきらない昼間から泥酔した客がちらほら見受けられ、大声を上げた男はその筆頭だった。


 客の誰もが、彼の隣に座って優雅に紅茶を嗜む婦人すら、何事もなかったかのように、剣呑な大声にも平然としている。


 店内の客席と客席の間には太い柱がむやみやたらと林立して視界を遮っており、暗く影の落ちた奥の席ではトランプが興じられ勝者の凱歌に合わせてしゃがれ声の合唱が始まる。


 「少しは黙ってらんねえのか、東洋人。」


 店主のカルロスは、ぶかぶかのズボンを吊っているサスペンダーに親指を差し込み、肥えた腹をぺしぺし鞭打ちながら困ったとばかりに禿げ上がった頭を撫でる。


 カウンターの奥の壁には酒瓶と葉巻の入った木箱、それからコーヒ―豆と茶葉が宝石のごとく整然と陳列されている。


 「うるせえ、飲んだ後はコーヒー飲むって決まってんだよ、俺は!」


 「知らねえよ、ったく昼間から。今日も徹夜で飲み明かしたのか?」


 今にもカウンターを乗り越えてカルロスの襟元に掴みかからんとする浮浪者然とした青年は、胡乱うろんな瞳だけを持ち上げて鼻で笑う。


 酒気を帯びた息がカルロスの顔に纏わりつく。


 「あ?そうだよ。なんかわりぃかってんだ……へへっ、おい、カミラぁ、このウスノロに言ってやってくれ。昨晩の俺の色男っぷりをよお。」


 青年に付き従うように座っている、簡素な青いドレスを纏った婦人が、泰然とパイプの煙草をふかしながら言う。


 「彼ね、昨晩新しい子にお熱になって、七本も血に染めたの。ばかでしょう?」


 「へっっ!そういうこった!余りに上手くて天に召されちまうとこだったぜ。」


 青年はカミラと呼ばれた女の太腿を撫ぜながら自慢げに口の端を歪め笑う。それを見たカミラも、自慢の我が子を誇るように慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、胸まで伸びた髪を指で巻き付けている。


 頬を摺り寄せた二人の客の顔を見下ろし、カルロスもまた大口を開けて金の奥歯を曝しながら――


 「てめぇ、また女買ったのか!七本だと!?その前にツケ払う約束だろうがっ!!くそっ……カミラ嬢を連れている時点で察してはいたが……こいつっ!お前が召されるのは地獄の門だ!ここで通行料払ってから逝きやがれ!」


 先に胸倉を掴まれたのは青年の方だった。


 「あら、押さえてるんじゃなかったの?」


 「残念!今回はこんなぼろ喫茶のマスターなんかお知りじゃないような、とある高貴なお方からの依頼だったってわけ。」


 釣り上げられた魚のように浮いた足をばたつかせる青年は、カルロスの薄い金髪のオールバックを、唾液で湿らせた指で整えてやりながらへらへらと嘲笑を止めない。


 「この街でこいつに直接報酬渡す様な悪人なんざいねえよ……やられたな。ふざけんな、くそっ。」


 「まあまあ、最近貴族とのコネもたくさん出来たしぃ?これから依頼も増えるだろうから、なんだな、そうだ、さっさとコーヒー煎れろよ、おっせえな豚野郎。」


 カルロスは自分の頭に乗った手を払い除け、大きく溜息を吐いてから顎で従業員に指図する。


 しばらくして青年の前には湯気の立ったコーヒーにシナモンスティックが添えられて運ばれてきた。


 青年は瞑想するようにまず香りを楽しんで、それから一口、ゆっくりと啜りながら、


 「っち、相変わらず安っすい豆使ってんなあ。淹れ方もぜんっぜん駄目だ。お湯を一気に入れ過ぎてる。新人の教育はちゃんとしろよ、カルロス。」


 シナモンスティックを煙草のように咥えて舐めながら、組んだ足をカウンターに乗せる。


 「っ!!……はあ、もう、なんとでも言え。今日はカミラさんにサービスする心積もりでやるさ。……ただおめえ、喧嘩だけはやめてくれよ。」


 激高しかけた自分を抑え、大人の余裕を見せつけるカルロス。おそらく隣にカミラがいなければ、いつものように客に憚らず怒鳴り散らしていたことだろう。


 「あら、有難う。私も誰かさんのナニを咥えなければ駄目かしら……そうねえ、これでどう?」


 カミラはパイプの煙草に変えて、店員から受け取った葉巻をカルロスの前で艶っぽく振ってみせる。それは一本で青年のツケがチャラになるほどの最高級品だ。

 

 店主の瞳が俄かに輝きだす。


 「カミラさんをそれでなら安いもん……じゃねえ!なんで俺が払う方向になってるんだよ……。」


 カルロスの心が揺れている間にも、葉巻はヘッドが切り落とされ、赤く照るカミラの厚い唇に挟まれる。彼女に葉巻を渡した、まだ成人前と思われる若く上品な店員が、片っぽの頬を手で隠しながらそそくさと店の裏に逃げていく。


 「ほら、今度うちの子たち連れて来てあげるからさ、それで、ねえ?」


 「はい、はい、負けた、負けた。おい、お前は飲んだらすぐ帰れよ。」


 「大丈夫さ。今日は見た所お仲間はいないようだしな。口論になることもあるまいよ。」


 それから青年はコーヒーカップを優雅に持ち歩きながら、各テーブルに挨拶して回っていた。


 意外にもこの喫茶店での青年の人気は高く、どの席でもなかなか彼を手離そうとしない。特に女性たちは、その黒髪で黒い瞳を持つ東洋人の、幼くも端正な顔立ちをいたく気に入っているようだった。


 「……うん、うん、そうか、それは悲しかっただろうね、ミラ、ああ、分かるよ、分かる、俺には心から、ああ、そうだね。追っかけるべきだよ、絶対、そうだよ、君は僕の瞳の中ではいつもあの太陽より煌々と輝いているさ、目玉を刳り抜いてその男と交換してやってもいいね、……え、雨?……お、おい泣くなって!……今はその男の眼もこの鬱々とした空のように曇っているって訳さ!彼は君がいなくて泣いているんだ、きっと!な!」


 「ロータス!久しぶりじゃないか、教会の再建は終わったか?……うわ、なんだこの傷……いい藪医者知ってるよ、……え、人柄はな、人柄は良いんだよ!ただし、治療費はふっかけられるがな。ああ、治してもらったらすぐに逃げろ。」


 「ユーべ、お前太ったなあ、良いご身分だ。子供は元気か?……って、え、おい、こんなとこ連れてくんなよなぁったく。いいか、ロラ、見てろよ。はい、無くなったー。さあ、どこでしょうか?………うん?ほら、俺は悪魔だからなんでも消すことが……お、おい!泣くな、泣くな。ちょっと、カルロス!飴だ、飴くれ!」


 カルロスに食ってかかった時とは違い、青年は沈着な面持ちで聞き手に回ったり、道化を演じたり、大層人当たりが良い。そうして真剣に相槌を打ったり、時には哄笑しながら、場が盛り上がると誰に気付かれることもなく、自然に席を立っている。


 青年はまた他の席からお呼ばれされるまでの時間、至る所の壁に掛けられている名もない絵画を、柱に気怠く凭もたれながら鑑賞していた。彼が纏う雰囲気は、その時だけは怜悧で近寄りがたく、酒で重たく垂れた瞼も、何やら思慮深く遠くを見据えた者の顔つきである。


 天井の高い喫茶エルーロの臙脂の壁には、大仰な額縁に入れられた絵画から、ナプキンに描かれたお遊びのものまで、ありとあらゆる絵が飾られている。中には詩の覚書のようなものも。また、少なくとも十はある太い柱のそれぞれにも、色んな画家の作品が所狭しと並んで打ち付けてある。


 その1つ1つを、もう何度も見たであろうはずの作品たちを、青年は千鳥足で見て回っていた。


 「嫉妬かい?」


 そんな青年を酔って婀娜あだっぽい瞳で追っかけているカミラに、カルロスがコーヒーのカップを拭きながら声をかける。


「……そうね。私のような女が、烏滸おこがましい話かしら。」


 カルロスが肩を竦めてみせると、またどこからともなく凱歌がいかを歌う声と、食器を打ち鳴らす音が天井を伝って響いてきた。どうやら九太郎が賭けに負けたらしい。大人げなく地団太を踏み、テーブルを殴りつけている。


 カミラの燻らす紫煙が、徐々に店内を鼠色のヴェールで隠す。


 その中心に、いつのまにか例の青年が担ぎ上げられ、誰かの酒を飲み干しながら土足でテーブルを踏み鳴らしていたことは、語るまでもない。

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