馬車の旅路 Ⅰ
サブストーリーを書きたい欲求に抗えずに。
一匹の鳥がいる。雄々しい羽を空に広げ、鋭い眼光に人の姿など小さい。
鳥は王国の空を悠揚に飛んでいた。晴れ渡った空に、見渡せぬものなどない。上昇する気流に羽を押し上げられながら、ゆるりと旋回しつつ、何か興味を引く物はないかと探して飛翔する。北の海と、南に広がる街並み。王都を囲む城壁と、その先に広がる広大な農場。平生と変わらぬ風景に、しかし飽きるなどどということは無かった。
冬の日の晴天ほど、陽の匂いを感じる日はない。それだけで鳥には十分な娯楽であった。
鳥の見晴るかす目に、ふと一台の馬車が焦点を結んで留まった。その馬車は今まさに王都の城壁を越え、徐々に建物の密度が薄くなる周辺街の道を進んでいる。
遠距離用の馬車であることは鳥にも分かった。王都では常に馬車が出たり入ったり忙しない。列なるように、遅々とした進みの馬車の行列。鳥が惹かれた馬車もその中の一つに過ぎなかった。
ただ何とはなしに、その動機すら分からず、鳥は降下を始めた。
――今日という一日の命を、その馬車に乗る人々に託す思いで。
徐々に馬車が大きくなる。街の喧噪が膨らんで鳥を押し返すよう。
「――ポン姉、フード取りなよ。失礼だって。」
鳥が御者の脇に降り立って羽を休めたとき、背後から声がする。鳥は嘴でもって黒塗りの荷台についた窓を開け、まんまと中に進入した。慌てた御者がその尾を掴もうとするが、遅かった。
「あら、大きくて立派な鳥ね。」
御者が仕方がなく馬を道の脇に止める。
「申し訳ありません。すぐに追い出しますんで。」
「いいですよ。なんだか大人しいですし。暴れたらメアリがなんとかしてくれるでしょう?」
「酷いよレーダ姉、わたし狩猟の趣味はないって。」
追い出されれば飛んで付いて行くまで。そう考えていたが、あっさりと旅路の仲間に加えて貰えるようだった。
御者が謝罪のため取った帽子を被り直して、また馬の腹を蹴る。
鳥は首を機敏に動かして、客室に並ぶ顔を見た。中には五人の人間が乗り合わせていた。御者側から見て右側に並んで座る三人、彼女たちはどうやら姉妹のようだった。
「……私が追い出します。」と物騒な事を言ったのは、赤いコートのフードを目深に被った少女。こちらに向かって手を伸ばしてくるので、僅かに飛び上がって避ける。
「本当に賢いみたい。」これはレーダと呼ばれていた女性。王都中を遊び場にする鳥でも、ちょっと見たことがないほどの美しい見目をしていた。すると必然的に、残る姉妹の一人がメアリということになる。
鳥は姉妹の反対側、番いと思われる男女の隣に席を取る。羽を梳りながら、乗客たちの会話に耳を添わせる。何食わぬ顔で無銭乗車した鳥に、驚くばかりだった人々は、互いの顔を見合わせて笑った。
次第に意識は鳥から離れていく。時より頭を撫でてくるのは、夫婦の女であった。
「……エルターニャは今ぐらいの頃はまだ暖かいのですか?」
夫婦の男が姉妹に聞く。沈黙を嫌ったのだろうが、そうとは気取られない自然な会話の切り出し方だった。
「ええ、王都よりは過ごしやすい気温のはずです。ですけど、冬はやっぱり冬ですね。」
レーダの何気ない微笑みに、鳥ですら目を奪われた。が、男の表情には微塵も揺らぐところがない。妻の前だからと片づけてしまうことは出来る。男の態度には、余裕に満ちた品が備わっていた。馬車の格からするに、おそらく特権階級に属する者だろう。
「妻の故郷はエルターニャに近くて、それで昔は良く訪れたそうなんですよ。なあ、そうだろ?」
「はい。とても良い街でした。海が綺麗で、あの砂浜で夏に海水浴もしたことがあるんです。…………是非、今度は夫と、この子と、行けたらいいと、そう思っているんです……。」
女は自分の服を押し上げる大きな腹を撫でて言う。どうやら子を身ごもっているようだ。過去の鮮やかな記憶を振り返っているのだろう、顔を伏せて、向かいに座るメアリの足元を見ながら、その目は影になってふと泣くようでもあった。
「街並みは随分変わってしまいましたけど、あの海は以前と変わらずに綺麗ですよ。ですからもう少し街が落ち着いたら、ぜひいらしてください。私たちの家もとても海に近いので。」
レーダがそういうと、メアリが慌てて話に割り込む。
「駄目だよ、駄目!絶対うちのオヤジの毒牙にかかる。」
「あら、どうしてですか?」
「いやあ、恥ずかしい話なんですけど、うちのオヤジときたら駄目に駄目を重ねたようなどうしようもない男で。ヤコールさんみたいな人とは大違い。女好きで酒好き、しかも働きもせずに私たちの金でそれをやるんです。たまったもんじゃないですよ。きっと奥さんもお綺麗だから間違いなく、あいつの標的になりますって。」
ポンが何か粗悪品でも売りつけるような口振りで捲し立てる。
「ふふ。冗談を。皆さんのほうが私なんかよりよっぽど……。ね、そう思うでしょ、あなた。」
男は両肩をあげておどけてみせながら、
「これが妻の技なんですよ。私の口を封じるね。」
「あら、そんなつもりはなかったのだけれど。意地悪だった?」
おどけてみせる男の妻。それにレーダとメアリが乗じる。
「ここは『お前の方が綺麗だ』、でいいんですよ。ね、レーダ姉。」
「ええ、メアリの言う通り。それが素敵です。」
馬車の中の和んだ会話に、車体の揺れも小さくなるようだった。鳥は自分の前に座っているポンを静かに観察していた。ポンもまた、鳥の体を仔細に見ては、フードの中に顔を埋め、何か考え込んでいるようだった。
「ポン姉、なに鳥と睨めっこしてんの?」
メアリの声に応じて夫婦もまた、まだ打ち解けていないポンに視線を寄こす。
「……鳥の造りを、観察していただけですよ。」と、ぶっきら棒に答えるポン。
「妹は彫刻をしているんです。それで。ねえ、そうでしょうポン?」
レーダが夫婦に失礼のないよう助太刀をする。メアリがポンの踝の辺りを蹴って小突く。
「……ちっ。……人はよく彫りますけど、動物はあまり挑戦したことがないので、気になったんです。それだけですよ。」
渋々説明するポンに、夫婦の反応は温かいものだった。
「すごいなあ。私は芸術の心得がないので、羨ましい限りですよ。」と、夫は卑下しながら言い、妻の方はじっと射るようにポンの手の辺りを見詰めている。
男の言葉とその視線に、ポンは僅かに顔を逸らす。鳥にだけ下から覗くように見えたその顔は、とても苦々しいもので、称賛による恥じらいなどではないようだった。
馬車はとっくに周辺街を抜けて、窓から見える景色は収穫を終えた田園が水平線の先まで広がる。旅路を共にする五人は、夜になって宿場町に着いた。宿場町と言っても、農家の共同体が営む、民宿に近い形態のものである。
簡素で狭い部屋に、三姉妹はベッドに腰かけたり、椅子に座ったりしながら食後の時間を過ごす。鳥は常にポンの傍に寄って離れなかった。
「それにしてもヤコールさんの奥さん、大丈夫かな。」
メアリがカットラスを投げて回転させながら言う。手慰みで、癖でもあるようだった。寸分違わぬ高さまで上がり、あらかじめ開いて待っている手に収まる。その繰り返しは大道芸のようであった。
「そうね。ご実家までまだかなりの距離があるし、心配は心配ね。」
レーダは自慢の黒髪を櫛で梳かしながら、思案気な顔で窓の外を見る。薄い部屋着を纏って、ベッドの上に座る彼女。その横顔の顎から首に至る曲線が、あまりにも均整のとれたもので、鳥はどこか彼女が自分に近い存在なのではないかと思った。鳥にとっての徳とは良く空を飛ぶことである。レーダにとっての徳とは良く美しくあることだと、鳥には思えた。
「王都で産めば良いのに……。」
「それだけ出産は不安ということよ。」
「なに?なに?レーダ姉、経験あるの?」と、メアリがいやらしい笑みを浮かべて言う。
「ば、馬鹿!……ある訳ないでしょ!」
「でも色が全くないのも、それはそれで問題のような気がしますけど」
無関心を装っていたポンも、鳥にパンをやりながらメアリの姉いびりに乗る。レーダは狼狽えて体を後ろに引きながら、二人の妹の顔を交互に見る。その挙動は痛い所を突かれた人間ならではの所作である。
「問題って……そ、そんなことないですよ、普通です。」
「いや、ポン姉の言う通りだね。もう二十歳でしょ?ありえないって。」
「ええ、私もメアリと同意見です。もっと言えば気持ちが悪いです。」
ポンの辛辣な言いようにも、メアリはただ頷くだけだった。孤立無援となったレーダはだんだんと顔に不機嫌を滲ませる。
「そ、そう言うなら二人は、二人はどうなの!」
「いや、だって私たちまだ十四だし。これからだし。ねえ、ポン。」
「はい。それにメアリは訓練で汗臭いですし、私も王都とエルターニャの往復でそんな暇はありません。でもあなたは仕事でよく男の人と会うじゃないですか。……気持ち悪りぃ」
「臭くねえよ!」「気持ち悪くない!」
二人の怒号が、ポンにとってはそよ風にしかならず、鳥と戯れたまま鼻で笑う。
「でもこないだ、お昼一緒にしたとき言ってたじゃないですか。求婚されたって。」
「ちょっとグレコ!内緒って言ったじゃない!」
「それは聞き捨てならないなあ。なんで私には内緒なんだよ?」
「……う、だってメアリがそんなこと聞いたら騒ぐに決まってるから。そして間違いなく九太郎さんに言っちゃうでしょう?」
「私、ポン姉より信頼ないの?」
「グレコはほら、興味ないから。私に。」
「なんて悲しい信頼関係なんだ。」
ポンはしてやったり、と言わんばかりにレーダにだけ口の端を上げてみせる。メアリはそんなポンの掌の上と知りつつも、目を輝かせずにはいられない。
「もうこの話はおしまい。奥さんが無事出産出来るように祈って寝ましょう。ほら、ランプ消して。」
「おいポン。」「はいメアリ。」
頷き合った二人は、そろりとレーダに迫る。
「言わない、絶対言わないからぁ!」
ベッドの上で暴れるレーダと、それを押さえつける二人の妹。鳥の目には仲睦まじい姉妹たちの姿が、一つの白く発光する球体に見えた。ポンに構って貰えなくなった鳥は、部屋の窓を静かに開けて外に飛び立つ。
夜の空はどこか羽に重い気がする。同じ高度で飛んでいても、常に地面に押しつけられるような、重力とはことなる不思議な圧力。嫌ではない。鳥にはその負荷が、どこか心地よかった。朝は一日で一番自由に高く飛び上がれる。昼は落ち着いた心で気の向くままにどこへでも行ける。しかし夜は、同じ空であってもとても窮屈に感じる。
鳥はそれが嬉しかった。人が人と、あの姉妹たちが会話するのに似て、自分も空とせめぎ合っている様な、そうであって交わるような、これはそんな重みだった。