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物語る夢

 

 ――それは、およそ、ならされた夢だった。しかも自ら語る夢という矛盾。言葉が脳裡で回転するのに合わせて、その遠心力に身を委ねた妄想である。


 どうせならエリザベートが亡くなる間際が良い。彼女の、正常を強く希求する異常さが、もっともよく匂い立ったあの頃を。


 九太郎の部屋に入って、朝に彼を起こすのはエリザベートの日課だった。


 「キュウ、朝ご飯食べるでしょう?っていうか、食べないとだめ。」


 階下から声がする。


 九太郎はそれでも起きる気にはならなかった。夜の間、ほとんど瞑想するように制作中の絵の構想を考えて、それが形になったのが朝方だった。画材は名無し(イマーゴー )にとって大変高価なものである。それはすでに王立アカデミーで名の知れ渡った九太郎でも同じ事。筆を入れる時には、微に入り細を穿った、綿密な想定が必要なのである。


 ――サルべード・カエルラ。それは偶然が生んだ青の奇跡。


 ただ、他の色の顔料を持てなかった男が、手元にあった青色を用いてエルターニャの海を表現せんと躍起になった。その結果が彼を芸術家として大成させた。


 「キュウ!聞いてる!?……レーダちゃん、ごめん、ちょっとキュウ起こしてきて。」


 足音が硬質な壁を伝って、仰臥ぎょうがする九太郎の頭に響く。それから時を待たずして、遠慮がちに部屋の扉をノックする音が聞こえる。


 「……九太郎さん、ご飯だそうです。えっと、えっと、た、食べないと…………や、やっぱり言えません、お母さん……!」


 どうやらレーダの他にもう1人、扉の前に潜んでいるようだった。


 「え、でも……わ、分かりました。頑張ります。」


 何やら画策する声がして、それからレーダが咳払いをする。


 「……ちゃんと、みんなで朝ごはん食べないと、わ、わた、わたしが、キ、キスして、しまいますよぉ……。」


 見なくても分かる照れたレーダの声音。それを言わせた犯人も、九太郎にはお見通しだった。


 「リーザ、そこに居るならお前が起こせ。」


 九太郎が怒鳴ると、「きゃあ」と言って、一人分の足音が遠ざかる。恐らくレーダだろう。扉を開けて入ってきたのはエリザベートだった。


 その白髪は、朝には光を吸って鈍く見え、夜には自然に発光するよう。


 「ええ、なんだよもう!起きてるじゃん。だったら早く降りて来て。」


 「意味の分からないことすんじゃねえ、めんどくせえな。朝飯はいらない。」


 「いらなくないっ!どうせまた後でお腹痛いとか言いだすんだから。キュウは私の言う事聞いてればいいのっ!」


 「うっせえな。出てけ。」


 「ほら、やっぱりレーダちゃん連れて来た方が良かったじゃん!」

 

 不貞腐れながらリビングに降りると、皆が席に着いて朝食を待っている。


 ――五年前だ。ワイドは20歳ぐらいで、レーダは15、ポンやメアリは9歳だった。双子はまだ3、4歳、それは同時に寄せ集めの家族の年齢でもある。たった数年で、九太郎を除いては、およそ普通の家族らしくなっていた。


 九太郎は、ほとんど家族とは会話をしなかった。温かな豆のスープを胃に収め、黒パンを齧りながら、兄妹たちとエリザべートのやり取りを聞かずに聞く。


 その頃からポンとメアリはよく喧嘩していた。今と違うのは、ポンははっきりと、迂遠な言い方をせずに喧嘩を買っていたこと。すると当然、天賦の運動能力を持つメアリが勝つことになる。


 「メアリが、メアリがっ……!」


 唇の端を噛んで悔しがるポンは、よく九太郎の服の裾を掴んで耐えてた。そういう時はちょっと頬の刺青いれずみを撫でてやれば機嫌が直る。彼女はいつも、朝食を食べ終わるとすぐに街に出て、師事する彫刻家の工房に出掛けて行った。メアリも同じく、自分で剣術や槍術の鍛錬に励んだり、私掠船しりゃくせんの海賊がエルターニャを訪れた時には教えを請いに行った。


 二人とも、その頃には九太郎の勧めに応じて自分の道を歩み始めていた。


 「キュウ!肘ついて食べないの。行儀悪い!」


 エリザベートの怒声にワイドが笑う。九太郎は食事を食べることすら面倒くさいといった様子で、ほとんど食卓に寝るようにしてスプーンを口に運んでいた。


 「……お前、行儀正しいのが偉いと思うなよ。正しさから芸術は生まれないぞ。」


 「でも理論は重要ですよ。」


 「お前はアカデミーの教授か。……今日は用事は?ないならちょっと手伝え。」


 「すいません。今日も教会の手伝いで。」


 ワイドは済まなそうに深く頭を下げる。


 「いや、いいんだ。ちょっと重い物を運ぶのに男手が必要だっただけで、その辺の奴らを捕まえるよ。それよりどうだ、神父の爺さんの体調は。」


 「元気ですよ。昨日は少しだけ散歩を。」


 「そうか……なあ、お前は神学校に通いたいか?」


 「可能性のない話は、僕はしたくありません。」


 「おい、神父見習いがそんなことを言うな。元も子もない。」


 そんな会話を毎朝のようにしていた気がする。特段大事な用事でもないのに、話すことがなくて、それでも微笑みを絶やさないワイドとの距離感が分からなかったのだ。歳もそれ程離れておらず、親子よりも友人、それも親しくない同性の友人というは扱いに困る。


 双子の面倒を見ていたレーダが、何やらエリザベートと会話に興じている。


 「そう、そう。だからお家のことは頼んだよ、レーダ。」


 「ええ、分かりました、お母さん。」


 そう言ってエリザベートが笑いながら九太郎の方に近寄って来る。


 「なんだ、気持ちわりぃ。」


 「今日は貝を取りに行くよ、九太郎。」


 「あ?……当分それはやんねえって言っただろ。」


 「駄目、チタちゃん待ってるんだから。」


 九太郎は湯に浸かるように、体が熱を溜めるのを感じる。空想は自由ではない。言葉が言葉を連れて勝手に理性の統制を離れて行く。そしてそれは、わだちはまった車輪の如く、いつも同じ道を通る。


 そう、いつも最後にはこの日を夢想する。それは摩耗して、もう本当にあったことなのか、自分で装飾してはいまいか、定かではない。


 エリザベートとサールを連れてエルターニャ公国の海岸を歩く。アールス王国で言うところの「神海しんかい」、通称「女神の渡れぬ海原」。数多の諸島を越えた水平線の向こうには新大陸が広がる。


 波音を聞きながら、エリザベートはいつも九太郎の前を歩く。帽子を手で押さえ、ふと後ろを振り返っては相好そうごうを崩す。


 「ねえ、九太郎。どうして『貝拾い』の絵を描こうと思ったの?」


 九太郎は、エルターニャ公国を統べる領主、ハルトーレ家の依頼で一人娘のチタ・ハルトーレをモデルに絵を描いていた。その為に宮殿の一室を工房としてあてがわれていたが、その頃は足が遠のいていた。


 「なんとなくだ。」


 「お姫様をあんな風に描くなんて。きっと、絶対、怒られるよ。」


 「構わないさ。媚びて描ける絵なんてねえよ。」


 その製作途中の絵は、曇天の空の下、海と陸の狭間で貝を拾う銀髪の少女が、顔も判別できないほど小さく描かれたものだった。服装も小汚く、色調も砂塵が舞うように暗い。遠目から見れば、それが人かどうかも分からないだろう。


 「綺麗な子なんだから、素直に綺麗に描けばいいのに。あ、そうか、私と同じ髪だから照れたんでしょ、そうなんでしょ?」


 エリザベートのからかいに、答えたのはサールだった。


 「パパは素直さを海に流してしまったんだ。」


 「それはてめえもだろ。ばっさばっさの髪しやがって。」


 公国や王国では女性が髪を短くすることは忌避される。が、サールは耳が出るほど短く切りそろえていた。


 彼女はいつも居候先で一人、ツェーロの練習に励んでいた。九太郎やエリザベートが誘わなければ、そうして外に出ることもほとんどなかっただろう。


 「拾ってきてよキュウ!今すぐ海から素直さを!」


 「素直になってもお前を綺麗とは認めねえからな。」


 「ひっどい!わたし泣くから!泣いちゃうからね。」


 そう言ってエリザベートは髪を振り乱して砂浜を駆ける。その砂浜に打ち寄せられている貝殻と、海岸の先にある洞窟内の鉱物、どちらも白色のそれらを混ぜ合わせると、どうしてか美しい青の顔料となる。それこそが九太郎を一躍有名にした、サルベード・カエルラの正体であった。顔料の蓄えが少なくなると、そうしてエリザベートとサールを連れて貝と石を拾いに行ったのだ。

 

 エリザベートは走っても、すぐに息を切らして座り込む。


 「おい、無理すんなよ。お前を抱えて帰るなんて御免だからな。」


 「はあ、はあ、はあ、わたしキュウの背中好きなのに……。」


 腕を取って立たせてやると、エリザベートは胸に手を当てて深呼吸する。


 「……気持ちいいね。」


 息を整えたエリザベートはサールを見て言う。


 「そうだね、ママ。こういう時は無性に楽器を弾きたくなる。音楽は人が創るものだけど、こうしてみると、自然が私たちに歌わしてくれているのかもしれない。そう思う時がある。」


 「くせえこと言うな、子供らしくねえ。」


 九太郎はサールの頭を揉んで歩き出す。その影を踏むようにして、エリザベートとサールが後を追う。


 「でもサリーちゃんの言いたいこと分かるよ。」


 エリザベートがスカートの裾をひるがえしながら天を仰いで回る。その芝居がかった動きは、果たして九太郎が飾り付けてしまった、過去とは異なる記憶だろうか。


 「――わたしね、最近、世界がまるで綺羅きらを纏ったように見えるの。」


 その言葉にサールの表情が固まる。それはまやかしの美しさだと、輝きだと、どうして言うことができようか。


 「――世界がこんなにも綺麗に映るなら、きっと私の心だって、ちょっとぐらい綺麗なもので出来ているのかもしれないって、そう思うの。」


 エリザベートの妄想。伯父おじから受けた暴力の傷跡。


 なんて皮肉なことだろう。忘却してしまいたいほど悲惨な記憶が、その時は、彼女の瞳を薄く覆って世界を美しく見せている。


 忌々(いまいま)しい物だ。しかし、それを剥ぎ取ってしまうことは本当に正しいことなのだろうか。そんな葛藤も、もうすでに九太郎の中では乗り越えられたものだった。


 「おめえも寒いこと言ってんな。ほら、そこに落ちてるぞ。さっさと拾え。」


 そうして打ち寄せる波に足を濡らしながら、三人で砂浜にしゃがみ込んで貝を拾った。


 「――エリーザは、キュウとこうして居れて幸せだよ?」


 それは本当の幸せ。本当の、愛。


 そんなこの世で唯一の「本当」を、九太郎は守り切ることが出来なかった。


====================================


 「……起きた?キュウちゃん?」


 目覚めはベッドの上だった。やはりいつものように瞼は閉じたまま、背中に柔らかな感触を確かめる。気絶する前、次に見るのは牢屋の慈悲もない灰色の壁、あるいはそのまま目覚めぬことすら覚悟していたのに、肌に触れる空気は予想に反してとても暖かい。


 呼びかける声に、聞き覚えがある。ひどく懐かしい声だ。


 「……キュウちゃん。」


 控えめに揺らされる体に脳天まで激痛が奔り抜ける。歯を噛みしめてなんとかその痛みをやり過ごした。


 「……おい、痛えよ。チタ。」


 目に飛び込んできたのは、鮮やかな白の髪を持つ少女の、涙に濡れた顔だった。



 

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