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プロローグ


 頬が芝生にこそばゆい。耳には流麗で涕泣ていきゅうするような弦楽器の音色。


 葬送の音楽にしては余りにも淡泊で、無機的。


 ……ったく、もうすこし情緒を込めたって罰は当たらねえよ。


 身動ぎ一つせず地に伏す男は、その思いとは裏腹に誰に見られることもなく皮肉な笑みをこぼす。


 豪奢ごうしゃな宮殿の、その広大な庭園に王立管弦楽団の面々が並んでいる。が、清澄せいちょうで冷ややかな冬の空に響くのは、ただツェーロの低く唸り上がるような音のみ。


 本来はソナタなどあり得ない、低音域を支えることを目的とされたその楽器を、紺碧に塗り込められた短髪の少女が瞳を閉じて奏でる。


 彼女のためだけに作曲された、この世唯一の無伴奏ツェーロ・ソナタ。


 観客はすでに立ち去り、残るは倒れ伏した男と周囲に集まる彼の家族のみ。


 彼の耳は、しかしもう子供たちの声を聞かず、ただそのソナタだけに傾聴している。


 男の体を激しく揺らす者がある。どうやら泣いているらしかった。


 そんな価値などない。涙を流す暇があるなら、この独奏を聞け。男はそう言っていつものように頭を叩いてやりたかったがそれも叶わない。四肢は痺れるように感覚が逃げていき、頭も茫然として靄がかかる。


 ……さあ、これが待ちに待った死だ。しかも信念の漁火いさりびに投げ込んだ死だ。己を超越した大儀に身を投じた結果だ。


 普遍ではない、自分だけの固有の死。それはどれだけ美しく、恍惚とした体験となるだろう。


 そうして待ち焦がれた瞬間は、しかし、いつまでたっても訪れない。体は確実にその熱を手放しつつあるのに、あるべき霊的な直感というものが、ない。


 音楽は無情に庭園を渡って行く。すると風が一際強くなり、霞む視界の一隅いちぐうに一片、二片と白く降るものがある。


 雪が、男の亡骸をこの世から覆い隠すように舞い始める。


 天が、その甘美な音色に感謝して降らせたのだろうか。


 彼女は神が確かにいることを証明してみせると言った。

 

 それがこの一幅いっぷくの絵のような景色なのだろうか。


 しかし、悲しいかな。死にはやはり真理も美も隠されていなかった。そこに何かあると疑うのは、蠱惑こわくされるのは、如何いかんともしがたい人のごうである。


 「お前……たち、は……ただ、その日を……。」


 ――生きろ。


 その言葉はついぞ紡がれず、男は微睡まどろみの中に沈んでいく。


 ……良い演奏だ。でも、やっぱり足りないんだよ。


 雪はただ冷たく、音はただ鳴る。庭園に渦巻くどんな感情も、その透明な感覚の世界には至れない。


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