晩餐の前の
「おい、メアリ。お前がやれ。」
「やだよ。」
九太郎とメアリは珍しく二人並んで会話する。孤児院の長屋の裏手、彼らの目の前には暗闇の中で牛が二頭、鼻息荒く首を振っている。天才ツェーロ奏者のサールが土産として連れて来たそれを前にして、親子は押し問答する。
「なんのためにカットラスをお前にやったと思ってる。その通りだ。牛の頭蓋を割るためだ。さっさとやれ。」
「ちげぇだろ!人の頭かち割るためだ。」
「ええー。怖いなお前。」
どうやらサールは教会の九太郎の所まで辿り着く前に、その牛を誰かに譲ってもらったらしい。孤児院の子供たちは大喜びだったが、九太郎にとっては折角の再開の余韻が台無しとなってしまった。
サールの後ろで牛を牽いていたのはレーダとメアリ。サールがエルターニャ中挨拶して回っている間に出会ったらしく、後でカミラやアイリーも孤児院に来るそうだった。
レーダは出来る限り腕を伸ばして牛から離れるようにし、少しでも近づこうものなら「きゃあああああ」と絶叫を上げて喚いていた。普段はあまり見れぬ長女の慌てふためき様に、三女のポンは何度も牛をけしかけようとして、涙目のレーダに本気で怒られていた。
本格的な冬に入る前に牛は塩漬けの肉としなければならない。そのタイミングで元公国の新星に声を掛けられれば、春までの貴重な食料でも喜んで譲ってしまうだろう。おそらく相当の対価は払ったのだろうが。
「さあ、いけ。ここでお前の修練の成果をパパに見せてみろ。」
「パパ……だとっ!?気持ちわりぃんだよてめえ!そもそもカットラスじゃ無理だ、槌持ってこい。そしててめえでやれ。」
メアリが後ろで見守るポンを顎で指す。
「顎で姉を使う妹がいるなんて信じられません。それに駄目ですよ。あれは彫刻用の神聖な道具で、野蛮な猿が涎垂らしながら阿保みたいに振るっていいものではありません。」
メアリは蟀谷から音がするように、強く歯ぎしりした。
「ポン姉、まずはてめえの頭を割る。牛っころはその後だっ!。」
カットラスに手を伸ばすメアリ。が、その隙にポンが拾った石を思いっきり投げる。いくら非力なポンとは言えど擁護出来ない不意打ち。
「死ねっ!」
「痛えええ!血、頭から血出てんだけど!」
ポンが腕を振って投げたその礫は、何故か九太郎の額を直撃していた。どうやらメアリがカットラスで弾いたらしい。流石としか言いようのない反射神経にポンすら呑気に拍手している。
「おお、五分五分だと思ったらほんとに当たった。」
メアリが恐ろしいことを言う。
「お前わざとか!ふざけんな!」
九太郎は額を掌で押さえながらメアリに詰め寄る。が、メアリは刃こぼれしていないか、その美しい剣を透かし見るようにして点検しながら無視を決め込む。
「ぷぷっ…………笑っちゃだめだよ、フィア。またポンねえちゃんに叱られる。」
「ぷぷっ、レアだって笑ってるもん……ぷぷぷっ。」
双子は互いの口を互いの手で塞ぎ合って笑う。ポンも今回は自分の失態のため何も言わない。ましてや九太郎に謝ることもせず隠密に第二投を準備している。
「だ、大丈夫ですか?九太郎さん。」
長女だけが唯一心配する声をかけるが、
「…………レーダ、お前どっち見て言ってんだ?」
彼女は子猫のようにポンに首根っこを掴まれたまま、牛に背を向けるようにして体育座りしている。
「しょ、しょうがないじゃないですかっ!ポンが離してくれないんですよお!」
いつもはグレコと呼ぶレーダが「ポン」と呼ぶのは相当追い詰められている証拠だろう。ほとんど泣いているような声の調子で、逃げようとして立ち上がってはすぐにまた抑え込まれている。
「なんでもいいから早くしろー。」と、孤児院の母であるアリサが遠くから顔を出し、口に手を添えて大声で急かす。子供たちはワイドやロッドと共に運動場の真ん中で薪を積んで祝宴の準備をしていた。
出血の止まったのを確認した九太郎が、眉を掻きながら考える素振りをする。
「よし、レーダ。お前を助けてやる。」
「ほ、ほんとですか?」
急に明るい声をだすレーダに、玩具を取り上げられそうになるポンはまだ飽き足らないと言いたげな顔をする。
「ああ、孤児院の男かロッド連れてエル―ロに行って来い。」
「エル―ロってカルロスさんのとこの?」
「ああ、それでありったけの香辛料と酒をかっぱらってこい。」
孤児院にも備蓄はあるだろうが、100人分振る舞うとなると流石に怪しい。
九太郎は苦笑する。
……そういえばサールの奴料理はからっきしだったな。まったく牛だけ連れて来てどうすんだよ。
「いいですけど、また夜ご飯が遠のきますね。」
「孤児院のやつらはもう食ったんだろ?なら少しぐらい待てるし、その辺はサールに任せる。」
九太郎はそう言って、槌を探しに孤児院の倉庫へと向かおうとする。
「九太郎さん、すいません、お金……。」
と、相変わらず背を向けたままのレーダが僅かに首を回して言う。それを聞いて、九太郎とレーダは互いに固まる。それぞれ相手が何を言っているのか咀嚼できていないような沈黙の後、
「は?」と九太郎が変な声を出し、「え?」とレーダがあらぬ方向に赤い瞳を走らす。
メアリは蔑みの目で九太郎を睨み、ポンは牛に向かって石を投げて悪戯をしている。どうやら牛をなんとか興奮させてレーダに追い打ちをかけたいらしい。
「お金、ないと買えませんよ?」
それを言うならばそもそも喫茶エル―ロは香辛料や酒を外に売ったりしない。つまりその事が意味するのはこういうことだ。
「馬鹿か、何のためにお前を行かせると思う?そうだ。お前の体で払ってこい。」
「か、らだ?へ?」
情けない声が漏れ、ついに振り向いたレーダ。それと同時に滑らかな黒い毛並みの牛がポンや双子の居る方に鼻を向ける。
「やば」とメアリが呟いたときには遅かった。いつの間にか九太郎の下種な台詞に気を取られ、彼女は手綱を離してしまっていた。
「ひっ、いやあああ!!」と、咄嗟の事に頭を抱えるレーダ。さっさと逃げればよいものの、体が硬直してしまってただ丸くなっている。
が、牛はそれほど速くない。むしろ緩慢にのろのろと歩くだけである。それを見て、
「あの、さわっていい……です?」と、レアがびくびくしながら九太郎に上目遣いで聞く。その隣でフィアもこくこくと頷いている。
「勝手にしろ」と、ぶっきらぼうに答える九太郎。双子は双子らしく同時にお辞儀をし、レ―ダの傍で雑草を食んでいる牛の下に駆け寄り、脇腹の辺りを撫で始める。
そんな微笑ましい光景の最中、一人命乞いをするかのように騒ぐレーダ。
「た、助けてください。お願いしますっ!ねえ、ポン、メアリ、九太郎さん!早く、早くしてええっ!」
「かわいいねえ?」「ねえ?」
蹲るレーダの周りを双子がはしゃいで駆けまわる。それを見てメアリとポンが視線を通わせ吹き出す。いや、誰が笑わずにいられようか。九太郎も直視に耐えないといった様子で下を向いて体を震わす。
「い、いま、何か当たりました!当たりましたよっ!ねえ!みんなどこ!?……もういやぁ……。」
ついにレーダが駄々をこねる子供ように泣き出す。牛はもう見かねたメアリによって遠くに離されているにも関わらず、彼女は一向に顔を上げない。
「よし、助けてやる代わりに精一杯カルロスに媚び売ることを誓うか?」
「ち、誓います!誓います!だから早くぅ!」
レーダが自慢の黒髪とピアスを激しく振りながら頷く。何もないところで一人で膝を抱え泣く彼女の姿はあまりに滑稽だった。メアリもカルロスならそう悪いようにはしないだろうと信頼しているので、あえて九太郎を止めるようなことはしなかった。
「屠殺業者も一緒に呼んできて貰えばいいんじゃないですか?」と、ポンが冷静に九太郎に提案する。
「そうだな。それも頼もう。」
九太郎はレーダの腕を取って無理やり立たせる。すると彼女は全体重を投げて九太郎に抱きつきながら彼の胸を何度も叩いた。
「バカ、バカ、バカ、バカ!私のこの顔が牛に汚されてもいいんですか!!?」
その言葉にポンもメアリも首を傾げる。
「なんで顔?」と、メアリがポンに聞くが、ポンもまた不思議そうな顔をしながら、さりげなくレーダの足首辺りを蹴って九太郎から体を離させようとしている。
レーダは一頻り恨み節をぶつけた後、孤児院の少年で、男子のリーダーを務めるケニーを連れて丘を降りて行った。不機嫌そうなレーダに、役得だと思って勇んで参じたケニーも怯えて可哀想なぐらいだった。
レアとフィアはまだ牛と戯れてきゃっきゃと声を上げている。それを九太郎は遠巻きに眺めながら、傷になった額を擦って言う。
「それにしてもメアリ、お前やっぱりすげえな。」
「あ?ああ、まあね。それぐらい。」
メアリは褒められるのが苦手だ。座って地面の雑草を引き抜きながら適当に相槌を打っている。
「それで、やっぱり王国軍に入るのか?」
九太郎が少しだけ真剣さを帯びた声で訊ねる。メアリはちらりと九太郎の横顔を見て、
「いや……多分入らないよ。女王には申し訳ないけど。あれは駄目だ。特に竜騎兵隊。貴族のやつらばっかりでまるで使いものにならない。そこらへんの兵卒の方が全然やるよ。」
それもそうだろうと九太郎は納得する。そもそも士官自体貴族の集まりだ。その中でもいわゆる「騎士」を専攻するものは、歩兵や砲兵を専攻するものより遥かに貴族の割合が高い。ましてや一般の兵卒なんてものは荒くれ者の巣窟。犯罪者もいれば、軍隊に入らなければ生き残れなかった者、僅かな昇進の可能性に賭ける者、いずれにせよ貴族とでは気骨が雲泥の差なのは明らか。
一方、メアリ・アボニーは竜騎兵として天賦の才を持つ。騎乗の能力と、馬から降りた時の白兵戦の強さ。銃剣の扱いにも長け、平野ならまだしも、密集した市街戦などでは彼女の右に出る者はそういない。
そんな彼女相手だ。名誉を求めるだけのひ弱な貴族連中が適う理由がない。
「王国軍に入らないならどうするんだ?俺との約束はどうする?」
王国軍に入れば後は自由に生きて良い。それは九太郎とメアリが五年前に交わした約束だった。
「まあ、いろんな聯隊からヘッドハンティングというか、青田刈りというか、お声がたくさん掛かってて、領主どもから引っ切り無しに手紙が届いているわけよ。契約金も信じられないくらい弾んでくれて、軍への違約金を払ったとしても多分一生暮らしていける額。それに昇進だって早い。なあそれじゃ駄目か?いいだろ?」
メアリは迫るように九太郎の説得にかかる。なぜなら、厳密に言えばそれは九太郎との約束を反故にしたことになるからだ。確かに領主が私有する軍隊でも王国から要請があれば契約という形で王国軍に編制される。が、常備軍でないことは間違いない。ゆえに詭弁だと跳ね返されてもおかしくない、そう思ってメアリは畳みかけるようにして相談した訳である。
手を合わせ懇願するメアリに、しかし九太郎は興奮を抑えた声で即答した。
「…………最高じゃねえか。」
メアリはその言葉に気が抜け、まじまじと近くに迫った九太郎の顔を見る。
「おい、すぐだ。すぐ契約しろ。退学しても良いぞ。そしてその金を半分、いや三割で良い、俺にくれ!!」
……予想通り。
と、メアリは心の中で苦笑する。なんて単純な価値基準だろう。本当に愚かな父親だ。
そう馬鹿にしながら、しかしメアリは安堵していた。
……そうだよ。私の思った通り。これが我が家の糞おやじだ。
メアリの脳裡に昼間の男の姿が浮かぶ。九太郎を王女殺害の犯人だと言い、あまつさえ海賊だと言った王国軍の男。やっぱりあり得ない、とメアリはその記憶を振り払う。
興奮する九太郎が何かを言っていたがあまり耳に入らなかった。が、最後の質問だけははっきりと聞こえてきた。
「で、お前は軍を辞めたら何するんだ?」
当然想定されたその問いに、メアリは意味深に指を振って見せる。
「ひ、み、つ。に決まってんだろ!もう絶対にお前に金なんて渡さねえからな。何するにしても糞オヤジにだけは教えねえ!」
メアリの勝ち誇ったような、晴朗とした声が孤児院の裏手に響く。
運動場では薪に火がくべられ、その周りに暖を取る子供たちの輪が出来る。そして早く肉が食べたい彼・彼女らの手持無沙汰をサールの「ベオレッタ」の演奏が埋める。普段演奏するツェーロとは違って小振り、顎と肩で支えて弾くベオレッタは弦楽器の主役である。
ツェーロと比べてしまえば数段落ちるサールのベオレッタ。それでも旋律を奏でる心地良い高音域の音色が、皆の空腹を忘れさせ、人の目に夜空を水晶の輝きに変えて見せた。