再会
丘のベンチでワイドと別れた九太郎は一人教会へと向かう。『ラゴナ孤児院』という通称をワイドはどうやら嫌っているようだが、その一方で便宜上致し方ないと半ば諦めてもいるらしい。
九太郎は多少の冷たい視線を覚悟しながらポンとロッドを呼びに行く。そろそろレーダを娼婦街に迎えに行かないと夕食が間に合わなくなる時間だった。
陽はもう己の熱に溶けたかのごとくひしゃげて朧、さすがの九太郎も肌を締めるような寒さに耐えきれなくなってきた。
街を展望する見晴らしの良いベンチから林道に入る。仰ぎ見れば林冠の僅かな隙間に橙となった空が見え、そうして上を向いて歩いていると根方に躓いて一人苦笑する。
野鳥の囀りに導かれながら土を踏みうねる道を行く。そうして最後に緩やかな坂を登り切れば、木々の連なりもようやく途絶えて視界が広がる。
均された広い運動場、正面奥では教会が時を刻み、右手には教会と垂直に宿舎が二列並んでいる。
――ラゴナ孤児院。
教会は木造建築になっており、その周辺を数人の男たちがうろついている。王国で木造の教会というのは極めて稀な例だが探してないこともない。特に王都では大火でほとんどの建築物が焼失した歴史があり、それ以降木造での建物の建築は禁止となっている。ゆえに現存しているのは何世紀も前に郊外で建てられたものがほとんどだが、ラゴナの丘の教会は当然新築である。
当初は石造りであった教会をそのまま修繕する予定であったが、孤児院を新たに設置するために費用も資材も全て使い尽してしまったのである。支援者からすれば詐欺同然の行いだったが、それもワイドの巧みな口車と手腕で諫められた。
王都を席巻する懐古主義の芳醇な薫香を支援者たちに匂わせ、木造建設があたかも正統かつ美的観点からも優れていることを説いて見せた。あるいはそこでワイドは九太郎の名を借りたかも知れない。まだその頃の王都では芸術家としての九太郎の名は力を持っていたのである。
いずれにせよ、やはり口八丁手八丁のワイドはあまりにも本来の神父の在り方からかけ離れていると九太郎には思われてならない。
アーチ状の門が九太郎の前に聳える。二本の丸太を地面に刺して簡易に造られた境界線。そこにはおそらく孤児院の子供たちが描いたと思われる『ようこそ』の文字が色彩豊かな花や笑顔で囲われている。
九太郎は自然とその門を避けて通り、運動場の真ん中を教会に向かって直進する。堂々と闊歩するその男の姿はおそらく孤児院のどの位置からでも目立って見えたことだろう。不意に子供たちと鉢合わせてしまったらどちらの得にもならない。九太郎は自らの存在を顕示してそれを避けんとした。
宿舎の前では十数人の子供たちが鍋の前でパンを片手に持って並んでいる。身長順に綺麗に整列しているのは、孤児院がおおよそ縦割りの班構成になっているためである。
その列の内の何人かが九太郎の姿に気づき、囁き声は幾重にも重なって騒めきとなる。一番年長者であると思われる少年がそれを制しようとしているが、腕やら脚やらに子供たちが巻き付きお手上げ状態である。
「ちょっとうるさいっ!黙らないと鍋引っ繰り返すぞこのやろぅ!」と、一人背の高いエプロン姿の女性がお玉を振りかざして叫ぶ。ちょうどロッドを女性にしてそのまま縦に伸ばしたような北国特有の金髪碧眼。ルーツが同じということでロッドにも慕われている孤児院の寮母。
――アリサ・フラナリー。
彼女自身もまた、ワイドが孤児院を開くまえからこの教会で養育されていた孤児であって、今はそのワイドの下で100人に及ぶ子供たちの面倒を見ている。
年のころは九太郎とワイドの丁度間といったところ。その彼女が子供たちを叱りながら九太郎に軽く会釈して、またすぐに配膳作業へと戻る。
九太郎が教会に近づくと、大工の棟梁であるロータスが木屑を払いながら近づいてくる。
「お前さんがこんなとこに顔だすなんて珍しいな、あんま子供たちビビらせるなよ。」
「来たくて来たんじゃねえよ。……それにしても素人目にはもう完成しているようにしかみえねえな。」
九太郎が教会をまじまじと見つめて言う。大きさの異なる茶褐色の三つの家が小さい順に縦に並んでいるような形。しかしその外観に反して、おそらく中に入れば奥まで壁はなく、直線の身廊が伸び祭壇がある、王国でも一般的な教会の構造となっているのだろう。
「まあ、そうなんだ。今はちょっとした練習がてらのお遊びってところだな。」
「お前信仰を疑われるぞ。」
そんな軽口を交わしてロータスと別れる。どうやら彼は孤児院の夕飯の相伴にあずかるらしく、子供たちの輪に意気揚々と加わる彼の背を九太郎が眺めていると、教会の裏手からポンが出て来て声を掛けられる。
九太郎は彼女の赤いコート姿をまじまじと見詰め、
「なんだ、お前彫ってないのか?」と、珍しく自分からポンに話しかける。
「えっと、分からなくなってしまって、あれからずっと眺めたままでした。」
ポンは落ち込んだ様子もなく淡々と九太郎に報告する。彼女のここでの仕事は教会を彩る彫刻作品を作製することである。それが教会を再建するにあたっての支援者たちからの要件の一つでもあった。それと言うのも、まだ無名のポンの作品を支援者の一人が偶然に見、いたく気に入ったからだと、九太郎はワイドから聞き及んでいた。
ポンの作業場は教会の裏にあり、こちらも木造で、最低限の雨露を防ぐことだけを目的としたような簡易なものである。先程まで九太郎も居た双子の秘密基地はそのもっと奥にあって、新しい作業場が出来たことでポンもそこを譲る気になったのだ。
今の作業場は質素だが、彫刻をするスペースだけは十分に取られており天上の高さもかなりある。おそらく夕食の準備に入る前は、瞑想するポンを他所に、孤児院の子供たちがその周り駆けまわっていたに違いない。
帰省したときはほぼ毎日、そこで黙々と鑿を槌で打ちつけ軽快な音を鳴らしているのだが、今日は珍しく自分から外に出て来た。久々の帰郷でイメージを思い出すのに手間取ったのだろうと九太郎は推し量る。
「ロッドはどこだ?」
「夕食の調理を手伝っていたはずですよ。私が呼んできましょうか?」と、ポンが九太郎の表情を窺って言う。が、その問いに選択の余地はない。九太郎が宿舎に一歩でも足を踏み入れようものなら、子供たちの容赦ない嫌悪の視線に四方八方から晒されることだろう。
ポンはそれほど孤児院の子供たちに嫌われていない。特に年少の子たちには、その頬に咲く薔薇がとても魅力的に見えるらしく、彼女もまた九太郎のことさえ絡まなければ面倒見は悪くないのだった。
自業自得の九太郎本人よりも、ポンの方が彼に刺さる視線と悪評とを気にしている。
九太郎は素直にポンに甘えることにした。
ポンがロッドを迎えに行っている間、九太郎は彼女の作業場に入って進捗を確かめ、それからまた教会の前に戻り地面に寝転がる。
初冬の風の匂いを九太郎は愛してやまない。ただ冷ややかというだけで他の何物も含まず、木々も花々も、夏のようにその息遣いが耳に粘ついて聞えることもない。頭は冴え、体は常に緊張した状態に置かれる。それがなんとも心地よく、九太郎の心に安息をもたらす。
俄かに孤児院の入り口、例の門がある辺りが騒がしくなる。九太郎は体を起こし視線の正面、運動場の向こうに子供たちが人だかりを作って集まっているのを見た。
誰かが孤児院を訪れて来たことは明らかだが、すでに日も落ちていて暗くよく見えない。九太郎は誰が来たのか気になったが、それでポンの気遣いを無駄にする訳にもいかない。大人しくその場で待つことに決めた九太郎の下に、誰かが運動場の真ん中を突っ切って向かってくる。それはポンでもロッドでも、ましてやワイドや双子などでもなく、長い金髪を振り乱して走るアリサ・フラナリーの影だった。
「なんだよアリサ、そんな急いで。」
「キュー、あんたに客よ。ほら!さっさと歩け、この愚図。」と、アリサは天使の様な風貌で荒々しい言葉遣い。が、彼女もまたレーダやカミラとともにエルターニャを代表する傾城であり、王都でもその名は有名である。特にエルターニャではレーダが家を出たことによってカミラと男どもの評価を二分しており、どちらが好みか、酒場では外せない話の種である。
「なんだよ、誰が来たんだ?」
「行けば分かる、ごちゃごちゃ言うな!」
「相変わらず乱暴だな、お前は。だから嫁の貰い手がいねえんだよ。」
「……うっさいなあ!この愚図で能無しのすかぽんたん!足ぐらい速く動かせないの!?」
アリサが九太郎の尻を蹴り上げる。足癖が悪いのもまたアリサの欠点である。が、それにしても尋常じゃなく慌てた素振り。よほど来訪者はお偉い人物か問題のある奴なのであろう。
団子状になった人だかりの、後方に位置していた子供たちが九太郎とアリサの接近に気付き道を開ける。母親役のアリサの威厳と、九太郎への嫌悪。二人合わさって子供たちは為すすべがなく、一人、また一人と来訪者から剥がれれるように離れていく。
「なんでここにいるの?最悪。」「さっさと出てけよ。」「しっレアちゃんとフィアちゃんもいるんだよ。」「怖いよぉ。」「大丈夫だから、ね。」
あからさまに九太郎を睨む年長者たちとそれを嗜める者、怯える小さい子とそれに寄り添う者。その組み合わせがいくつも出来、遠巻きに九太郎とアリサの動向を監視している。
体に絡みつく幾重ものそういった視線と声に九太郎は足を取られる。巻き付いてはそれを千切って振り払い、また絡みついては痛みと共に逃れる。一歩進むたびにその切れた糸から生温かい血が流れるようで、それは自分の血であると共に相手のものでもあるようだった。
罵倒の声は窄めば窄むほどよく聞こえてくる。無関係と切って捨ててくればいい。その男が自分とは根本的に違う存在と決めつけて安堵すればいい。もうどうにもならないのだと諦めて欲しい。
しかしそういった大人の蔑視とは異なる、何もかもを一旦自分の領域に受け入れなければ気のすまない子供の、同じ平面上の容赦ない感情に九太郎は酔ってしまう。
誰がそこにいるのかは分からない。けれどもその顔を見る前に精神が悲鳴を上げて逃げてしまいそうだった。
九太郎は周囲の子供たちを冷徹に睨む。怒りと怯えがまた同時に子供たちの顔に浮かび、それが相殺されて沈黙が生まれる。
いつからこの醜い負の連鎖の中に己の身を置いていたのか、九太郎にはもう振り返ることもできなくなっていた。間違いなく現状は自分の意図したようになっている。達成すべき目的のため、それも全くもって利己的な理由から人に疎まれるよう振る舞い続け、その目論見はおおよそ達成されたと言って良い。それなのに……それにもかかわらず……。
……なんて脆弱なこの心なんだ。
九太郎はこうして嫌悪の情を向けられることに酷く怯え、それだけならまだ良い、あまつさえ憎しみすら抱くようになっていた。
こんな理不尽な憎悪があるものだろうか。
自分で蒔いた種が花開いたとき、それを邪魔だと言って毟り取ろうとする奴があるか?
子供たちが九太郎を蔑むのは、罵倒するのは、忌避するのは、一点の矛盾もない当然のことなのだ。それをこうして睨み返す自分は、きっといつからか本当に人非人になってしまっていたのだろう。
ワイドもメアリも、レアもフィアも、そしてこの子供たちも、何も間違ってなどいない。九太郎は演技などではなく、本当に、精神の芯から、自らの過ちによってならず者に成り果てていた。
人垣がその最後まで裂けて道が出来る。見上げた前方に聳える門の内側には、やはり『さようなら』とたどたどしい筆致で書かれている。
その真下に人影がある。
九太郎が足を止め目を凝らすと、紺碧の髪が月光に濡れて絶え間なく瞬き、その様が時間を引き延ばして心に迫る。心象に刻み込まれたその姿。それから掠れた息遣いに鐘をついたような声が重なって、辺りに横たわる静寂を裂く。耳で捉えられぬ倍音を含んだその声に、九太郎の記憶は主の許可なく弄られた。
「……九太郎。」
短髪の少女が毅然とした立ち姿でこちらを見据えている。その背には自分の体と同じくらい大きな鞄を背負って、そのために豪奢な衣服が縒れたり突っ張たりしている。
「……サール…なのか?」
冴えて透徹とした一陣の冬風が二人の間を行き過ぎる。目を見張る九太郎と、それを見咎めるように睥睨する少女との静寂に包まれた邂逅に、そこに居る誰も割って入ることが出来なかった。
先程まで九太郎を誹そしっていた子供たちだけでなく、アリサも、そしてサールの背後に隠れるように付いて来ていたレーダやメアリもその光景の前に言葉を忘れたようだった。
九太郎は視界に入っているはずの自分の娘たちにも気づかず、ただ忽然と眼前に現れた少女に立ち竦んでいる。それから緩慢に持ち上げた手が口と鼻を覆い、震え始めた自分の顔に自ら怯えるようだった。
…………本当に来たのか。
九太郎は王立管弦楽団とサールがエルターニャに来ると聞いたとき、その意図をすぐさま察した。
王女を殺した自分。そんな大罪人に与えられた猶予の期間は終わったのだと。
本当であればもう五年前のあの時に、王都で衆目に晒されながら首を跳ねられているはずなのだ。しかし全てを隠蔽するために、九太郎の処刑は秘密裡に行われることになった。そしてそれだけでなく五年もの執行猶予が与えられた。
――生きて、見届けなさい。そして完遂なさい。彼女の為さんとしたことを。
女王の恩赦。自分の娘を殺した男に与えた許し。
九太郎が既に目的を達しつつあることなど、王室には筒抜けということなのだろう。あまりにもタイミングが良すぎる楽団の慰問演奏会。
……女王のばばあ、本当に粋な計らいをしやがって。
九太郎の命を奪うなど、造作もないことだ。わざわざ演奏会などと偽装せずとも、数人の、いや一人の兵卒をエルターニャに送るだけで事足りる。だというのに、著名な指揮者だけでなく、サールまで。
九太郎には分かっていた。きっとこれはサールが女王に頼み込んだことなのだ。いつどうやって女王と面会して、そんな大それたことを直訴したのかは分からない。彼女が王都でこの五年、どうゆう生活を送ってきたのか、九太郎は全く知ろうともしなかった。
それでも、こうして彼の前に現れたということは、あの日の約束を果たしに来たのだ。
神の存在を、つまりは最高の美を、表現する。
…………馬鹿な奴だ。
九太郎は、ただあの幼かった子供が、こうして背が伸びて、凛々しい話し方に似合う外見になったこと、それだけでもう満足してしまった。
その成長した姿が、九太郎に死の覚悟をさせる。
……もうこれで本当に、大丈夫。そうだろ?エリザベート。
サール・カシラスは僅かばかり憐れむように眦を下げたあと、また超然とした顔つきに戻り言う。
「……君を救ってやると言っただろう。そんな恩人の名も忘れるほど君は腑抜けてしまったというのか?」
九太郎は腰が抜けたように膝から崩れ落ちる。
嫌われ者の、ならず者の、人に非ざる者の、そんな九太郎・ソロア・サルべードの人生がここにようやく終わる。
善良な人間が悪人を演じること、それは大して難しいことではないのかもしれない。なぜならその動機は絶対に善良な心に起因しているから。
それではもともと大して良い人間じゃない者が悪人を演じたらどうなる。愛情など持たぬ相手に、なお一層辛く当たるなど、空しいなんてものじゃない。
愛があるから、辛辣にもなれる。興味も感心もないのに、ただ約束のためだけに皆に、そして家族に嫌われる。
……本当は愛してたんだ。だからお前たちのために……。
そんな切口上のような文句も使えない。九太郎はただ、もしかしたら愛することが出来たかもしれない妻、エリザーベートとの約束、それに縋っていただけだ。そうすれば自分も彼女のような、愚かな、愛すべき善人になれる気がしていた。
そんな利己的な理由で、毎日酒に溺れ、女を買い、子供に辛辣に当たった。
……醜い男だ。余りにも。余りにも。
隣に立っていたアリサが慌てて彼を起こそうとしゃがみ込むが、それを遮るように、そして誰も彼もが、自分たち以外はここでは無関係なんだと宣言するようにサールが声を張る。
「他の誰の前で無様を晒していようが私は頓着しない。だが、この私の前で、他ならぬ君自身が君の品格を貶める様な態度は取るな。分かったならさっさと私の手を取れ。」
「……サール。」
「……そしてお帰りと言ってくれ。お前にその言葉を貰わなければ、この地はいつまでも私の故郷にならないじゃないか。」
エルターニャ公国の遺産とでもいうべき少女が、瞑っていた瞳をゆっくりと開く。夜空を隠し秘めたような深奥の異彩に孤児院の子供たちの視線は奪われた。
「……おかえり。サール。」
「ああ、遅くなったな。九太郎。」
サール・カシラスはコートのポケットに手を突っ込んで、全く詫びる様子もなくそう言った。