interlude 7 約束―empty―
――『エルターニャ派』
写実でも象徴でもない。主観でも客観でもない。合理でも非合理でもない。それに加えて美を、真理の蘊奥を、追求する訳でもない。
ただ、美の痕跡を表現しようとする芸術集団。
その思想は繁栄と芸術を一挙に失った元公国の表現者たちを席巻した。
王女卒去による王国軍の介入と、それに対するエルターニャ公国政府の弱腰の姿勢、それに憤った公国の『名無し』たちによる蜂起。いわゆる一連のエルターニャ事変は波及的な影響力など持たず呆気なく鎮圧され、後に残ったのは、大半の貴族、特権階級が去って『名無し』ばかりがその日暮らしをする荒廃した街並みである。宝石のごとく複雑な輝きを湛えていた芸術の街は、王都にそのお株を奪われ、かつて形而上的な思索に明け暮れていた者達は去り、あるいは挫折し、莫大な税金を納めるためだけの労働者となり果てた。
『目に見えるものをそのままに表しては、この街は芸術に耐えられない。それではこの無残な有様を何かに例え、抽象とするか?それもまた偽である!』
街の中心、エル―ロ広場に集積された瓦礫の山。その中にはかつて街を見守っていた彫刻やら銅像の顔もあり虚ろな視線をあちこちに投げている。
風に粉塵の舞うその山の頂に立ち、大きな身振りで四方の街路に集った民衆に問いかける男がいる。彼の眼前には、エルターニャに残った一部の貴族・聖職者・特権階級、そして『名無し』とそれに準ずる者、全ての階級の公国民が集って隙間なく寄り添い合っている。
その職業すら千差万別。芸術家のみならず、手工業者、職人、法律家、農業従事者、女中、あらゆる職に従事する者達が、一人の画家の声に耳を傾ける。
あるいはそれも冬の日だった。あちこちで薪に火がくべられ、その煌々と燃え上がる様は、さながら因習による生贄の儀式でも行うような光景。
『荒廃して人が人倫を忘れたのを良いことに、神を捨て徹底的に醜悪な美を求めるか。それも一時の余興でしかなく、底の見えた偽である!』
清聴と喝采、男をそこから引きずり降ろそうとする者と、それを阻止しようとする者。神の御足に縋るようにも、煉獄から這いずり出るようにも見える民衆の蠢き。
『夢を夢のように描いて何になる!夢を忘れてこの現実を描いて何になる!』
男はそんな眼下のせめぎ合いなど目につかないかのように、それでもって一人一人に訴えかけるように、四方全てを見回しながら熱弁を振るう。
涙を流して崩れ落ちる寡婦と、何やら男に論駁せんと異論を飛ばす弁護士の男。
街路に接したアパートメントの窓も上げられ人の顔が覗く。さながら男は円形劇場の底に立って一人躍るよう。
『悦びは漏れる吐息にこそある!涙は頬を通う路にこそ哀しみを表すのだ!』
男の思想を理解したものなど聴衆の一割にも満たないだろう。しかし、エルターニャ事変からその時まで、誰が彼のように己の主張を声高に、恐れずに、捲し立てることをしたか?誰が先の見えぬ未来を雄弁に語ったか?皆が処世の方途に頭を悩ます中、誰が糊口を凌ぐのにまるで役立たぬ理想を喜々として叫んだか!
『過去に価値を求めるな!過去はただ過去であるということのみを以って、この現実を覆う霞となるっ!』
男は酒瓶に入ったラム酒で気付けをするようにして、ふらつく度に隣に立つ短髪の子供に体を支えられている。
十字路それぞれの民衆の背後には王国軍の者達が詰め寄り包囲する。再度『名無し』を中心として公国民が決起することを危惧してのことだ。
だがしかし、男の論旨はまるで違った。
彼がまた自分の足で立って民衆を鼓吹する。
『エルターニャ公国を失ったのは誰かっ!我であるっ!そして我らである!それは己でもあり皆であるところの狭間であるっ!』
また拍手が嵐のように男を襲い、彼が膝をつく。するとすぐさま男を叱咤激励する怒号が飛ぶ。
男にはもう自分の掠れた声が民衆に届いているのか、それすら分からぬまま喉を潰して叫び続ける。
『……ゆえに美の過ぎ去った痕跡を、その轍を!その残り香を!死霊を!そのままに表現出来ぬのならば、エルターニャの芸術家は皆全て美に敗れ去った敗者でしかないっ!』
夫を失った者、妻を失った者、父を、母を、友人を失った者。彼、彼女らの記憶の中にある愛した者達が、何よりもその迎えた死によって無上の美となりこの世に残る。
体を、感情を持つ者達には至れない至高の美。死はそこに辿り着くための唯一の通行券なのである。
ただかんばせ麗しい女性を、均整の取れた肢体を持つ屈強な男を、市井の者たちの貧しい生活を、絵筆に任せて描く事。情緒溢れる絢爛な音楽も、技巧に富んだ演奏も、個人の心象を通して詩に乗せたあらゆる感情や風景も、そういった普遍的な価値は全て偽であると断罪する男の思想。
『何もかもが、その物の持つ固有の形と本質とを一挙に失った後にしか美しく咲かない。ゆえにこの世の全ては徒花である!意味も、真実もない。全ては偶然で表層でしかない。』
『死んだ者の、その死の意味を問うてはならない!その意味は無限で深淵で魅力的なものに君たちには思えるだろう。なぜなら彼らは大儀に抱かれて死んだのだから!生という絶対の目的を離れた行いだったのだから!…………しかし、やはり私は無意味だったと言う!なぜならば!なぜかと問うならば!それはひとえに、絶対的に、個の体験であるからだ、死んだものだけがその最後の瞬間に、永遠に繰り返し体感する意味と美だからだ!それをこの世では何と言う?それこそが蓋然性ではないかっ!絶対的に固有のもの、それこそがこの世を統べる蓋然性そのものじゃないか!そこには普遍的な美しさなんて微塵もないのだ!』
男の語気はここに来て一気に弱弱しいものになる。何があったのか、もう終わりか、と聴衆たちも徐々に声を潜め静観する。
男は迷子の子供ように目線をふらつかせながら、悲哀に満ちた声で語りかける。
『…………ならば私たちはこの思いをどうすればいい?…………その甘美な死の味はどうしたって分け与えては貰えないのだ。なぜならそこに居たのは彼らであって私たちではないからだ。』
遠く澄み切った冬空に、遠い人影を望むかのように、男は膝を地につけ慟哭する。
『真に皆に平等なのは、ただその痕跡である。人の生きた跡、花の咲いた跡、さざ波の音の跡。その印象は各々によって違うだろう。波の音に郷愁を感じる者もいれば、旅愁を感じる者もいる。しかし、それが過ぎ去った跡の印象であるという性質は変わらない。ゆえに、ただ、美しくあれ。ただ皆の胸の中でのみ美しくあれ!……それ以外に求めるものはなく、この真実という確固とした足場のない、ふらついた生を、共に生き抜こう………。』
男は確かにそう言ったのだ。
去った者たちの、その死が無意味だと言われ激高した遺族の中にも、自分の記憶に手を差し伸べてみる者がある。そこには愛した者たちの美しい顔が浮かんだ。やり場のなかった哀しみが、ここにおいて真の哀情となって腑に落ちる。
男はもう一度、最後の力を足先から絞り上げるようにして叫ぶ。
『高邁な精神を把持するエルターニャの者達よ!ここに宣言する!私は現実も夢も求めず、ただ在ったものの軌跡を表象することだけに全ての膂力と時間を費やすことをっ!そうして我らもまた生きたまま死霊となってこの身に美を体現するのだ!!!』
男が瓦礫の演壇から降りるまで、公国の国歌を斉唱する者、喧嘩を始める者、誰かに肩を抱かれながら慰められる者、そこにはあらゆる感情が満ち、ただ衰退を憂うだけの者は去り、確かにそこに生きる者たちの姿があった。
堆積した瓦礫の上に立って、全ての民衆に対しそう宣言した芸術家が、つまり九太郎・ソロア・サルべードである。
それが五年前の冬、彼が妻を失って数か月後のこと。
しかし現在における彼の世間的な評価は、『エルターニャ派の旗手』としてではなく、斬新な風景画作品による、絵画の正統的な発展への寄与にある。
新たな多数の色材の発見と、その材料の特質に合わせた、淡い色彩で幻のように描かれるエルターニャの自然。
多彩な色使いの中でも、就中、青系統が別格の美しさで、それを称賛して「サルべード・カエルラ」などと言われている。
このような画壇への貢献を尊重する者は、かの『エルターニャ派』なるものを無かったことにし、そうでないものは徹底的にこき下ろす。
作品あっての派閥でなく、名付けられたものの生まれ落ちなかった、流産の子が『エルターニャ派』であった。
演説の終わった後、九太郎は同朋たちに守られ背に数多の声を浴びながら、しかし誰ともその興奮を共有することなく、遅々とした歩みで広場を抜け、遁走するように海岸への道を辿る。
街路を封鎖していた王国軍は引きずられるように運ばれる九太郎の顔を一瞥して、道を開ける。
九太郎は数歩ごとに立ち止まり、前屈みになって口を押える。ただ胃液だけが際限なく溢れ、唾を吐く。
瓦礫の壇上にはまた別の者が立ったらしく、石畳から拍手の震えが伝わってくる。
九太郎の丸くなった背を、幼さのまだ残る少女が優しく擦る。深い青の混じった髪と、透き通る蒼海の色を秘めた瞳。まだ輪郭も締まっておらず、小さな顔には不相応なその代物を少しだけ揺らしながら。
「――パパは大嘘つきだ。」
「……はあ、はあ、あ?嘘じゃねえよ。」
地に四つん這いとなった九太郎は首だけで少女を見上げる。白い太陽の影になって表情は窺えないが、どうやら少し泣いていたらしかった。
「いや嘘つきだ。だってパパはもう絵は描かない。」
その言葉に九太郎は反論しかけて、また地面に顔を伏せる。
「…………こんだけ大言壮語してやらなかったら……殺されちまうかな?サール。」
九太郎は子を励ますように笑ってみせるが、すぐに口を歪め嗚咽を繰り返す。少女は何度か小さく頷いて、
「そうだな。……まあ、そんな価値もないほどのならず者になればいい。そうしたら誰も見向きもしない。」
「……だろ?それに関しては一つ考えがあるんだ。」
「きっとパパが言うのだから碌でもない案なんだ。いいよ、最後まで付き合う。そうしないとママに叱られそうだからな。」
サールは九太郎の首を抱くようにして互いの髪を絡み合わせる。彼女が九太郎にこうも子供らしく、言動は大人ぶりながらも、甘えたのは初めての事だった。
しかし、九太郎はその体を優しく押し退け、地面に胡坐を掻いて座る。
「いや、お前はエルターニャから出ていくんだ。」
その言葉を聞き、九太郎とサールを囲っていた同朋たちが去っていく。後には遥か後方の喧騒とは無縁の、虫の声一つしない廃墟の狭間に残された親子だけが残された。
鈍色の雲がエルターニャの街から陽光を拭い去るように広がり始め、人の表情の抑揚すら奪う様だった。
「え?……どういう意味だ、パパ。何を言ってる?別に今更レーダさんやワイドさんと一緒に暮らしたいなんて言わない。今のままでいいんだ。偶にパパが来てくれればいい。それだけでいいんだ。」
「駄目だ。認めない。」
「パパ……?パパは今、私が傍にいないと駄目だろう?」
「お前、まさか俺が傷心しているとでも思ってるのか?」
「ああそうだ。」
「んな訳ねえだろう。エリザベードが死んだくらいで。」
「…………そうじゃないよ。そうじゃないんだ。パパは自分に失望してる。ママが死んだのに、それにも関わらず、求めた物が得られなかったから。」
サールは激しく首を振りながら九太郎の顔に自分の瞳をぶつける。これは分水嶺だ、しかも何か大きな事の前の、重要な分岐点なのだと、サールは九太郎の表情に見て取った。
九太郎はそんなサールの頭を殴りつけるように撫でまわして言う。
「お前はやっぱりあの馬鹿兄妹たちとは一味違うんだな。」
サールは脳裡に二男五女の、深く母親に愛された兄妹の顔を並べる。サールは彼女たちが苦手だった。ほとんど会ったこともない。今まで自分が居た場所、九太郎とエリザベートの真ん中を彼女が兄弟たちに譲ったのだ。
……私は1人で生きてゆけるから。
そう九太郎に告げて、彼の下から離れた。だから、今回もそうしなければならないのだ。彼が王都に行けと言うのなら、喜んでそうしなければならない。
そうであるはずなのに、どうしても九太郎を一人にしたくない。その思いがみっともなく口をついてでる。
「愚かであるほど愛おしくて、羨ましいものはないよ、パパ。パパだってそう思ってるんだ。この疎外感はとても苦しい。いつも何か硬くて、とてもよく滑る珠を素手で殴っている様なんだ。その中にいくら割って入ろうとしても肩透かしを食らって、転んでしまう。だから、私はあの兄妹が嫌いなんだ。この気持ちは、あの甘ったれな奴らには分からない。」
いつも冷静で、子供にあるはずの感情の起伏のないサールが珍しく嫌悪の情を隠さずに吐露する。
「エリザベートもきっと、その中にある物を知っていたんだろうな。だから、あいつの傍にいれば、俺だって、それを知ることが出来るはずだと、そう、甘く考えていたんだ。あの家族の中にいれば、俺も……。」
「だから、私はパパと一緒にいるよ。」
サールは今度は正面からゆっくりと九太郎に抱きつく。立ち昇る煙を逃がすまいとする、可愛い子供の児戯のように。
九太郎はその背に腕を回す代わりに、サールの軽やかに外に跳ねる髪を耳にかけ、露わになったその小さな耳を引っ張る。
「いや、それは余りにも役不足だ。お前は王都でその才能を尽くせ。いいか、一分だって楽をするなよ、お前はただツェーロを弾くためだけに全てを捧げろ。幸せなど求めるな。いいな?」
摘まれた耳を抑え、薄い唇を戦慄かせて、サールは、
「…………それが、何になるんだ。何にもならないだろう?」
「生きることが出来る。そして、誰かを生かすことが出来る。」
「芸術は、そんな下らないもののためにあるのか?」
「俺はそうは思わない。生きるなんてことはやはり下らない。真実を求めることが、神を求めることが、芸術家の全てだ。」
それは九太郎が息巻いて論じたはずの、血の滲んだ芸術論とは矛盾することだった。そんなものはないと、彼は言ったはずなのだ。
「…………でも、生きるべきは、俺じゃなくてエリザベートだった。俺は子供だ。余りに子供で何も見えちゃいない。そういう奴に限ってこの世にないもの、経験できないものを馬鹿みてえに求める。あいつは、何もかも知っていた……人を、誰かを、本当に思うということを。だから、あいつは幸せだったんだ。でもその幸せが、俺には分からなくて、下らないものにしか、見えねえんだ。……なんでだよ、なんでなんだ!……芸術なんて、思想なんて糞くらえだ、糞くらえ……くそがっ……。どうして、俺は、分からねえんだ……。」
九太郎は前髪を両の手で毟り取るようにしながら、どうしようもない絶望を子供のサールに見せつける。
それはきっと一人言だったのだろう。しかしどんな言葉よりも辛辣にサールの胸に届く。お前はこうなるな、九太郎は間違いなくそう言っているのだ。
サールにとって音楽とは銀の匙だった。生まれた時からその手に握られていた才能。疑いもせずにそれを行使し続けることのできる情熱と愛情。
私には人に見えない物が見え、聞こえない音が聞こえる。それを人は審美眼と言った。
しかしサールにとってそんなことは問題ではなかった。
……神はいる。
その確信は刷り込まれた教義のためでも、ましてや子供の世迷言でもない。ただ彼女の卓抜した才能によって、その存在の影が音楽の中に写り込むのを見ただけだった。
その確信はしかし、ただの錯覚かもしれない。が、サールにとってはこの世が存在するのと同じ程度には確からしいことに思えた。
「パパ、神はいるんだ。絶対に。パパは間違ってない。」
サールは目の前の男と、そして自分を救済するために言う。そうでなければ自分たちは何のために生まれて来たのか。
「…………それは天恵でもなんでもないんだ。ただ、同じ曲を、何度も何度も、食事することも、寝ることも、息をすることすら忘れて、演奏したとき、体と心が一つになって、考えていることと景色が一体になる瞬間があるんだ。そんなとき、ああ、神はここにいると、どうしようもなく思うんだ。弓を持つ手に、その手となった心に、神はいつのまにか、空っぽになった私に、入り込んでいる。だから……。」
「分かってる。お前は本当にそれが出来る奴かもしれない。だから、それは仮定なんだ。居るかもしれない。だから求める。それで良いんだ。それ以上は、きっとお前が駄目になってしまう。」
「じゃあ、パパが言ったように、この世にあるはずもない、そんな影みたいな物を追えっていうの?」
「そんなことは出来ない。出来ないから、最高の美なんじゃないか。だから、諦めろ。もっと違う事に、お前のその才を活かせ。」
無謀な子を諭す父の言葉にサールの矜誇が傷つけられる。自分の才は何かの為にあるような、そんな世俗に流通するものとは絶対に違う。
もっと崇高で、目的なんてないものの為に。
「下らないよ、やっぱり下らない!私は天才なんだ!パパの傍で、この道の先まで、一緒に行くんだ。だって、そうじゃないと、そうじゃないと、人は、ママは、救われないじゃないか。神様がいないなら、誰が、誰が……私たちはいつまで、こんなところで足踏みしなくちゃ……っ!!!ぁ、くっ……ああああああああああっ!」
サールはそこで額を地面に付けて泣き叫んだ。悔しくて、悔しくて堪らない。九太郎を唸らせ説得させるほどの奇跡を、今はまだ成就させることができない。
九太郎は1人で立ちあがり、蹲るサールの背を冷たく見下ろす。
彼女の嘆きは、およそ余人には理解の出来ぬものだ。なぜなら、彼女にしか見えていない対岸がある。そして今自分の踏みしめる地と、その対岸との間の隔絶を最も痛感しているのもまた彼女なのである。
彼女の不幸は、永遠に届かぬはずのその向こうの陸地を、蜃気楼として鮮やかに見てしまったことだ。
九太郎はその実体のない蜃気楼がこの世の全てだという。そしてそれを人の業で表現することを最高の芸術として据えながら、しかしそこには至れないと言う。
あるいは……。
ただ九太郎と一緒にいたい。それだけのことでこうも涙が溢れて止まらない。しかしそれを認める訳にはいかないのだ。
九太郎はもう歩き始めている。そして数歩先で立ち止まり、後ろを振り向かずに言う。
「王都に行って王国管弦楽団に入れ。そうすればお前は晴れて貴族になれる。サール・C・カシラス。それがこれからお前が名乗る名前だ。」
「私が貴族…………?」
王国管弦楽団に入ることはサールにとってなんら難しいことではない。が、それと貴族になることは別問題だ。楽団のメンバーになれば待遇は確かに貴族級のものになる。が、名無しの生まれが消える訳ではない。
下層階級の者が貴族になる方法は一つだけだ。
「……法貴族。まさか、どれだけの金額を……?」
「俺の絵を売っちまえばそれぐらい余裕だ。そしてお前の才能があれば値切ることだって難しくない。……なあ、サール、芸術はこういう風に使うんだよ。」
九太郎は片手を肩の上に上げて、サールを馬鹿にするように横に振る。これでもう会うこともない。そういうことだ。
九太郎の命はもうすぐ尽きる。今すぐにでも、例えばすぐそこの角からだって、頭上のアパートメントの中からだって、誅殺せんとする銃弾がいつ彼の体を貫いてもおかしくない。
それは致し方ないことだ。だからこそ、サ―ルはその時まで一緒に居たかった。あの兄妹たちでは、彼の死の意味を絶対に理解できない。
だから私が……最後まで……。そのはずだったのに。
サールは垂れる涙や、鼻水を狂ったように服の袖で拭きながら立ち上がる。
……もしかしたら、もう、パパには会えないかもしれない。
「……違う。絶対に違う。九太郎の求める美しさは間違いなくある!そしてその先には神様だっている!そのことを、絶対に、この私が、あなたの娘の私が、………サール・C・カシラスが、証明してやる…………九太郎っ!その時まで……。」
その声は九太郎の背を越えて、凍てつくエルターニャの冬の空を突く。
どれだけの時間サールはそこにいたか分からない。もう既に九太郎は道の先に消え、周囲には誰もいない。
頬の熱で降る雪が融ける。手も足も凍えて小刻みに震えている。
サールは己の身を抱きながら、天に言葉を捧げる。
「歌うことのみがあなたに頭を垂れること。諧調な私の歌だけがあなたの安らぎとなる。どうか、お傍に寄らせてください。さすれば音楽は永遠に。そして教えてください。その声にならぬ調べの紡ぎ方を。」
その声は霧散して誰の耳にも届かない。
サールは強く瞼を閉じ合わせた。
「…………嘘つき。」
しかしその嘘を本当にするために、サールはまた強く歩み出すのだった。