表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/25

interlude 6 潮騒―groan―

 

 カミラは自分の店の吹きさらしになっている屋上に寝転がり視界を空で満たす。そうしていると自分は上を向いているのか、下を向いているのか、よく分からなくなってふと怖くなるのだ。


 一度起き上がって、街を見回し、またドレス姿のまま仰向けになる。


 店には今、サルベード家の長女、レーダ・キリマヴェージが来ていてアイリーの相手をしている。ちょっと顔を出した時には、二人はすでに会話に華が咲いていて、カミラはすぐに用なしとなってしまった。


 「――冬の外で吸う煙草の旨いこと。」


 カミラはパイプを取り出してふかす。


 煙草を吸うのは、今となってはもう染み付いた習慣だった。


 風に靡く紫煙が、彼女の思考を過去へと運ぶ。


 飴色の鉱物を加工したパイプや、陶器で出来たもの、金属で派手に装飾された高価なもの、これらは全て客から貰ったものである。直接口に触れる物であるから、贈り手の欲求を満たすには都合のよい品だったのだろう。


 初めて煙草を吸ったのはただ見栄を張りたいがためだった。子供と見下され、哀れみを受けながら男に抱かれるのは嫌で嫌で堪らなかった。


 血の滲む思いで獲得した暗示――『私は今この時、カミラ・コフランではない』という思い込みを、哀れみの眼差し1つで無駄にされるのはあまりに空しすぎる。どうせならそれこそ道具のように扱ってくれた方がまだ傷が浅くて済む。


 そのため「仕事部屋」はいつも煙草の煙で濛々(もうもう)と満たすことにしたのだ。壁をいぶす様にすれば匂いでもまた男を騙せる。王都で客を取るようになってからは相手に頼んで行為の前に煙草を飲む時間を貰うようにした。


 霞む紫煙の奥で意味ありげに微笑んで待っていれば自分はすぐにでも大人になれた。都合の良いことに体は同年代の少女たちよりも成熟が早かったし、染み込んだ香ばしい煙の匂いに子供と思うものは次第にいなくなった。


 ゆえに喫煙が習慣になる以前、煙草はカミラにとって商売道具であり、精神を守る薬でもあった。


 そうして年月が無情に過ぎてゆき、あえて大人を装う必要も、強引に暗示をかけることもなくなった頃、カミラは『暦に記した寿命』を全うした。


 それは誰に対しての義務感だったのか。仕事で失態を犯し、大人の男たちにさんざん殴られ、それから弄ばれて、吐き気を催すような痛みの中で死を思った日、それでもまだこの生を終わらせてはいけない、まだ駄目なんだと直感した。神を信じ、教義を守ろうとした訳ではない。ただ漠然とそれはいけないことだと知っていたようだった。


 そうであるならばいっそのこと自分で寿命を決めてしまえば良い。そうして無事にその運命の日にたどり着いたとき、何の呵責もなくこの世を去る。


 その考えに至った瞬間、自分自身で鳥肌が立つほど納得した。それが正しいことのように思え、誰もがそうすべきだとすら信じて疑わなかった。


 己の命日が決定されてからカミラは見違えるほど陽気になっていた。何度殴られようが、蹂躙されようが、楽しいことなどまるでないのに、少なからずただ無邪気に振る舞うことは出来るようになった。


 ただそれでも、一日たりとて約束の日を思わない夜はなかった。気絶するように寝る前、その日付を強く頭に念じ、自分の最後の瞬間を繰り返し想像し続ける。

 

 それはとても暑い初夏の頃だった。日の光が力を持って梢を揺らし、その木々の声が名も知らぬ小鳥を陽気にさせているような、すべての命が目覚め、内に秘めた穏やかな心が互いに交流する日。


 カミラはただただ幸せだった。道端の雑草の、鮮やかに発色する緑を見ただけで多幸感に包まれ自然と涙が滲む。空を見上げて日に沁みる瞳すら心地よく、胸がすっとく。


 煙草と体臭、それからかびと鼠の糞尿のすえた匂い。自分と男の二人だけの部屋と、誰かの嬌声きょうせい。この世がそれ以外の、ありとあらゆる美しいものたちで構成されていることを、その時初めて知ったかのような心持ちだった。


 その頃は1年のほとんどを王都で過ごしていたが、やはり最後の地は最も長い時間を過ごしたエルターニャ以外に考えられなかった。芸術に疎く、街の人間たちが何に傾倒して人生を捧げているのかは微塵も理解できなかったが、それでも、こんな自分でも、その場所に上手く紛れてしまえば美しく天へと辿り着けると思った。


 その日は前もって常連の客に公国まで来てくれるよう頼んでおいた。万が一手馴れない男を客にすれば自分の体に傷を付けられてしまうかもしれないと危惧したからだ。


 それも今さらのことかもしれない。上客を相手にする前は、体を打たれたり、血を流したりすることも珍しくなかった。その痕だって体中に数えきれないほどたくさん残っている。それでも、いや、それゆえに、女性としての矜持は最後まで捨てられなかった。


 無論、仕事をしないという選択は毛頭なかった。ただ死ぬだけの日を設けたとしたら、いったい自分の人生とはなんだったのか分からなくなってしまう。


 そうして、かつて日がな一日抱かれて過ごした思い出の部屋で最後の仕事を済まし、客とエルターニャの街を巡ってから人生の終わりの準備を粛々とする。


 所持品は全て王都の後輩たちに譲って来た。エルターニャに知人は少しばかりいるが、そのほとんどは客であり、何か言い残すこともない。


 結局手ぶらで、着の身着のまま断崖の岸壁まで来た。


 そこは以前カミラの先輩も命を絶った場所だ。公国の象徴の1つでもある煌びやかな海と浮かぶ離島。それ以上に適した場所は箱入り娘のカミラには思いつかなかった。


 靴を脱ぐか脱ぐまいか、かなり長い間思案し、結局履いたまま飛び降りることにした。頭の天辺から足先まで愚かな男たちから与えられた供物で装飾し、完璧な娼婦のまま神の御許みもとひざまず己の罪を告白する。それが良いと思った。神様はきっと全てをご覧になっていたことだろう。それでもなお、穢らわしいこの口で自ら語ることが何よりの救いになるはずだった。


 これまでカミラは誰かに弱音を漏らしたことなど一度もなかった。カミラの精神が特別強靭であったということではなく、隣に座った人もまた自分と同じ境遇であったというだけの話。カミラの知る限り、この世界には堂々と自分の不幸をぶつけて良い人など一人もいなかった。


 勇気を出して崖の下を覗くと、黒々とした波が岸壁に当たっては砕け、白く泡立ちながらカミラを待ち受けている。


 思っていたより恐怖はなかった。少しばかり足は震えているが、頭は至って冷静で、誰かに見られていないか周囲を見渡す余裕がある。


 波と岸壁が衝突する大きな音が断続的に鳴り、カミラを急かすように、あるいは鼓舞するように聞えて来る。そうして耳をゆだねていると、音の鳴る間隔は徐々に狭くなり、最後には耳鳴りのようになって頭がぼうっとする。


 足を半分だけ崖から出しては戻し、また渦巻く海を覗き込む。だんだんと自分の心音と寄せては返す波の息が合ってくる。


 「今だ」と思う瞬間は終に最後まで来なかった。けれどもよろめくように体がふらりと傾ぎ、上体が中空にせり出す。


 あまりにも呆気なかった。思い切り飛び出したり、無様に喚き散らしながら足を踏み外したように落ちるものだとばかり考えていた。


 現実はこうも淡泊に人一人の命を奪っていく。


 ……ちょっと怖いな。


 それがカミラ・コフラン最後の思念。誰も恨まず、未練もなく、およそ人の抱える負の感情の全てを寛容な心の火で燃やし続け灰にしてきた少女の憐れで小さく美しい最後。


 ――そうなるはずだったのに。そうなるべきだったのに……。


 もう少しで足が地面から浮き、体の重心がエルターニャの碧空へと預けられるという瞬間に、微かに耳に飛び込んでくる声があって後ろ髪を引かれてしまった。


 「ふざけんな!遊びに来たわけじゃねえんだぞ!」


 「ええー。いい天気だし海入ろうよぉ。」


 「俺は怪我してるから無理。入るならてめえとサールで勝手に飛び込んでろ。ほら押してやっから。」


 「ちょっと、ばかっ!やめてって…………九太郎のエッチ!」


 「うるせえ、邪魔すんなら今度から連れてこねえぞ!」


 かまびすしい若い男女の声。カミラは尻餅をつきながらもなんとか地面にしがみついた。気付くと呼吸は荒々しく乱れ、脂汗が額から顎に幾筋も流れている。死の実感が遅れてやって来ていた。足はもう自分でも気味悪く思うほど大きく痙攣するように震えている。


 崖の下はどうやら洞窟になっているらしい。辛うじて四つん這いになって顔だけを崖から突き出すと、丁度人影が二人分そこから出て来て、岸壁伝いに岩の上を渡りながら浜辺の方へと向かっていく。カミラと同い年くらいの20前後の青年と少女。黒髪の青年の方は何やら腕を布で吊っていて骨折でもしている様子。一方少女の方は大きめの帽子を被り、海風に煽られる髪は目にも鮮やかな白色、それが日の当たる加減で青味を帯びて真珠のように色が移ろう。


 少女は青年に凭れかかるようにして慎重に歩き、青年はつっけんどんに彼女の言葉に答えながら決して拒絶はしない。


 波飛沫しぶきが絡み合う二人の体に降り注ぎ髪や体を濡らす。


 「冷たーい!はははっ、冷たい、冷たい!」


 「当たり前だろ、だからまだ入れねえって。」


 「一回飛び込んじゃえばいけると思うけどなあ。」


 「死んでもしらねえぞ。」


 「はい、嘘でーす。エリーザが死んだら九太郎も一緒に死んでくれるもんね。」


 「ちっ、んな訳ねえだろ。驕るな。」


 「エリーザのこと可愛くて可愛くて仕方ないくせに。この照屋さんめ!」


 「お前、あっち戻ったらぶっ殺すからな。」


 「はいはい。サリーちゃんに助けて貰うから大丈夫。」


 太陽は彼らの体を乾かすように強く照りつけている。水滴がその一つ一つに陽光を孕んでは輝きと共に海に帰っていく。


 何もかもが健康的で神秘的な力に満ちている。その男女は全てに、そして何よりもこのエルターニャの地に祝福されているかのように、誰にも憚ることなく、感情の赴くままに語り合っていた。その露わになった艶やかな肌は柔軟でしなやかな筋肉を包んで小麦色に焼け、勇む波音にも負けぬ声には、聞いている方が宙に浮かされそうになるほど溢れんばかりの精力と高揚が込められている。


 絶対的で、その分誰に対しても慈悲深い死。それを躊躇いなくカミラに与えてくれるはずだった眼下の岩場が、いつの間にやら彼女を裏切って無縁の世界を広げている。今日だけは自分もそういった明るい世界の住人になれた積りでいた。息を深く肺に吸い込むたび、ゆっくりと瞼を閉じて瞬きをするたび、この豊かで明朗な世界がそっくりそのまま自分の心の鏡に映り込んでいる気になっていた。


 しかしそれは間違い。見える景色の全てはカミラなど端から相手にしていなかった。全てはあの二人の仲睦まじく、こそばゆい逢瀬のために。


 カミラはただいつも男にするように、この世に媚態びたいを以って接し、媚びへつらっていただけだ。


 もう死んでしまうのだから、最後なのだから、私に優しくして頂戴。


 そういうことなのだ。


 煙草の匂いが体から消えなくなったように、いつの間にやら心にも娼婦の性質が浸潤しんじゅんしていて、べっとりと癒着してしまっている。


 『――今すぐ消えてしまいたい』


 それは死とは異なる願いだ。カミラ自身が、今この場に這いつくばっている醜悪な女の体が憎くて憎くて堪らない。


 未だかつてそのような思いに駆られたことなどなかった。一度誰かと比べて自分を卑下してしまえば際限がなくなってしまう。この世の者はみな自分と同じで、それぞれ何かしら苦しみを抱えて生きている。ゆえに自分の不幸をひけらかすことは最も愚かな行いである。そう自分を戒めて来たのに、死の間際になって気が緩んだのか、あの男女と自分を同じ景色の中に並べてしまった。


 明らかに余所者で、眼前に広がる誌的で素朴な光景の汚点でしかない自分。それに加えて自殺でもしようものなら、一体どんな天罰が己の身に降ることだろうか。


 「……楽しいねえ、九太郎。」


 「おめえだけだ。」


 「気持ちいいねえ、九太郎。」


 「ちっ、しつけえな。全然だ。煩わしいことこの上ない。」


 「…………幸せだねえ、九太郎。」


 「……勝手にしろ。ほら、そこ滑るぞ。気を付けろ。」


 ……ああ、それにこの感情はなんだろう。


 カミラはとにかく叫びたくてしかたがなかった。うずくまり、掴めるはずもない岩の地面を爪で引っ掻いている。


 ……いや、知っている。これは嫉妬だ。そしてどうしようもないほどの怒りだ。


 自分の体という小さな容器には到底納めてはおけないほどの憤懣やるかたない思い。唇を必死に噛みしめ、見開いた目から落ちる涙と血が混じり合う。


 「くっ……っ……うっ……!」


 自分で定めた寿命の尽きた日、カミラは何をどうしても消すことの出来ない、骨の軋むような憎悪と、それを与えた相手に対する復讐心を得て、皮肉にも人生で初めて生きる希望を見出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ