そらのそこのくに せかいのおわり Another side 〈Vol,2.5 / Chapter 02〉
その日の昼過ぎ、俺は領主の館の前にいた。
名前はリベレスタン伯爵。王国南東部に広大な土地を持つ貴族である。
土地面積だけなら国内第五位。しかし財産はというと、実はそれほどでもない。所有する土地の大部分が荒涼とした岩砂漠で、利用価値がほとんど無いのだ。
特筆するほどの名所や名物もなく、貴金属や宝石の鉱脈も持たない。主力産業は食用サボテンと薬用アロエの栽培。中央の大貴族からは見向きもされない、地味な地方貴族だ。
幸い、リベレスタン伯は中央に滞在中だった。特にこれといった公式行事も、招待されている夜会の類もない。それなのに、約一週間前から中央市内のホテルに宿泊している。
市内にはリベレスタン家の別邸もあるのに、わざわざ騎士団本部近くの高級ホテルを選んだのだ。どう考えても、コバルトに会う気満々である。
(う~ん……愛が重い……)
四十七歳の整形オジサン相手に、よくもまあそこまで盛り上がれるものだと感心する。フリーズしかけた脳味噌に喝を入れ、俺は堂々と正門に近づいた。
こちらは王立騎士団の制服着用。門番の男は、かしこまった様子で声を掛けてくる。
「何の御用でしょうか?」
「私は王立騎士団情報部所属のシアンと申します。私の仲間から、伯爵様への親書を預かってまいりました」
「親書……ですか?」
「はい。直接手渡すようことづかっております。『コバルトからの手紙』だとお伝えいただければ、伯爵様は、絶対にお会いくださると思うのですが……」
「少々お待ちください」
門番は通信機を取り出し、どこかに掛けている。一介の門番風情が、伯爵との直通回線を持っているとは思えない。ならばこれは、おそらく――。
(執事か、私兵隊長か……できれば、執事のほうであってくれ……)
どこの貴族の私兵隊も、少々残念な筋肉脳が揃っている。招待客以外の来訪者を、ろくに用件も確かめず追い返すことは日常茶飯事だ。
門番の様子では、通話の相手は、さらにどこかへ問い合わせているようだ。
(執事にさえ会えれば、俺の用事は終わるんだが……)
懐に忍ばせているのは、騎士団が誇る天才コミュ障集団、魔導兵器開発部が用意してくれた感染型呪符である。
これはターゲットに直接呪詛を掛ける必要がない、超高性能暗殺アイテムだ。
まず自分が呪符を持ち、『感染者』となる。次に、ターゲットと接触する可能性がある人々に触れて、呪詛をうつす。ここまでは誰も石化せず、通常通りの生活を送ることができる。
最後に、何も知らない『感染者』がターゲットに接触し、呪詛は発動する。
あらかじめ指定した標的以外には『発症』しないし、標的の死後、すべての呪詛効果は一瞬で消え失せてしまう。
誰に気付かれることもなく、いつの間にかかけられている呪い。その効果は単なる石化なのだが、作用する箇所が心筋に限定されている。心臓を石化されて、生きていられる者はいない。
(確実に感染させるには、門番ではだめだ。主人の身の回りの世話をする誰かに触れなくては……)
メイドか執事ならば、主人の着替えや入浴を手伝う際、必ず肌と肌が触れあう瞬間がある。何気なく躓いたフリでもいい。無駄にフレンドリーに握手してもいい。とにかく相手の手を握ってしまえば、それで任務は完了。あとは標的の死を、情報部庁舎でのんびり待つのみだ。
門番は通信を切ると、恭しく頭を下げ、門扉を開けた。
「あいにく伯爵様はお留守ですが、代わりに奥様がお会いくださるそうです。道沿いにお進みください」
「ありがとうございます」
笑顔で会釈して先に進むが、これは想定外だ。
この別邸に妻を連れて来ているなんて聞いていない。昨日の時点では中央にいなかったはずだ。一応はプロフィールを調べてきたから、その妻が何者かは知っているが――。
(まだ十四歳で、リベレスタン伯爵家に仕える士族の娘……だったよな。旦那の代わりに会って、何の役に立つと思っているんだ……?)
こちらは『親書である』と伝えている。本人以外に受け渡すわけにはいかないのだから、妻がしゃしゃり出てきたところで、旦那の代役は務まらない。
内心首を傾げつつ歩いていくと、幾何学庭園の先、立派な邸宅の玄関前に、若いメイドが立っていた。まだ十代の半ばくらいだろう。
「ようこそおいでくださいました。ティールームまでご案内いたします」
おっと、困った。世間知らずのお嬢様は、客なら誰でも茶を淹れねばならないと思っているらしい。
普段の任務なら、自分は市民階級だから同席できないと言ってUターンする。だが、今は好都合だ。このメイドか、妻か、別の使用人か――誰かの手に触れて『感染させる』チャンスが増えるのだから。
案内されたのは屋敷の中ではなく、庭の遊歩道伝いに進んだ先の東屋だった。
ガラス張りの明るいティールームは、まるで植物園の温室のようである。
女性的で繊細なデザインのガーデンテーブル、茶器の乗った給仕用のワゴン。東屋自体も、煉瓦やモルタルの上に白漆喰を塗った爽やかな色合いだ。ロマンチストのリベレスタン伯が好みそうな、洒落た空間演出が随所に施されている。
東屋に入ってあたりを見回していると、こんもりと茂ったライラックの陰から、小柄な少女が姿を見せた。
黒曜石のような肌、細かく編み込んだくせの強い黒髪、金色の瞳。
鮮やかな緑色のドレスを身に纏った少女は、俺に向かって会釈する。
「ようこそおいでくださいました。わたくしはリベレスタン伯爵の妻、キアと申します」
伯爵とは明らかに異なる種族。資料に目を通した時点で気づいていたが、本人を目の前にすると、何ともやりきれない気持ちになる。
貴族の家では純血、もしくは近しい種族同士の混血でなければ跡継ぎにはなれない。この少女は確かに美しい。身分や種族の違いなど無視して、自分の妻にしたくなる気持ちも分かる。だが、しかし。それで満たされるのは男の独占欲だけだ。まだ十四歳の彼女は、この先何人男子を産んでもずっと『側室』で、ずっと『世継ぎの産めない女』のまま。伯爵がほかの側室を迎えたら、どこぞの僻地に追いやられるか、毒でも盛られて殺されるか。
絶対に幸せになれない結婚。
それを強いられても、彼女にも、彼女の家にも、拒否するだけの権限はない。
「お会いできて大変うれしく思います、キア様。ですが、本日私がお伺いしたのは……」
伯爵への親書だから貴女に預けるわけにはいかない、後日でもいいから、直接会えるように話を通してくれないか。そう言おうとした俺を、キアは視線と、二種類のハンドサインで制した。
〈待て。情報がある。〉
騎士団式の、一番基本的なサインだ。一瞬驚いたが、すぐに納得する。
(なるほど、士族の娘だからな。彼女の兄たちも、騎士団に所属していたはずだが……)
なかなかどうして。ただの『綺麗で可哀想なお人形』ではないようだ。
「伯爵への面会をご希望なのでしょう? わたくしから伯爵にお願いして差し上げますわ」
「本当ですか? それはありがたい。ぜひともお願い申し上げます」
「ですけど、条件をひとつ。わたくし、今、とっても退屈しておりますの。お茶と世間話にお付き合いくださらない?」
「それはもう、喜んで。私などで宜しければ」
キアの後ろに立つメイドには、指先の動きは見えていない。彼女はハンドサインだけで、とんでもない情報を投げてよこした。
〈違法、証拠、確保。攻撃可能。〉
作戦行動用のサインである。一般に用いられる手話とは異なり、軍事的な単語を並べているだけ。文章に必要な助詞の類は存在しない。長い話だと『てにをは』を補完しつつ読み解くのが難しくなるのだが――。
(なんてわかりやすいまとめ方をしやがるんだ、このお嬢様は……)
認識を改めねばならない。
誰でも茶会に招きたがる世間知らずのお嬢さま――ではなく。
そう見られる自分の立場の使いどころを心得た、士族の娘だ。
「さ、どうぞおかけになって。この子の淹れるお茶はとっても美味しいのよ。ね、フローラ?」
「ありがとうございます、奥様。お客様のお口に合えばよいのですが……」
「さて、どんなお茶を淹れていただけるのでしょう? 楽しみだなぁ」
ああもう、本当に楽しみで仕方がない。
メイドが茶を淹れはじめて、視線を外した途端だ。
キアは無知で無力なお嬢様の顔から、ほんの一瞬で『士族』の顔つきに変わった。そして――。
〈暗殺はダメ。裏にマフィアが絡んでいるの。今殺したら、奴らが逃げてしまう……〉
まさかと思った。
今のは特務式の無声会話だ。本当に声を使わないわけではなく、実際には小声で話している。声が周囲に響かないように、聞き取りやすい子音やクリック音、上下の唇が接する音を、別の音に置き換えるのだ。
資料には、キアの祖父、父、兄たちが治安維持部隊に所属しているところまでしか書かれていなかった。だが、間違いない。この少女は、特務部隊員の誰かと接触を持っている。それも、長期的な訓練が必要となる無声会話法と、ハンドサインを難なく使いこなせるほど、濃密な接触を――。
(ああ、くそ。二回連続で貧乏くじかよ……)
メイドか執事の手を握るだけで簡単に終わる暗殺任務。そう考えていた五分前の自分に教えてやりたい。
お前はとんでもない大馬鹿者だぞ、と。