そらのそこのくに せかいのおわり Another side 〈Vol,2.5 / Chapter 01〉
臨時休暇も明け、いつも通り出勤したときのことだ。
「やあ、おはようシアン。ちょっと話があるんだけど、今、大丈夫かな?」
俺を呼び止めたのは、同じ貴族案件専任チーム『コード・ブルー』所属の工作員、コバルトだった。彼は情報部の中では少数派、特務部隊以外からの昇進組である。
「なんだ? 武力行使が必要な案件か?」
どうせまた、いつものアレだ。俺は何も警戒せずにそう訊いた。
誰が言い出したのか、いつのころからか広まった『情報部最強戦力』という二つ名。登庁時にエントランスホールで呼び止められる用事といえば、まず例外なく、『最強さん』への助っ人依頼である。
「コバルトが担当している案件なら、南部のウージャヤ侯か? アル=ディガ氏族の坊ちゃんか? どちらもかなり貢いでいるって話だよな?」
そう、彼の担当は『貢ぎ癖』のある貴族のトラブル処理。主な仕事は貢がれる側の歌手やダンサーを、安全な他所の土地に移住させてやることだ。
貢ぐ男、貢がれる女がいる場合、世間は例外なく『女が男に貢がせている』と判断する。だが実際には、そうでないパターンが圧倒的に多い。歌手やダンサーは、あくまでも芸の道を究めんとする『技芸者』である。売春が目的で綺麗に着飾っている娼婦とは全く別物なのだ。どれだけ貢いでも、彼女らを金で買うことはできない。
しかし、迷惑な勘違い男は後を絶たない。貴族に限ったことではないが、娼婦がベッドで言う「また来てね」と、歌手がステージで言う「また来てね」の区別がつかない残念な男はいくらでもいるのだ。
新譜を一千枚買ったのだから。有名な会場を押えることに協力したのだから。後援会にこれだけ金を落としたのだから――高級娼婦を買う以上の金を使ってやったのだから見返りをよこせと言われても、歌手は売春婦ではない。当然、拒絶もするし、身の危険を感じて逃げたりもする。そこで男のほうが逆上して、『自分のものにできないならいっそ殺してしまおうか』という発想になるらしい。
俺には全く理解できないモノの考え方だが、貴族にはやたらと多い。彼らは地位と財産さえあればなんでもできる、なんだって買えると思い込んでいる。事実、そのような環境で育っているのだ。彼らにとって金で買えない人や物は、理解不能な異物でしかない。直ちに排除せねば、この世界を揺るがす大事件が巻き起こる――本気でそう思っているらしいのだ。そんなもの、庶民の眼から見たら、ただの失恋体験でしかないのだが。
悪い貴族から美女を掻っ攫って、女王直轄地に安全な住まいを与える。まるでおとぎ話に出てくる勇者様のようなコバルトは、困り果てた顔で首を横に振る。
「ウージャヤとアル=ディガなんて、まだまだ可愛いものさ。今回の件と比べたらね」
「あれが可愛いものだと? この前逃がしてやったショーダンサーで二桁目だろう? それよりヤバいのか?」
「ああ、人数や金額の問題じゃないんだよ。……貢がれてるのは、僕だ」
「は?」
「いや、なんというか、困ったことに、僕は自分から虎の口に飛び込んでしまったらしくて……場所を変えようか?」
「そうだな」
俺とコバルトは、あまり使われることのない物置部屋に移動した。
工作員、コバルト。彼は情報部異動と同時に名前と経歴が抹消された。整形手術で顔を丸ごと作り変えているため、元がどこの誰なのか、正体を知る者はいない。現在四十七歳――ということにされているのだが、実年齢は不明。落ち着き払った物腰はもっと上に見えるし、引き締まった体つきは三十代といわれても納得できる。
いまいち正体のつかめない不思議な同僚は、整った顔に悲しげな表情を浮かべて語り始める。
「ことの発端は去年の暮れだ。ショーダンサーの女性が、騎士団支部に駆け込んで保護を求めた。自宅周辺に変な男たちがうろついていて怖い、助けてくれ、とね。支部員が行ってみると、確かに妙な連中がいる。捕らえて尋問したところ、雇い主はその土地の領主だった、と……。まあ、ここまではよく聞く話だろう?」
「ああ。鉄砲玉の自供だけじゃ貴族まで手が届かない、残念なパターンだな」
「その通り。それで、支部から特務に書類が回されたんだが……」
「なんだ? またベイカーの奴がしくじったのか?」
「いや、違うんだ。ベイカー隊長はその領主のところを訪ねて、きちんと話をつけてきた。僕はそれに同行して、女性を中央市に移住させる手続きを取っていたのだけれど……その領主、男も女もイケるクチだったらしくて……」
「……え?」
「顔を合わせた翌日から、特務に僕宛ての贈り物がジャンジャン届いていたらしいんだ」
「四か月間ずっと? 情報部じゃなくて、特務のほうに?」
「そうらしい。ほら、うち、特務の下部組織だと思われているだろう? 普通の手紙だったらすぐにこっちに届けてくれただろうけど……送られてきたモノがモノだったから、ベイカー隊長も、僕には言わずにいてくれたみたいでね。でも、さすがに保管場所がなくなってきたから、どうしようか、って……」
「何が送られてきたんだ?」
「いや、その……昨日、現物を見たんだけど……ラブレターと、コンドームと……アナルスティックとか、ディルドとかそれ系のオトナのオモチャが山のように……」
「……ガチだな……」
「怖いよね」
「ああ……今ちょっと震えてる……」
「で、その、あんまり読みたくなかったんだけど、一応手紙も読んでみた」
「おお……勇者よ……」
「もう本当に! ラスボスに挑む以上の覚悟で読んだよ! そしたら見てよ、これ!」
バッと眼前に突き出された紙は、手紙のコピーだった。そこには貴族専用の神聖文字、それも大変美しい筆致で、とんでもないことが書かれていた。
〈君と一緒に最高の時を過ごせるように、ラウレア高原に土地を買ったよ。
星の綺麗な場所なんだ。湖も蛍も、とても美しいよ。
あの景色をすべて、君に捧げたい。
だからお願いだ、一度でいい。私のもとに来てくれまいか。
私は本当に愚かだった。手に入れることこそが愛だと思っていたけれど、ベイカー隊長の言葉で気づいたんだ。
愛とは互いに想い、求め合うからこそ成立するもの。私一人が求めるばかりでは、それは愛とは言えない。ただの欲求だ。
だから私は君に捧げよう! 私のすべてを!
君が私を求めてくれるまで、私の何もかもを君のためだけに捧げるよ!
星空だけでは足りないのなら、海でも山でも、草原でも、なんでも君に捧げるから!
君が振り向いてくれる日を待っているよ!〉
読み終えた俺は、たっぷり三十秒はフリーズしていたと思う。体内時計の正確さには自信があるほうだが、こればかりはよくわからない。体内時計ごと完全停止していた。
ベイカーの奴は、いったいどんな説得を試みてしまったのか。「貢いでやったんだからヤラせろ。拒否するなら殺す」という最悪な発想は消えたようだが、代わりに別の、もっと厄介な貢ぎ癖がついてしまった。元よりずっと粘着性が高いし、使っている金額が半端じゃない。
ラウレア高原は貴族に人気の避暑地。別荘やホテルが密集する街寄りのエリアはともかく、星の良く見える湖畔エリアは滅多に売りに出ない。よって湖畔の、それも蛍が生息する小川沿いの土地を購入しようと思ったら、所有者との直接交渉しかない。
土地も家屋も手放す気がない者のところに押しかけて、売買交渉を成立させるのに必要なもの。それはやはり、金だ。
「他にもいろいろ買ってそうな文面だが、そっちで把握しているだけでいくつある?」
「サザンビーチ近くの無人島、ハナハナラッカのマングローブ林、グランドブリッジのライトアップが一番よく見えるホテルの経営権、夏至の日にサン・ペティオス遺跡と朝日が一直線に見える超高級ロッジ……他にも、有名観光地のホテルや温泉がいくつか……」
「間違いない。コバルト、お前は今、世界で一番貢がれてるイケメンだ」
「これ整形だから、別に僕じゃなくてもって思うんだけどね」
「誰か別の、恋人募集中の同性愛者を紹介してやりたくなるな……」
「顔さえ整形すれば何不自由なく生活できますよ、ってね。まあ、そういう事情で、ぜひとも君に手伝ってもらいたいんだが……」
「うん? まさか、コバルトのところにも手下を送り込んだのか……?」
業を煮やして強硬手段に及んでくれたなら、逆にやりやすい。一旦わざと捕まってもらって、誘拐事件として治安維持部隊を大規模に動員するのだ。こちらは王立騎士団。騎士団員を拉致監禁したとあらば、国家反逆罪が適用できる。どんな大貴族であろうと、王家に喧嘩を売ったらただでは済まない。家の取り潰しとまではいかなくとも、領地の大部分を没収され、名前だけの『土地なし貧乏貴族』に落ちる。
それならさっそく作戦を、と言いかけた俺だったが、コバルトの表情を見て出かけた言葉を飲み込む。
「……簡単な話ではなさそうだな?」
コバルトは黙って頷き、ポケットから、小さく折りたたんだ紙を取り出す。
「あの家は、放っておいてもあと半年ももたないよ」
手渡された紙は、その領主が購入した土地や経営権の一覧だった。
この四か月だけで三十近く。どれも億単位の買い物だ。現金で払いきれる金額ではない。欄外に、資金調達先の銀行と詳細な金額が手書きされている。それによると、自領の土地や物件を担保に銀行から借り入れているようだが――。
「……同じ土地を担保に、三つの銀行から? 完全に詐欺じゃないか。というか、この筆跡、もしかしなくても……?」
「そう、ベイカー隊長だ。あちらの手駒を使って調べておいてくれたらしい。他にも使える情報をいくつか付けて、後はそちらでどうぞ、とね」
「あの野郎、妙なところで恩を売ってきやがるな」
「王宮のほうとも話はついているそうなんだが、なにせ、男が男に貢ぐためにやらかしていることだろう? 『マルコ様のお披露目前に貴族のスキャンダルは困る。表沙汰にせずに始末しなさい』と、念を押されたそうだ」
「しかし、これだけ多額の借金をどうやって? 秘密裏に処理するには大きすぎる……」
「いや、そちらは王宮任せでいいらしい。僕らが今行うべきは、伯爵本人の始末」
「と、いうことは……正式な指令ではない?」
「そう。セルリアンも知っているけれど、彼の命令で動くわけにはいかない。我が情報部に、そんなダーティーな任務は『存在しない』のだからね」
「分かった。つまり俺は、この気持ち悪いラブレターの差出人のところへ行って、そいつの息の根を止めてくればいいんだな?」
「すまない。本当は、僕が自分で始末をつけたいところなんだが……」
「気にするな。得意分野が違うんだ。安全な退却ルートの確保は任せる」
「それはもちろん。それこそ僕の専門だからね」
それから俺とコバルトは、作戦の詳細を詰めた。
あっさりと決まる殺害計画。
情報部にとって人ひとりの命など、いつだってこの程度の扱いだ。
(任務先で俺が死んでも、やっぱり『この程度』なんだろうな……)
ふと考えてしまう、自分の死にざま。縁起でもない想像を、頭を振って追い払う。
つい何日か前に、後輩に言ったばかりではないか。最後まで、全力で戦っていられたら――と。
(……らしくないな。死についてあれこれ考えるなんて。……いや、むしろ……)
死について考えるからこそ、それまでの時間を、精一杯使い切ることができるのではないか。
だが、しかし。この『情報部』という檻の中で、いったいどんな『精一杯』が可能だというのか。
(……何か、おかしい。どうしてこんなことを考える? ゴヤに会ってから、ずっとこうだ。気付けば、余計なことばかり……)
自分の心の、微妙な変化。
後にして思えば、それを感じていたのは自分だけではなかった。
事件は、この時すでに始まっていたのだ。