第一章 月詠繋時
1996年3月5日 十六夜 満月
翌朝、楓と共に鴨川までジョギングに出かけると、カメラを手にした自称トラベラーに再び会った。
「やぁ、キャシー。おはよう、また会ったね。ちょっと運命感じない?」
「また調子いいこと言ってるのね。アンタの頭ん中はピンクのお花畑なんじゃない?」
「あら香久夜さん、そちらはお友達?初めまして、お早うございます。この子の義姉になる楓です。」
「いや~お義姉さんもお美しい。月読繋時と申します。祇園で古美術商をしております。」
「普通に挨拶出来るのね。」
「それは心外だな。昨日もちゃんと挨拶したつもりなんだけど。」
「あら、お二人中良いのね。お店にはギャラリーはあるのかしら?」
「もちろん、ございますよ。何ならVIPルームでおもてなしさせて頂きますよ!」
「嬉しいわ。では後ほど伺わせてもらうわ。よろしくて?」
「ちょっと、楓。本気なの?」
「もちろんよ。祇園の古美術商さんとお知り合いになれたのよ。別に興味がないなら、私一人で伺うから構わないわよ。」
「いや、嬉しいな。是非お越しください。押し売りなんて致しませんから。もちろんキャシー、君もな。」
軽くウインクされてしまった。そういって彼はショップカード私たちに渡すと嬉しそうに手を振って去っていった。
「楓、どうしたの。古美術なんて興味あったの?」
「何言ってるの、私アートと名の付くものは一通り興味あるわよ。しかも今秋には京都に続く古い居合術道場に嫁ぐのよ。祇園の古美術商さんとご縁を深めておくのも悪くないわ。」
楓、なんて強かなの…私やはり貴女を尊敬するわ。益々、楓の魅力に嵌ってしまいそう。
「それに貴女、彼に少し興味を轢かれているみたいね。私の目は誤魔化せないわよ!」
彼女にかかれば、私は完落ち寸前の容疑者だ…参りました。
シャワーのない時司家なので、帰りに近所の平安湯に立ち寄り、汗を流した。銭湯、なんて気持ちいいのかしら。
昼食を摂った後、2人でショップカードに書かれた「月詠堂」に訪れた。古門前通りに面するなかなか立派なお店だ。
2階建ての趣ある店舗の暖簾には満月と開かれた本をモチーフにした意匠が描かれいる。藍染の地に生成色の意匠がとても映える素敵な暖簾だ。
「ごめんください。」
「お越しやす。えらいベッピンさんのお嬢さん方や、今日はなんかお探しどすか?」
「こちらの繋時さんにギャラリーを見せていただけるとお誘い頂きまして。」
「あ~、繋時のお友達ですか。ちょっと待っといて下さい。繋時~繋時~、お友達がご来店やで。」
奥から月詠繋時が照れながら現れた。
「ようこそ、月詠堂へ。お待ちしておりました。どうぞこちらへ、ギャラリーをご案内します。」
「お言葉に甘えて、寄せて頂きました。宜しくお願いします。」
楓は流石の大人な対応だ。
彼は1時間以上かけて、私達に展示品を丁寧に案内してくれた。しかも、飽きないように当時の時代背景を面白おかしく話しながら。格式高そうな古美術商に居ながら、私達は喫茶店で話しているかのように時間を過ごした。益々、彼に惹かれてゆく自分がいた。ただ恋愛なんてものにまさか自分が関わるなど思った事も無かったので、どう対処していいのか困惑していた。
「繋時さん、貴方は思った以上に素敵な方だわ。来週、私の婚約者つまりこの子の兄が戻ります。宜しければ、ご一緒に食事でもどうかしら?」
「光栄です。もちろん、喜んで。キャシーさんもお誘いして宜しいですか?」
「それは私に尋ねる質問じゃないんじゃない♪」
「そうですね!キャシー、構わないかい?」
「しょうがないわね。ついてってあげるわよ。」
自分でもこの言葉の選択が可笑しいのはわかっていたけど、恥かしさの裏返しで、私が返せる精一杯の返答だった。チラッと隣を見ると、笑いを堪える楓がいた。あーとても恥かしい…。
「じゃあ、12日の火曜日の19時にどちらか、お店をご予約願って宜しいかしら?皆好き嫌いはありませんわ。繋時さんとの連絡は香久夜さんに任せていい?今日は本当にありがとう。」
そう言って楓は私にウインク。私は今日2度目の敗北感を味わった。
1996年3月12日 二十三夜
午後、実家に戻って来た兄、剣太郎は早速、彼の話題に食いついた。
「へぇ~、恋愛経験のない香久夜はともかく、楓まで気に入る男なんて、興味深々やな。内調で身元でも調べるか…。」
「うるさい!恋愛経験ないとか言うな!ホント止めてよね、そういう過保護。しかもプライベートに職権乱用しないでくれる。」
「アホ言え。仮にもオマエは政府にとって最重要人物の一人と言っても過言やないんやぞ。念のために部下に調べさす。」
兄はそう言って何処かに連絡を入れていた。これだから…。今更のように溜息をつく。
「香久夜さん、大丈夫よ。彼に会えば、剣太郎さんもすぐに理解するわよ。他国の諜報員かどうかを調べるだけよ。収入等のプライベートには機関は関知しないわ。剣太郎さんは、また別でしょうけど…ね♪」
数時間後には時司繋時の身元調査書が用意されていた。余りの速さに私は違和感を覚え、楓を見る。
ごめんなさいと示すように舌を出している。4日前には既に楓から兄に報告がなされていたのだろう。
「黒井から報告書が届いた。結論から言えばシロだ。何処のエージェントとも接触は確認されなかった。気になるのは一般よりも海外渡航歴が多いくらいだが、仕事や彼の趣味を察するに許容範囲と思える。と、ここまでは業務上の話や。そやからと言うて、ソイツとの交際認めたわけちゃうからな。」
「交際も何も、未だ付き合ってないわよ!」
その言葉を聞き逃さないと言わんばかりに兄が楓を見てニンマリ笑った。
「聞いたか、楓。コイツ今、まだって言うたん?」
「香久夜さん、残念ながら聞こえてしまったわ…♪」
自爆した…。
19時、彼に指定された店は川端二条近くにある少し小綺麗な居酒屋さんだった。
「初めまして、月読くん。時司剣太郎です。今夜は強引にお誘いしたみたいで、おまけにお店の手配までして頂いてなんかスミマセン。」
「月詠繋時です。お誘い頂けてホンマに嬉しいです。気軽に話せるようにこういう店を選びましたが、味は保証します。ちょっと緊張してるんですけど、今夜は宜しくお願いします。」
緊張な面持ちで兄と対時する光景が面白かった。本当に正直な人だ。
乾杯から始まり、和やかに食事はスタート。楓の気遣いで会話もスムーズだ。おまけに料理も美味しい。この生湯葉の刺身なんて癖になりそう。
「妹から聞いたけど、写真が趣味なんやて?」
「撮るのも好きなんですけど、気になる写真を探して世界を旅するのが好きなんです。」
「気になる写真って、どういうのん?」
兄の眼が変わった、仕事の眼だ。
「ちょっと言葉で言うんは難しいんですけど。引かんといて下さいね。触れると、何か電気が走るような感覚の写真があるんです。仕事柄、よく骨董市とか行くやないですか。そんな中、昔の写真を飾ったり、また二束三文で売ってたりするんですよ。僕は昔から歴史も好きやったんで、値打ちもんの写真がないかとか探してたんです。例えば、歴史上の偉人が偶然写り込んでるのに埋もれた写真とかあるやないですか。でも、そんな中にごく稀に気が逆立つと言うか、電気が走るとか、そんな感覚にとらわれる写真に出会うことがあるんです。そしてそれらの写真には必ず日付が裏書きされてあるんです。結局、骨董価値は全く無いんですけどね、でもいつの間にかその収集が趣味になってしまいまして…。」
笑って語る彼に対して、私と兄は凍りついた。
「良かったら、その趣味で集めた写真、見せて貰えないやろか?僕、前職が警察官やから、プロの骨董商に電気が走る写真なんて気になるんやわ。」
兄がすかさず、食いついた。
「お兄さん、警察官やったんですか?もちろん、見て下さい。良ければ、明日にでも。」
「今は同じ公務員でも警察官ではないけど…。それと僕は君のお兄さんになった覚えが無いんやけどな。」
「す、すいません。そう言うつもりやなくて、いや、つもりはあるんですけど…。ハハハ…。」
この泣き笑いで、元の空気が戻った。
「冗談やから…。ほな明日見せてもらおうかな。」
冗談と言った兄だが、その言葉が本心であることを他の3人は理解していた。
初の食事会は興味深い点もあったが、愉しく過ごせたので及第点ではないだろうか。
明日の午後2時に月詠堂に伺う約束をしてお開きとなった。
この作品はフィクションです。現世界線における実在の人物や団体、事件などとは一切関係ありません。