気づいたら誰もいない
ガタン、という音でKは目が覚めた。
気がつけば、足元に筆箱が落ちている。
「いかんいかん、寝てしまったか」
そう思いながら、足元に落ちた筆箱を拾い上げる。そこでハタと気がついた。
誰もいない。
大学の講義室。
200人は入る大きな教室だ。
Kは今まさに小難しい講義を受けていた最中だというのに、壇上には教授の姿はなく、一緒に受けていた学生たちの姿もない。
ただ一人、彼だけがポツンと席に座っている。
よく見れば、ホワイトボードには書きかけの文字がびっしりと埋まっており、講義が終わったわけではなさそうだった。
そもそも、時計の針は午後1時34分を示しており、まだまだ終わるような時間ではない。
Kは訝しく思った。
教授と他の生徒はいったいどこに?
辺りを見渡すも、どの机もノートや教材が置かれたままとなっている。
まるで、講義を受けている最中に忽然と姿を消してしまったかのようだ。
Kは立ち上がった。
静寂に包まれた講義室。あまりに不気味すぎる。
「おおい、誰か、いませんか?」
声をかけてみる。
しかし、自分の声がむなしく響き渡るだけだった。
おかしい。
これは明らかにおかしい。
Kはバッグを背負うと講義室を出た。
薄暗い通路が目に飛び込む。
普段は多くの学生たちが行き交うこの通路に、今は誰もいない。
彼は一瞬、その場で立ちつくした。
他の人たちは、どこに行ったのか。
見れば窓から見える木々たちが時間が静止しているかのようにピタリと止まっている。
耳を澄ましてみても鳥のさえずりはおろか、外の喧騒さえも聞こえてはこなかった。
すべてが静寂。
Kは恐る恐る歩き出した。
誰もいない薄暗い通路をゆっくりと。
壁の掲示板にはサークル募集のポスターが所狭しと貼られている。
エネルギッシュで個性的なその一枚一枚に、学生たちの魂が感じられた。
しかし、今の彼にとってはそれがかえって不気味だった。
他の人たちはどこへ行ったのか。
ふと、別の講義室が目に入る。
今の時間なら、他の学生が講義を受けているかもしれない。
そっと扉に手をかけて、覗き見る。
誰もいなかった。
否。
いた形跡はある。
Kが座っていた講義室と同じく、ホワイトボードにはアルファベッドが書きなぐられており、今まさにその続きを書いている途中のようである。
机の上はノートが広げられたままの状態だが、そこにいるべき学生の姿が見受けられない。
おかしい。
これはあまりにもおかしすぎる。
Kは覗き見をやめると駆け出した。
とにかく、この建物から出よう。
そう思いながら正面玄関にたどり着くと彼は目を丸くした。
いつもは開け放たれたままのガラス扉。
それが、なぜか閉まっている。
誰が、いつ閉めたのか。
身体を押し当て、ガラス扉を押してみた。
しかし、鍵でもかかっているのかいっこうにビクともしない。
ためしに引いてみる。
しかし、結果は同じだった。
「なんで……!?」
叫びながらガラス扉をガタガタとゆすった。
ガラス扉はまるで地面とくっついたかのように微動だにしなかった。
彼は仕方なく引き返した。
別の出入り口を探してみよう。
言わずもがな、こういった大きな建物なら出入り口などいくらでもある。
正面玄関からでなくとも、外に出られるはずだ。
そう思い、建物の裏口へと向かった。
大学構内の裏手に通じる出入り口だ。時間短縮のためにそこを通る学生も多い。
いそいそとKが講義を受けていた講義室前を素通りし、裏口へとたどり着いた。
しかし、そこもガラス扉が彼の行く手を阻んでいた。
震える手で四角い大きな取っ手をつかみ、押したり引いたりしてみる。ビクともしなかった。
Kは怖くなった。
何か、得体のしれない出来事が自分の身に起こっている。
そう直感した。
そして思い出したかのようにポケットにしまっていたスマートフォンを取り出す。
友人に電話をかけようとして、手が止まった。
圏外になっている。
目を疑った。
大学構内において圏外になることなど今までになかった。
やはり、どう考えてもおかしい。
踵を返すと、今度は非常口に向かった。
恐ろしすぎて気が変になりそうだった。何が何でもここから逃げ出さなくては。
非常口は、いざという時の出入り口である。
まさに今の自分の状況にぴったりだった。
緑色に光る人が走っているマークの看板が掲げられている扉にたどり着くと、そこのドアカバーを叩き壊してドアノブに手をかけた。
ひんやりと冷たい感触が手に感じられる。
ぐ、と力を込めて回し、思いきり押してみた。
ビクともしない。
「ぐ……この……!」
逆に引いてみる。
それでもダメだった。
非常扉でさえ、彼の脱出を拒んでいる。
Kはいよいよ恐慌をきたした。
バタバタとトイレに駆け込むと、用具入れの中から水モップを取り出した。
そして、正面玄関のガラス扉の前まで来ると、手にした水モップの金属部分をガラスに叩きつけた。
しかし、まるでガラス扉は鉄のように硬く、叩きつけた水モップを弾き返した。
「うわ!」
その反動で彼はひっくり返る。
尻餅をつきながら、驚いた顔で前を見た。
ガラス扉には傷ひとつついていない。
彼は思った。
これは異常だ。
おかしいを通り越してかなり異常だ。
いったい何が起きているのか。
ひとつ深呼吸をすると、努めて冷静になった。
「落ち着け、落ち着け」
大きく息を吸い、大きく息を吐く。
その動作を繰り返すことで、高鳴る心臓が収まってきた。
ある程度落ち着いたところで、Kは考えた。
「まず自分の席に戻ろう」
すかさず、授業を受けていた講義室に戻る。
事の始まりは、まさにそこである。
講義室に戻ると、ホワイトボードを見た。
眠りから覚めた時に見た時と同じ、意味のわからない言葉の羅列。
書いている途中のような中途半端な文字。
しかし、それを書いていたであろう教授の姿はない。
時計を見る。
午後1時34分。
「おや」
とKは思った。
時計の針が進んでいない。
秒針のない、シンプルな丸時計だが、いくらなんでも1分も進んでいないなんてことはあり得ない。
そこでようやく気が付いた。
時間が、止まっている?
いや、まさか、そんなバカなこと、あるはずがない。
ふと、腕にかけた腕時計を見てみる。
午後1時34分25秒。
秒針は、そこから1秒たりとも動いていない。
つまり、今、まさに時間が止まっているということだ。
Kは理解した。
自分は、止まった時の中に迷い込んでしまったのだ。
科学の概念が一切通用しない世界。
SFやファンタジーなどでよく聞く現象ではあるが、まさか自分の身に起こるとは。
そして、戦慄した。
どうすればいいのだろう。
もしかして、一生このままなのだろうか。
あれこれと混乱する頭をおさえつけ、とりあえず深呼吸する。
吸って吐いて、吸って吐いてを繰り返す。
ふう、と落ち着いたところでKは考えた。
止まった時の中に迷い込んだというのなら、逆のことをすればいい。
自分は何をしていた?
何をして、こうなった?
思い出す。
授業中に眠っていた。
居眠りしていて、目が覚めたらこうなっていた。
「そうか」
ならば、もう一度眠ってしまえばいい。
安直な考えだが、それしか思いつかなかった。
「よし」
Kは元の席に座り、眠る準備を始めた。
両腕を机の上で組み、そこに額を乗せる。
そして、ゆっくりゆっくりと目を瞑る。
音のない静寂だけが、辺りを包み込んでいた。
不気味な静けさだが、このほうがかえってよく眠れそうだ。
Kはその体勢のまま大きく深呼吸して、祈るように深い眠りに落ちるのを待ち続けた。
※
T大学構内は、騒然となっていた。
救急車が停まり、救急隊員たちが担架を持って走っている。
彼らの向かう先、とある建物内の講義室で、一人の学生が意識不明の重体となっていた。
講義中、居眠りをしている最中に心臓麻痺を起こしたらしい。
苦しんだ様子もなく、その顔は穏やかだった。
心臓麻痺は、自覚症状がないことも多い。
おそらく、その学生もそうだったのだろう。
彼の顔は、まるで本当に眠っているかのようだった。