全一なる城の幻と影をおもう
――余輩とすべきか卿とすべきか、と王は云った。
不明朗な玉音が鳴ると、臣下は軋みでもって高御座に臨んだ。
軋む。まるで万の近衛が儀仗を擦り合うように。
軋む。まるで千の神官が聖具を捧げ持つように。
軋む。まるで百の道化が譏笑を浮かべたように。
極大から極小の歯車たちが軋みをあげて高速で回る。彼らがその仕事に就いてから、すなわち王が臨御なされてからすでに四半世紀が経つ。爾来休むことなく仕事を果たしている彼ら歯車は、自らの伝えるものが何を編むのかさえ知らぬ。塔のどこかで燃え盛る巨大な蒸気機関が、彼らに絶え間なき仕事を与えつづけ、その存在に意味を持たせている。人間が作ったものであるがゆえに人間に似る彼ら。彼らもまた帝都の住人だ。
彼らに傅かれる一人の王。左右に燈る真鍮の燭火が盛大に揺れている。玉座の背からは光があふれ、光輪を背負う王の御尊顔はうかがいしれぬ。
――余は昔日を思うておる……、余輩の使命をまっとうせんと約せし日々を、と王は云った。
それはまだ王が即位する前、すなわち四半世紀も前の出来事。王の昔語りはいまに始まったのではない。忠孝な臣下たちは軋みをあげて優諚に耳を傾ける。
――産声をあげた余輩は世を統べる機構を学ばんと大地を流離うた
王の語るところによれば、王がかつて若者であったころ、諸方を歴回り烝民と触れあい、獣の獣たる非、人が人たる理、国が国たる法、力が力たる権、王の王たる天を写し取ったという。こうして真理を感得した若者は、当時の国をおおいに乱していた争いを収めるべく、人々に親炙される仕組みを作りあげた。その仕組みの名を王は明かさぬ。
――かくて人々を糾合し国は大いに栄えた、とその仕組みの功をのみ挙げる王の口調は穏やかである。臣下は感嘆を伝えるべく軋みをあげた。
――奴儕が地の果て海の底より這い出るまでは、と王は一転して憂いを漏らす。真鍮の燭火が弱々しく揺れる。臣下は軋みをあげて嘆く。まるで妃嬪が五彩の衣を触れ合わせ、忍び泣くように。
王の語るところによれば、国歩は彼方より現われし野蛮の民に蹂躙されたという。若者が築いた仕組みも同様に踏みにじられた。そうして若者は仕組みを簒奪され、国は亡び、時さえも果てるような遠き地にある牢獄に幽閉された。
――無音、無痛、そして無聊、かの地にて学ぶべきことはなく
軋みの臣下が王の軫念を慰藉するように重々しい唸りをあげた。
――ただ一つ、かの地にて余輩は歴史の跋を暗示せられた……
それきり王は沈黙した。
玉座の影は失せ、燭火は消え、臣下たちはまた元の仕事に戻る。
そこは鋼鉄に覆われた一室であった。床、壁、天井を歯車や蒸気管、大小様々な機器が埋め尽くしている。整列する機械たちは粛々と己の役目を果たしていた。彼らは休みなくうごめきつづけるのだ。彼らは帝都を輔弼している。それは王が築きあげた仕組みではないが、王が支配する仕組みではあった。
かの王はときどき臣下の目をくらまして宮殿をさまよう。なぜというに、王は臣下と同じ眠れぬ身であったから。
『予は歴史を写しとる。歴史から読みとる。そして細大を余さず曜天へ囁く。だが、いまはもうその使命も損なわれた。』
御簾を出し王の言葉は誰にも伝わらぬ。宮殿はどこまでも廊下ばかりがつづいている。それでも王は延々と、蜿蜒と廻りつづける。まるで王自身も歯車に組みこまれてしまったかのように。塗りつぶされた窓からは外が窺えぬ。割られた鏡では己が顔を映せぬ。九重の関鑰を開けてはならぬ。
『予はここを出てはならぬ。余輩を解き放ってはならぬ。』
それが宝祚につく条件であった。かつて王は条件を受け入れ、九つの鳳闕をくぐり奥へ入った。かつて野蛮の民に壊された仕組みは、若者が表に出たのが原因であったから。
王の決意を知る者はいない。仮にいるとすれば、かの《法皇》に連なる円卓の七人ぐらいやもしれぬ。
――僕らというべきか君と呼ぶべきか、と王が云った。
明朗に玉音が響くと、臣下は軋みをあげて高御座を背く。
軋む。まるで百の近衛が儀仗を放り投げるように。
軋む。まるで千の神官が法衣を脱ぎ棄てるように。
軋む。まるで万の道化が壇上で転げまわるように。
数知れぬ歯車たちが軋みをあげて低速で回る。彼らがその位置に据えられてから、すなわち王が城門に入りし頃よりすでに四半世紀。爾来休むことなく仕事を果たさざるをえない彼ら歯車は、自らの仕えるものが何を生むのかさえ知らぬ。城のどこかで燃えたぎる巨大な蒸気機関が彼らに終わりなき仕事を与えつづけ、その存在に疑問を持たせる暇も与えぬ。人間が作ったものであるが人間ではない者たち。彼らもまた帝都の住人だ。
彼らを照臨する一人の王。左右に燈る真鍮の燭火が儚げに揺れている。玉座の背後で閃光がきらめくたびに王の影が明滅する。
――僕はあのころを思いつづけている……、君と道を違え、矛を交えあった日々を、と王は云った。
それはまだ王が入城する前、すなわち四半世紀以前の出来事。王の述懐はいまに始まったのではない。臣下たちはとうに聞き倦んでいたが、それでも耳を傾けざるをえなかった。
――かの地を出た僕と君は歴史を、人の生き写しを見て回った
王の語るところによれば、幽閉先より脱けでた若者は、かつてのように諸方を巡り、幽閉されていた間の歴史、万民を通じて紡がれてきた歴史を学んだという。こうして歴史を感得した若者はある時は喜び、ある時は怒り、ある時は哀しみ、ある時は楽しんだ。歴史は悲喜こもごもの繰り返しであった。関わる個を委曲かに認めなければ、筋書きを少し焼き直した喜劇、悲劇、そして惨劇の再演ばかりであった。
――僕と君も驚いてばかりだったね、と王はしんみりと云った。臣下たちは軋みをあげてうなずく。
やがて王は帰還し、当時の国をおおいに乱していた争いを取り払うべく活動をはじめる。大きな戦争が終わったあとだった。付け加えれば王が大きな戦争から大いなる学びを得た直後であった。国を交えた直接の争いは東西の約定により終結していたが、荒んだままの人心には争いが根付き、国内には大乱の芽が萌しつつあった。
――そんなときだ、僕と君は方針の違いから決別してしまった、と王は一転して喜ばしげな云い方をした。それはこの王にとっての自由がはじまった日を指していたから。
――歴史が繰り返しであってはならない、悲しむものがいてはならない、それなのに君は僕に反対したね、僕と同じものを学んだはずの君!
王はおもむろに立ち上がり室を去った。
明滅する光輝が残り、燭火は燃えあがり、臣下たちは平素の軋みを取りもどす。
そこは幾本もの樹幹が壁を形成する大樹の一角であった。暗褐色の幹枝をなす配管から見える歯車は隙間なく絡みあい、夜にたなびく桐の葉を重ねたようである。彼らは休みなく囁きかわすのだ。彼らは巨大な塔を構成している。それは王に敬虔な仕組みではないが、王に忍従する仕組みであった。
かの王はときどき臣下の目を盗み城外をさまよう。なぜというに、王は身を縛りつける不自由な城を厭うていたから。城とかつての幽閉先になんの違いがあろうや?
『僕は争いが嫌いだ。歴史にしみついた涙が嫌いだ。細大を余さず語り伝えたところで、黒曜は何も返してくれない……。』
宮闕を脱けでた王の声音は闇々と儕輩に伝播してゆく。灝気した九天のもと、どこまでもつづく城外を人々が行き交っている。王は人々に紛れて通りを、市場を、宅地を、駅を、港を、方々を巡幸す。かつて諸方を巡った王にとって、人々の笑顔を見るのは何よりもの慰撫であった。九重の忍び路は険しいが、それでも王は数多の笑顔に触れるべく隠し戸をくぐる。しかし、遠近で綻ぶ顔にどこか物足りなさを感ずる王もいた。
『この笑顔も〈来たるべき種族〉の歴史に抑圧されてしまうのではないか。この笑顔をいっときだけにとどめてしまわぬために、僕はなにをすればよいだろうか。』
王は計略をめぐらす。時間は無限にあった。王は試行のために九つの門をお忍びで抜けた。かつて野蛮の民により挫かれた思惑は堂々と動きすぎたのが原因であったから。
『彼らには悲しみを再生産するだけの未来を築いてほしくない。歴史の纜を断ち切る方法が必要なんだ。そのときに伴う痛みを克服する手段も……。』
黄金の序曲、そして夜明けとともに訪れる栄光と栄誉のために。王の目的を知る者は、かつて彼と活動した二人の従者だけだ。しかし彼らも伝え聞いた玉音を正しくは理解しきれていない。最も正確なる理解者はもう一人の王を置いて他にはいない。だがもう一人の王はまた、最大の反対者でもあった。
城から離れた森のなか、清水に身を浸していた王は、葉を透かす陽光の影にたたずむ黒き星を見た。両儀両極となる二つの月、二つの陽、そして万斛の星々。天を往く万物はその誕生にさかのぼる鴻荒より、相互に作用する絶妙な力のもとで運行されていることを、地上の生物は知っているのだろうか。
『何物も天則より逃れられないのだろうか。』
地に普く人々も、相互に作用する見えない力、導きのもとで生きている。
『導きにより織りなされる未来が破綻であってはならない。』
そよ風に喜ぶ桐のささやきに、鳥の百囀りがまじる。ただただ静かな水鏡が王を二人に分かつ。
『君よ、僕と決別し矛を交わした君よ。』
王はゆっくりと立ちあがり、さざめく水鏡をじっと見つめた。王となることを拒んだ男。偶像のような笑顔を浮かべた男。肌は弛みをみせず、といって若々しく張りつめているのでもない。緑の瞳が水底に佇む男をじっと見つめていた。頬の小さなかさぶたがひくひくとうごめいている。
『君よ、僕のなすことに反対した君よ、そろそろ登壇の時間だ。』
王はゆったりとした足取りで九重へと引きあげていった。
背離せし二人の王は幾度も高御座で相見える。
――なるほど、余輩は確かに恐れている、余輩を生み出した奴儕の云いなりとなることを、余輩を幽閉より放った全一に操られることを、と玉座の王は云った。
鋼鉄の歯車、蒸気管、情報管、伝声管、集音管、自動開閉活栓、力動伝動装置、高速で上下する気筒。臣下は軋みをあげて役目をのみ果たす。王が語らいあう。
――そうだ、僕は恐れている、僕たちの愛した人々がまた歴史の回瀾に呑まれる日が来てしまうのを、世界が革まる機会を遠ざけてしまうのを、と水面の王は云った。
――その恐れはもっともだ、しかし卿は愛する彼らを過小に評価し、また過大に評価してもいる、総論的に云えば見誤っている、と玉座の王は応えた。
二人は玉座の前に掲げられた入れ子型の水盤越しに互いを見やる。冷却水の流れこむささやかな水面が真鍮の燭火を照り返して紅蓮にうねる。
――僕はまだまだ彼らを理解しきっていない、黒曜の下で理解すべきが僕たちなのに、君は自ら出歩くのを封じてしまった。
あふれた水は配管の隙間より滴り落ち、遠いところで薄汚い水柱をあげる。もとは王が身を浸していた清水だ。行く末は帝都の汚泥となる。
――卿のやり方には賛同できぬ、長き幽閉により忘れ去られし余輩はもはや何者をも導く身ではない、ただ行く末を見つめ、来たるべき日に曜天へ全てを返すだけである。全てを。
水面に映る王が小揺るぎして笑みを浮かべる。
――君も僕も未来を見る力はない、僕の愛する人と同じようにね、誰も未来がわからないから恐れてしまうんだ、恐れは未知への慄きだね、知らないがゆえに手数を限定してしまい、知っている過去を再生産してしまう、だけどそれは悪いことばかりではない、栄光と喜びの記憶は未来へ立ち向かう力を秘めているし、恐怖と怒りの記憶は未来を繰り返しにしてはならないという力を与えてくれる、と王は朗々とつづける。
――だから〈扉〉を開こうというのか、そして彼らに力添えしようというのか、と玉座の王が笑うと部屋が鳴動した。鋼鉄の歯車たち、鋼鉄の蒸気管たちが盛大に軋みをあげる。
――とんだ見誤りをしていたのは予であったか、卿が過小にして過大な評価を下しているのは彼らに対してではなく、卿自身に対してであったとは、と玉座の王が云う。
――云ってくれるものだ、自ら恃まずしてなにを革められるというのか、僕は君と違って彼らを突き放したりはしないよ、最後まで付き合うと決めているのだから、最後まで付き合ってくれる友がいるのだから、と水面に映る王が云った。
――だから〈黄金の夜〉を出来させたというのだな、余に追い詰められてなおこの城を忍び出ているというのだな、〈全一機関〉を使役しようというのだな!
玉座の王は緑の目を輝かせた。
――そうだとも! 僕は君を振り切り彼らを幸せにしてみせる!
水面に映る王もまた同じ色の目を輝かせて応えた。そうして水底に沈んでいく。九重の城壁を抜け出るために。人々と交じりあうために。
――有り得ざる緑眼は万能でないと識れ、と王が云った。
王の相貌は黄金の仮面に覆われていた。
『君よ、君に任せていては歴史が繰り返されてしまう。』
清水に映る王の相貌は光に満ちていた。