偶然の出会い
夏休みの合宿も四日目を迎えたその日、不思議なことが起こった。
ぼくたちが合宿をしていたスポーツ施設内には他にもいくつかのグラウンドや体育館、宿泊施設があり、他の高校のラグビー部や大学のテニス部などが合宿をしていたが、その日の午前中は同じスポーツ施設の敷地内で合宿をしているある大学陸上部の練習の見学に行くことになった。
合宿も四日目になると、ぼくたち一年生と二年生の選手たちにはかなりの疲労がたまっていたが、炎天下で毎日コーチをする三年生たちもそれは同じだった。
全員の疲れを少しでも癒すためか気晴らしのためか、大学陸上部の見学は、前の晩に杉下先生が突然言い出したことだった。
その日、普段より一時間ほど遅く朝食を取ると、ぼくたちは大学の練習グラウンドまで歩いて行った。
途中にいくつものグラウンドがあり、ある大学のラグビー部や女子大のラクロス部、高校のサッカー部が練習をしていた。ぼくたちは彼らの練習を見ながら、目的地まで本来なら二〇分程の道を一時間かけて歩いた。
その大学陸上部の練習グラウンドに行くには、まず彼らが宿泊している宿舎ロビーを通らなければならない。宿舎に到着し、杉下先生がフロントにわれわれが来たことを伝えている間、ぼくたちはロビーで待った。
ロビーの壁にはそこに宿泊している高校や大学名が書かれた大きな札がいくつも掛かっていた。
"M大学ラグビー部御一行様""T女子大学ラクロス部御一行様""都立F高校ブラスバンド部御一行様""静岡県立S高校サッカー部御一行様"といった札が全部で八つ。
フロント横の通路から一人の男性が現れ、杉下先生がその男性に気づくと彼に歩み寄り二人は握手を交わした。二人はしばらく話をしていたが、その様子から二人がとても親しいことが分かった。この男性も杉下先生の同級生か後輩かもしれない。
彼ら二人がフロント前で話をしているとき、ぼくは壁に掛かったひとつの札に目が留まった。
"W大学陸上部御一行様"とある。
W大学はぼくの兄が卒業した大学で、兄はまさにこの陸上部に所属していた。四年生の時には4×100メートルリレーのメンバーとしてオリンピック代表選手候補にもなっていたが、アキレス腱を痛めて結局最終メンバーに残ることはできなかった。
杉下先生と握手を交わした山下と自己紹介したその男性は、W大学陸上部のコーチだということが分かった。山下コーチに案内され、ぼくたちはグラウンドに向かった。
グラウンドに出るとすぐに、大勢の男女選手たちが、トラックをジョギングくらいのスピードで走るのが目に止まった。また四〇〇メートルトラックの直線部分から外にはみ出した短距離のスタート地点では、スタートダッシュを練習する一〇数人の男女選手たちがいた。そして選手たちとは明らかに違う服装をした何人かのコーチもいる。
ぼくたちは山下コーチに連れられスタート地点の近くまで来た。
スタートラインに二人ずつ選手が並び、クラウチングスタートの姿勢からコーチの笛の合図で勢いよくスタートを切っている。そして二〇メートルくらい走ると力を抜きスタート地点に戻るという練習をしていた。
どの選手もクラウチングスタートの姿勢になり両足の位置を決めるとピタッと体が止まった。そしてコーチの笛の合図がすると、彼らはピストルから発射される弾丸のように飛び出していく。その速さにぼくたちは思わず声を上げた。
短距離走のスタートはアメリカンフットボールにも通じるものがある。
杉下先生はぼくたちに彼らの練習から何かヒントを掴んで欲しいと考え、ぼくたちをここに連れてきたことはすぐに分かった。
ぼくが食い入るようにじっと彼らのスタート練習を見ていると、誰かが後ろからぼくの肩を叩いた。振り向くと、背の高い、子供のころから見慣れた顔がそこに立っていた。
「え? 兄さん!」
ぼくの肩を叩いたのは久しぶりに会う兄だった。
兄は何も言わず笑顔でぼくに応えた。
「偶然だねえ、こんなところで会うなんて」
ぼくがそう言うと、兄はただ笑っただけだった。
もしかしたら、ここで会ったのは偶然ではないのかもしれない。兄はぼくが来ることを事前に知っていたのではないだろうかと、ふと思った。
「それにしても、お前がアメフトとはなあ。驚いたよ」
兄が言った。
「少し体を鍛えたいと思ってさ」
「夏休みまでもつなんて、お前もたいしたもんだな。少し見直しだぞ」
兄は皮肉ではなく、本当に感心しているという口調でそう言った。
山下コーチがぼくと話している兄の存在に気づくと、兄に声をかけた。
「おお。来たか。ちょうどいい、スタートのコーチ頼んでいいか?」
山下コーチが兄にそう言うと、兄は「了解しました」と言いながら、スタート地点に歩いていった。
兄の存在に気づいた大学の選手たちの中には、緊張の面持ちで挨拶をする選手や、笑顔で迎える選手もいた。
ぼくと兄が話していたことに気づいていたマネージャーの小田がぼくに訊いた。
「あの人、誰なの?」
「え? ああ、昔近所に住んでたお兄さん」
ぼくがそう言うと、小田は不思議そうな顔をした。
ぼくたちは結局、兄がコーチするスタートの練習をそれから一時間ほど見学していた。その間、ぼくは誰にもその臨時コーチがぼくの兄であることを言わなかったし、兄もそばで見ているぼくを気に止める様子もなく、ただひたすら後輩たちの指導をした。
まだまだ練習は続いていたが、練習の邪魔になるからそろそろ引き上げようと言う杉下先生の言葉で、ぼくたちは練習場を後にした。
帰り際、ぼくが振り向いて兄を見ると、兄もぼくを見つめていた。そして、その目が「頑張れよ」と言っているのが分かった。「ああ、頑張る」ぼくは心の中でそう応えた。
W大学陸上部の練習グラウンドから戻ったとき、まだ昼食までは時間があった。
ぼくはみんなが宿舎に戻っている間、一人でグラウンドに出た。
一人で立つグラウンドはいつもより広く感じられた。
空には雲ひとつない青空が広がっていた。
太陽からの眩しい光はなにものにも遮断されずにグラウンドに降りそそいでいる。そしてグラウンドから立つ空気は、陽炎のようにゆらゆらと揺らめいている。周りにそんなに木があるわけではないのに、けたたましいほど蝉の鳴き声がする。
ぼくは数十分前の兄との不思議な“出会い”のことを考えていた。
兄は後輩に指導する中で、いろいろな言葉で後輩たちを指導していた。
「早くスタートが切れるようになるには、とにかく練習するしかない」
「スタート地点に立ったら自然体でいること」
「体の力を抜け!」
「スタートの合図に集中しろ!」
ぼくは兄が後輩たちに発したそれらの言葉を考えていた。
確か、先輩の村岡も同じことを言っていた。
「体に余計な力を入れるな!」
「QBのスナップカウントに集中しろ!」
「早く走れるようになるには、とにかく練習しかない」
ぼくは、兄と村岡の言葉を交互に思い浮かべながら、誰もいないグラウンドの真ん中に立った。
「QBのスナップカウントに神経を集中させる。カウントと同時に体に余計な力が入っていない自然体からすばやくスタートを切る。早くスタートが切れるようになるには、とにかく練習しかない」
ぼくは自分にそう言い聞かせながら、テールバックのポジションについたつもりで中腰に構えた。
すると、体のいたるところに力が入っているのが分かる。自然体どころではない。膝にも腰にもどっしりと体重がかかりガチガチの状態だ。
その姿勢からスタートを切ってみるがスムーズなスタートは切れない。足に体重がかかっていて一歩目が遅すぎるからだ。
ぼくは何度も何度もスタートを切った。でも、どうしてもいいスタートが切れない。
そこへ、金網で囲まれたグラウンドの入り口から誰かが来るのが見える。 それはボールを持った江本だった。江本はゆっくりとぼくの方に歩いてくる。ぼくは、江本が来るのを待った。
「ツッチー、ピッチしようか?」
江本はぼくにボールを投げた。ぼくは受け取ったボールを江本に投げ返して言った。
「ああ、頼むよ」
江本はぼくに背中を向けQBの位置につくと、ぼくは江本の後ろのテールバックの位置についた。
「レディー、ゴー!」
江本の合図でぼくは右のオープンに走ると、江本も一緒に走ってぼくにボールをピッチする。そしてまた同じ位置に戻ると、今度は左に走った。
そうやって、ぼくたちは、スタートとピッチの練習を何度も何度も繰り返した。
ぼくは無心に走り、江本のピッチを受け取った。
ひたすらそれを繰り返した。またボールに集中することで、次第にセットしたときの姿勢に余計な力が入らなくなった。そしてその姿勢から、スタートの一歩目もすばやく出せるようになっていった。
そんなに簡単に兄や村岡の言う“自然体”が理解できるはずがないことは分かっていたが、それでもぼくは少しだけスタートのコツをつかんだような気がした。
「二人とも! ご飯、食べないの!」
どこからか、そうぼくたちを呼ぶ声がする。
それはグラウンドの入口からぼくたちを呼ぶ、マネージャーの小田の声だった。ぼくと江本は、昼食の時間になったことにも気づかずに、二人だけで黙々と練習を続けていたのだ。