防具をつけた本格的な練習が始まる
五月も終わりに差しかかったある日のことだ。
このころ部員全員は昼休みに体育館の並びにある体育教官室前に集まりベンチプレスをするのが日課になっていた。ぼくはまだ三〇キロのバーベルを挙げるのがやっとだったが、小野寺や安田や江本は六〇キロを軽々と挙げていた。
それでも入部したばかりのときに比べたら、ぼくの胸や肩や腕の筋肉は見違えるほど増えているのが分かった。毎晩家でノルマにしている一〇〇回の腕立て伏せと腹筋運動、それにジョギングも欠かさずに続けていた。
ぼくが横になってバーベルを挙げているとき、白いワゴン車がゆっくりと正門からの坂を上がってくるのが見えた。そしてワゴン車はぼくたちの前を通り過ぎると体育教官室の脇に停車した。
三年生が引退した後、キャプテンになった二年生のQB樋口が停車したワゴン車を見ると、まるで車が来るのを待っていたかのようにゆっくりと立ち上がり体育教官室のドアをノックした。そしてドアを開け、教官室にいる杉下先生に「先生、来ましたよ」と伝える。
すると杉下先生は「おお、来たか」と言いながら教官室から出てきた。
サンダルを履き、ズルズルとサンダルの底を地面に擦りながら、杉下先生はワゴン車に近づいて行く。
ワゴン車の運転席からは、体格のいい二〇代半ばくらいの男が降りてきて、杉下先生に笑顔でペコリと頭を下げる。そして二人はワゴン車の前で親しげに立ち話を始めた。
もしかすると、この男は先生の大学のフットボール部の後輩かもしれない。ぼくは直感でそう思った。
「何か、嫌な予感がするね」
ぼくの後ろにいた阿達が、誰にも聞こえないくらいの小さな声でそう言った。ぼくは阿達に振り向いた。
「嫌な予感って?」
「オレ、あの人"タッチダウン"で見たことある。どこかの大学のフットボール選手だよ」
"タッチダウン"とは、アメリカンフットボール専門雑誌のことだ。雑誌に載っているくらいだから相当有名な選手に違いない。
「それで、嫌な予感ってなに?」と、ぼくが訊く。
「あの人、きっとオレたちの新しいコーチじゃないかな」
「まさか?」
もしかしたら、ぼくたち一年生を徹底的にしごくためにやってきたコーチかもしれない。そんな不安がぼくと阿達と、その周りにいた数人の間に過ぎる。
「実は昨日、家に杉下先生から電話があったんだ」
まるで何か重大なことを告白するようにそう言ったのは佐野だった。
「うちにもきた!」
それを聞いた澤田が驚いたように佐野を見て言った。
「マジで? うちにもきたぞ!」
佐野と澤田を見て叫ぶように言ったのは江本だった。江本はバーベルを置いて起き上がった。
「なんか不気味だよな。でもおふくろ、先生となに話したのか教えてくれないんだよ。別に、とか言ってさ」
江本がそう言うと、ぼくに訊いた。
「ツッチーのところは?」
このころから、ぼくは先生や先輩も含め、みんなから"ツッチー"と呼ばれていた。
「いや、ぼくは全然聞いてないけど」
ぼくは誰にも両親が離婚していることも、母がぼくの夕食の用意をした後に夜な夜な外出し、ほとんど家にいないことも話していなかった。先生から電話がきたときにも、もしかしたら母は家にいなかったのかもしれない。
しかし、なぜ杉下先生からみんなの家に電話が来るのだろう?
すると澤田が言った。
「これから新しいコーチが来てお宅の息子さんを徹底的にしごきますけどよろしいですか? とか、そういうことで電話してんのかね?」
「骨折の一つや二つは覚悟しておいてください。そんなことでいちいち学校に怒鳴りに来ないでくださいね、とか言ってたりしてな」
と言ったのは、プロレスラーを目指している幸村だった。
その時だった。
「さあ、一年生集まれ!」
杉下先生の集合のかけ声がかかった。
杉下先生の声は、一般の三〇代男性と比べると一オクターブ高くしかも裏返っている。先生本人の話によると、大学のころアメリカンフットボールの練習や試合で声を出しすぎて喉を潰してしまったのだそうだ。
ぼくたち一年生はベンチプレスの手を止め、何だろうとお互いに顔を見合わせながらワゴン車に向かった。それはまるで、これから予防接種をするから、もの凄く痛いけどとりあえず一列に並びなさいと言われた小学生のような、ほとんど恐る恐るという感じだ。
二年生たちを見ると、五人とも顔いっぱいにニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべている。彼らはきっと何かを知っているのだろうが、意地が悪いからぼくたちには教えてくれない。
なんだか、とても嫌な予感がする。
杉下先生と車の男が、ワゴン車の後ろのドアを背にして立っている。その二人を囲むようにぼくたちは集まった。
「えっと、紹介しよう。私の大学のフットボール部の後輩で、山岡君」
やっぱり先生の後輩だった。
「山岡です」
山岡と紹介された男は、ぼくたちに向かって軽く頭を下げた。ぼくたちも「こんちは」とか「オイッス」とか言いながら頭を下げた。
「すでに、君たち全員のご両親からは承諾を得てるんだけどね」
と、杉下先生が話し始めた。
"ご両親から承諾"?
その聞きなれない言葉が頭の中を駆け巡った。
"ご両親から承諾"って、いったい何だろう?
ぼくの頭の中では"ご両親から承諾"の意味のあらゆる可能性が駆け巡り、ほとんどパニック寸前だった。みんなも思わず顔を見合わせている。
「まあ、前置きはいいか」
と、杉下先生が山岡を見て言う。
「そうですね。じゃあ、先にアレしますか?」
と、山岡が先生に確認を取るような表情で言う。
「そうだね、先にアレしてから、説明は後にするか」
二人の会話は、まるでアステカ文明絶頂期のころの暗号文のようでまったく意味不明だ。本当にじれったい。さっさと「君たちを死ぬほどしごきに来たコーチでございます」と言ってしまえばいいのに!
その時、山岡が無造作にワゴン車の後ろのドアを開けた。
「ウォー!」
「オー!」
その瞬間、いっせいに歓声が上がった。
ぼくも思わず「うわー!」と叫んでいた。
ワゴン車の中には、数え切れないほどの真っ白な新しいヘルメットやショルダーパットが車の両脇に作られた棚にきれいに並べられ、その棚にはいくつもの色とりどりのジャージがハンガーに掛けられぶら下がっていた。そして、ボールやスパイクや、肘や膝のパット類、ヘルメットに付けるフェイスマスクがところ狭しと並べられていた。
車の奥には、ダラス・カウボーイズのランニングバック、トニー・ドーセットとピッツバーグ・スティーラーズのQBテリー・ブラッドショーのポスターがジャージの隙間から見える。
「山岡君は、私の大学の後輩だけど、いまは渋谷にあるアメリカンフットボール専門の防具販売会社に……」
もうだれも杉下先生の言葉など聞いていない。
ぼくたちは、まるで南米の密林奥深くに眠る伝説の黄金を掘り当てた探検家のように、声を上げ一斉にワゴン車に群がった。
「ウォー! すげぇー!」
「オー!」
興奮したときのぼくたちのボキャブラリーは非常に貧困だ。「ウー!」とか「アー!」とかいう言葉しか出てこない。
「うゎー!」
「ヒョエー!」
まるでその様子は初めて火を見る原始人さながらだ。
「オー!」
「ウォー!」
「お前たち、ちょっと待て待て……」
という先生の制止も聞かず、ぼくたちはみんな勝手にヘルメットやショルダーパットを手に取っている。佐野と幸村はすべにヘルメットをかぶっている。
「幸村、オレの頭、叩いてみ?」
佐野にそう言われて、幸村は佐野の頭をヘルメットの上から素手でバシバシと叩く。
「痛くねえ! ガッハッハ!」
と、佐野が大声をあげて笑っている。そりゃ当たり前だ、ヘルメットをかぶってるんだから。きっと叩いている手の方が痛いだろう。
「オレも、オレも叩けよ!」
今度はヘルメットをかぶった幸村の頭を佐野が叩く。
バシッ!
「マジ痛くねえ! ガッハッハ!」
杉下先生が、非常に申し訳なさそうに山岡に対し恐縮しているのが分かる。
「山ちゃん、悪いね」
「いや、いいっすよ」
山岡はさすがに"タッチダウン"で紹介されるほどのスポーツマンだ。これくらいのことには動じないらしい。
阿達が、その山岡のことがずっと気になって、この喧騒の中で杉下先生に訊いたところ、山岡は数年前に杉下先生の出身校でもあるN体育大学が関東大学選手権の決勝まで進んだときのQBだったということが分かった。
先生にその話を聞いていた阿達と、ぶかぶかのヘルメットをかぶり学生服のワイシャツの上にショルダーパットを付けた不格好な澤田とぼくの三人の目が合った。
「コーチじゃなくてよかった!」
阿達と澤田の目はそう言っていた。
この人がコーチだったら、どんなにしごかれていたか分からない。山岡は仁王立ちに竹刀が似合いそうな、そんな鬼コーチのオーラを持っている。
そしてこのデパート特設会場のバーゲンセールさながらの興奮は、それから数分間続いた。
ようやく興奮も収まると、ぼくたち一年生は山岡にアドバイスを受けながら、自分たちのサイズに合ったヘルメット、ショルダーパットを選びそれぞれ注文書に記入し最後にサインをした。それから膝や大腿部を守るための二イパットとサイパット、練習用のパンツ二枚とジャージ二枚も併せて注文した。
全員が注文した防具が揃うまで一週間ほど時間が必要だという。それが揃った時点で山岡が学校まで届けてくれる段取りだ。
杉下先生が全員の両親に承諾を得ていると言ったことはつまり、アメリカンフットボールの防具を一式揃えるにはそれなりの金額もかかるし、家計の負担になるかもしれないが、それを了承してもらえるだろうかということを、わざわざ全員の家に電話をかけて確認していたのだった。杉下先生という人は、そういう律儀なところがある。
ただ両親に承諾を得ているといっても、厳密に言えば"両親"ではない。
江本の家では父親が、江本がまだ小学生のときに交通事故で亡くなっていた。幸村の家は詳しい事情は分からないが父親がいるだけで、年の離れた姉がずっと幸村の母親代わりだったそうだ。ぼくの両親もすでに離婚している。そうやって、みんなそれぞれに家庭に事情を抱えている。
「すみません先生。電話したとき、うちの親父、酔っ払ってませんでした?」
杉下先生に質問したのは幸村だった。
「そうだな、だいぶご機嫌の様子だった。立派なプロレスラーに育てて下さいってお願いされた。お父さんの期待に応えられるように、頑張らないとな」
先生がそう言うと、みんなから一斉に笑いが起きた。
それから一週間後、真新しいヘルメットとショルダーパットを着け、真っ白い練習用ユニフォームに身を包んだぼくたち11人の一年生が放課後のグラウンドに立っていた。
マネージャーの小田もどこから調達したのか、新しい、真っ赤なホイッスルを首から下げていた。
「どうしたの? 買ったの?」
と、ぼくが小田に訊いた。
「小宮さんに買ってもらっちゃった!」
真っ赤なホイッスルは、引退した三年生マネージャー小宮からのプレゼントらしい。このホイッスルで、いま以上にぼくたちをしごくつもりだ。
グラウンドで真新しい防具に身を包んだぼくはたち一年生は、それぞれが防具の感触を確かめるように体を動かしている。
ショルダーパットを着けた状態で腕がどこまで上がるのか、ヘルメットをかぶった時の視界はどこまでか。ニイパット、サイパットを入れたパンツで走ったとき膝がどこまで上がるか。
ぼくは江本とキャッチボールをしながら、肩を回したりしながら防具の感触を確かめていた。
ボールを一球一球確かめるように投げるフェイスマスク越しに見る江本の顔は、以前にも増してたくましく見える。
そしてぼく自身も、部室棟のトイレの鏡でフェイスマスク越しに見る自分がどんな顔をしているのか確認したばかりだった。
鏡に映ったその顔は、それまで見たことのない、自分でも意外なほど自信に溢れる表情をしていた。その顔を見たとき、ぼくは確実に最初の大きなステージをクリアしたのだと実感した。
この日から基礎訓練を終えたぼくたち一年生は、二年生に混ざって本格的な実戦練習を開始する。
"ピッー!"
午後四時。練習開始を告げる小田の新しい笛の音がグラウンドにこだまする。それはまた、ぼくたちにとって、新たな一日の始まりを告げる笛の音でもあった。