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モヒート  作者: アキツアキオ
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厳しい練習に耐えて

 アメリカンフットボール部に入部してからの約一ヶ月間、ぼくたち新入部員の練習メニューは体を鍛えるための基礎訓練が中心だ。

 腕立て伏せや腹筋運動、二人一組になって首を鍛える運動、ベンチプレス、二〇メートルダッシュ、五〇メートルダッシュ、一〇〇メートル走、千五百メートル走など。単調で体力的にかなりきつい練習の繰り返しだ。

 放課後の約二時間の練習時間の中に、細かく練習内容ごとに時間が割り振られていて、ストップウォッチと笛を首からぶら下げた女子マネージャーが次の練習メニューに移るとき、号令とともに“ピッ!”と笛を吹く。ぼくたち新入部員はその笛に従い次々に練習をこなさなければならない。それはまるで軍隊のようで、練習をしていると言うより強制的にやらされているという感じだ。確かに自分で志願して入部したとはいえ決して楽しいことではない。

 ぼくたち新入部員に号令をかけ笛を吹くのが、同じく新入部員のマネージャー小田奈々子だ。

 小田はぼくたちがヘトヘトに疲れて地面に倒れていても“さあ、起きなさい”と言わんばかりに容赦なく笛を吹く。どんなに辛い練習をしているときでも、いつもニコニコ微笑んでいる。彼女はきっとぼくたちを励ましているつもりなのだろうが、彼女のその遠慮のない笑顔を見ていると無性に腹が立った。

 しかしこの基礎体力をつけるための練習は、後々の怪我を防ぐために欠かせないとても重要な練習だ。

 ラグビーなどのスポーツでもそうだと思うが、コンタクトの激しいスポーツでは特に首を鍛えておかないと大きな怪我にもつながりかねない。

 そして最初の一ヶ月間の基礎訓練を終えたところで、いよいよアメリカンフットボールの実戦に向けた練習が始まるのだが、ところがこの大切な基礎訓練のところで退部者が続出する。


 新入部員の多くはアメリカンフットボールの見た目の華やかさやカッコよさに惹かれて入部している。しかし実際の練習はとても地味で、またとても厳しい。入部後すぐに華やかさからはほど遠いということを思い知らされる。

 最初はボールに触れる機会も少ないし、防具も身につけないのでアメリカンフットボールというスポーツにコミットメントしているという感覚も薄い。基礎体力をつける練習は言ってみれば単なる肉体労働のようなものだから、よほどやる気にならない限りなかなかモチベーションも上がらない。

 中途半端な気持ちのまま続けている者は次第に練習についてゆけなくなり、放課後の練習をサボるようになり、最後には退部を決意する。

 ぼくが入部したときには二四人の新入部員がいたが、一人また一人と退部していって、部員の数は日を追うごとに少なくなっていった。


 アメリカンフットボールでは、フィールドでプレーする人数はサッカーと同じ一チーム11人だ。そして通常は攻撃と守備で完全に選手が入れ替わる。 ところがぼくが入部したときは、三年生の部員は六人で、二年生もわずか五人しかいなかった。全員合わせても試合に必要なぎりぎりの11人。その人数でそれまでどうやって試合をしていたのだろうと不思議になって、ぼくは先輩の一人に訊いてみると、その先輩から返ってきた答えは実に単純明快なものだった。

「試合の最初から最後まで全員が出るんだよ。交代の選手がいないんだから、しょうがないでしょ」

 ぼくはその答えに驚かされたが、どうやらそれは日本の高校フットボールのレベルでは特別変わったことではないようだ。攻撃と守備で選手が入れ替わるというのはあくまでも理想であって、現実はどこの高校のチームも部員が少ないためそうすることができない。

 ただ、強豪と言われる私立高校のチームは攻撃と守備で選手がほぼ入れ替わっていたし、他の公立校でも少なくとも数人の交代選手はいたが、創部して間もないM校のチームには一人の交代選手もいなかった。

 これではきっとまともな試合などできるはずがないと想像したが、別の先輩から創部以来二年間、まだ練習試合でも公式戦でも一度も勝ったことがないと聞かされた。

 創部一年目は、部員は六人だから練習試合すら出来ない。二年目も必要な11人ぎりぎりだった彼らにしてみれば、ぼくたち三期生の新入部員たちに大きな期待を寄せたのも無理はなかった。また三期生には、期待の新人が揃っていた。


 顧問の杉下先生や上級生たちから一番の期待を集めていたのが江本だった。江本は小学生のころは地元リトルリーグのエースピッチャーで四番打者。 中学三年のときにはバスケットボール部のキャプテンとして活躍し、週末にはサーフィンを楽しむ根っからのスポーツマンだ。

 そして中学時代は柔道でならした、小柄だが力のある安田と巨漢の小野寺。この二人は横浜市の柔道大会で戦ったライバル同士だ。

 澤田と阿達は根岸にあるアメリカンフットボールのクラブチームのジュニアチームに参加していた。M校アメリカンフットボール部始まって以来のフットボール経験者の二人は、フットボールに関する知識は誰よりも豊富だ。

 中学校の野球部でエースピッチャーだった長身の佐野は、野球部からの勧誘を振り切っての入部だった。ただし、佐野が野球部からの勧誘を断ったのは、当時M校野球部の頭髪の規定だった“坊主刈り”にしたくないという、ただそれだけの理由だった。

 そして将来は本気でプロレスラーになることを夢見て、日々ヒンズースクワットに励んでいた幸村。中学時代に横浜伊勢崎町の繁華街で数人の高校生に因縁をつけられた時、一人で高校生たちを打ちのめしたという逸話もある。幸村はかなりの近視なのに授業中以外メガネをかけることを極端に嫌がった。そのせいでメガネをかけていない時は目付きが悪く、一見怖そうに見えるがいつも冗談ばかり言っているとても気のいいヤツだ。数人の高校生にからまれたのも、その目つきの悪さのせいかもしれない。

 そしてぼくも含めた“その他大勢”だが、その中にも鍛え上げれば伸びそうな人材が何人もいた。しかし残念なことに、その“その他大勢”の中から退部者が続出した。一ヶ月の基礎訓練が終わるころには、二四人の新入部員のうち一三人が退部し、残ったのは僅か11人だった。


 顧問の杉下先生や先輩たちは、ぼくが真っ先に退部するだろうと思っていたはずだ。そしてぼく自身も最初の一週間を終えたところで、この先とても練習にはついていけないと思い、退部するためのいろいろな言い訳を考えていた。しかし不思議なことに一ヶ月たってもぼくはまだ辞めずに部に残っていた。

 ぼくにとって、こんなに激しい運動をするのは生まれて初めてで、どの練習メニューも辛かった。

 最初のころは、腕立て伏せや腹筋運動も一〇回続けるのがやっとで先輩たちを呆れさせていた。千五百メートル走ではまったく走るペース配分が分からず、先頭の江本から周回遅れで常に最下位だった。江本から二周遅れにならなかったのは、最後はいつも江本が一緒に走ってくれたからだ。

 心臓が破裂しそうになり、ゴールした瞬間にはいつもその場に倒れこんで、この時ばかりはいくら小田が笛を吹いても、しばらくは動くことすらできなかった。

 ぼくが辛うじてみんなについていけたのは短距離走だけだった。これだけは陸上短距離選手だった兄に似たのか、ぼくは短距離を走るのは決して遅いほうではなかったので、百メートル走ではビリにはならなかったし、走り終わってみんなが息を切らしていても、ぼくはまだ少し余裕があった。しかしその余裕も他で吐き出しているので、合算すればかなりのマイナスなのだが。


 ぼくは毎日練習についていくのがやっとで、毎晩ヘトヘトになって帰宅すると、シャワーで汗を流して夕食をとると、二階の自分の部屋のベッドに入ってすぐに眠ってしまった。そして時々授業中も教師に分からないように机にうつぶせになって眠り放課後の練習に備えた。高校とは本来勉強するために行くところだが、まったく勉強どころではない。入部してからの一ヶ月間は毎日がほとんどその繰り返しだった。

 辛い練習に耐えられなくなって他の新入部員たちがどんどん辞めていくなかで、体力的に一番劣るぼくがあの時なぜ辞めなかったのだろうと時々考えることがある。


 当時のことを思い出すと、ぼくの家の中では様々なことが起こっていた。

 ぼくの両親はすでに離婚していたが、その理由が父に別の家庭があるからだと分かったのが、高校に入学する少し前のことだ。母は離婚後、孤独を紛らわせるためかアルコールに依存するようになるが、家でも、外でも酒を飲み、時々家に帰らないこともあった。

 ぼくが部活の練習から帰っても家の中に母の姿はなく、テーブルの上に母のメモ書きと、その横に夕食が用意されていることもあった。

 W大学陸上部のエースだった兄は、4×100メートルリレーの選手として次期オリンピックの日本代表選手候補として名前があがっていた。しかし兄はアキレス腱の負傷のためにオリンピック出場を断念すると、まだ学生でありながら、突然付き合っていたガールフレンドと結婚する。


 父には別の家庭があり、大学を卒業したばかりの兄にもすでに家庭があった。高校生のぼくから見ても孤独そうに見える母は、毎日のように自分が分からなくなるほど酒を飲んだ。

 そして高校生のぼくは、家の中でほとんど一人暮らしと言っていい生活をしていた。

 どんなに練習が辛くても、アメリカンフットボール部を辞めなかったのは、実はとても単純な理由からだった。

 ぼくには他に行く場所がなかったからだ。

 先輩や他の新入部員たちがぼくのことをどう思っていたかは分からない。でも、ぼくにとって彼らは“友人”だったし“仲間”だった。唯一の話し相手でもあった。家では独りでも、練習に行くと仲間たちがいた。そして必死に練習についていこうとするぼくを、仲間たちは励ましてくれた。そんなアメリカンフットボール部が、ある意味、ぼくにとっての“家”であり、仲間たちは“家族”だったのかもしれない。

 ぼくはアメリカンフットボール部以外どこにも行くところがなかったし、杉下先生や先輩たちから「お前じゃ無理だから退部しろ」と言われるのが怖くて、苦しい練習に必死になってついていった。そうやって気がつくと、最初の一ヶ月が過ぎていたのだった。


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