プロローグ
中学時代の三年間、ぼくは学校の映画研究クラブに所属していた。毎週一回、クラブで横浜の図書館から16ミリフィルムの映画を借りてきて、視聴覚室で映画を上映するのがとても楽しみだった。
一五・六人いたクラブ員の他に、クラブの顧問である赤坂先生や他の教師たち、そしてクラブには所属していないが映画が好きな何人かの生徒たちが集まって映画を観て、上映後、観終わったばかりの映画について上映会に参加した全員で討論をした。
赤坂泰夫先生はぼくの中学一年のときの担任で、当時二七・八歳の英語教師だったが、大学生のときに脚本家を目指して東京にある脚本家養成スクールにも通ったという彼は、とても映画に詳しかった。
毎週上映する映画は赤坂先生と相談しながらクラブのみんなで決めたが、選んだ映画はいつも洋画だった。
『太陽がいっぱい』(監督ルネ・クレマン、主演アラン・ドロン)、『冒険者たち』(主演アラン・ドロン、リノ・ヴァンチェラ)、『突然炎のごとく』(監督フランソワ・トリュフォー)などのフランス映画にぼくが初めて触れたのも、チャップリンやヒッチコックの映画を観たのもこのクラブでの上映会が初めてだった。
幼い頃から色白で痩せっぽちな少年だったぼくは、運動はあまり得意な方ではなかった。
医師であり、剣道の有段者でもある父に、ぼくがまだ四・五歳のころ無理やり剣道の道場に連れて行かれたが、嫌で三日と持たずにやめてしまった。小学校に入学してからも、放課後ぼくがほかの少年たちから野球やサッカーに誘われることはほとんどなかった。たまに人数合わせのために野球に誘われたこともあったが、ぼくはフライもゴロも取れなかったし、バットを振ってもボールはかすりもしなかった。そしていつのまにか、ぼくがほかの少年たちから誘われることはなくなっていた。
ぼくの親戚やまわりの人間たちは、何かにつけてぼくとぼくの七歳年上の兄とを比べたがった。
父の教えに従って剣道を続けた兄は、中学校では剣道部のキャプテンになった。もともと子供のころから足の速かった兄は、高校からは本格的に陸上を始め、100メートルと200メートル走でインターハイに出場し、大学生になると4×100メートルリレーのオリンピック日本代表候補のメンバーとして名前が挙がったこともあった。
兄は勉強もよくできた。恐らく兄の成績は、中学・高校を通して学年全体で五番以下に下がったことはなかっただろうと思う。兄は両親にとって自慢の息子だった。ぼくはそんな兄と比べると、本当の兄弟かと思うほど勉強も運動もできなかった。
そんなぼくは、中学校に入る頃にはすでに兄や周りの人間に対して強い劣等感を持っていた。
ぼくは無能で何の役にも立たない、きっとこの世の中にいてもいなくてもどうでもいい、くだらない人間なんだという強い脅迫観念があり、その思いを拭い去る手立てをぼくは知らなかった。
学校には一人の友人もいなかったし、家に帰ると自分の部屋に篭り、本を読んだり、音楽を聴きながら過ごしていた。そしてこの頃からぼくの心の中に、徐々に、ある種の逃避願望が芽生えていった。
自分が置かれた状況から逃げ出したい。どこか遠くの世界に、いまの自分をそのまま受け入れてくれる世界に行きたいと強く願った。しかしもちろんそんな場所を探すことなどできなかったし、現実的には、もしぼくが一歩でも家の外に出てしまえば生きていけないことは、ぼく自身が一番よく知っていた。
この頃のぼくは常にイライラして、怒っていて、その怒りは体の中で煮えたぎっていたのだが、ぼくにはその怒りを発散させる場所もなかったし、その方法すらも分からなかった。
ただ、それでも少なくとも家には温もりがあり、家にいるときはぼくは家族に守られているという安心感があった。しかしその家族も、ぼくの中学入学と同時に、何の前触れもなく両親の離婚によって崩壊する。
両親の離婚後、父は家を出て、すでに大学に進学していた兄も家を出ると、家にはぼくと母の二人だけになった。そしてぼくは以前にも増して自分の殻の中にこもり、外の世界との接触を拒むようになる。
そんな時期に、ぼくは担任の赤坂先生の強い勧めで映画研究クラブに入会する。そしてクラブでの上映会を通して次第に映画の世界へとのめり込んでいった。
暗幕を張り、真っ暗になった視聴覚室のスクリーンでぼくが初めて観た映画は『明日に向って撃て!』というアメリカ映画だった。西部開拓史時代のアメリカに実在した銀行強盗ブッチ・キャッシディとサンダンス・キッドをポール・ニューマンとロバート・レッドフォードが演じていた。
仲間たちと共に銀行強盗を繰り返した二人は、執拗な追っ手の追及から逃れるために南米のボリビアまで逃げる。そしてボリビアでも銀行強盗を働いたブッチとサンダンスの二人は、ボリビアの軍隊にまで追われる身となる。
身を隠していた小さな町で追っ手との銃撃戦になり、二人は命からがら逃げ込んだ小屋の中で拳銃に弾丸を込めながら、この窮地を逃れたら次はオーストラリアへ行こうと約束する。二人は体勢を整え、両手に拳銃をかまえて小屋を飛び出すのだが、二人はその小屋が何百というボリビア兵に完全に包囲されていることなど知る由もない。
ラストシーンはブッチとサンダンスが両手に銃をかまえて小屋から飛び出したところでストップモーションとなり、ボリビア兵の「撃て!」の掛け声と共に一斉射撃の銃声が響く。衝撃的なラストシーンだ。
学校の視聴覚室で“映画”というものを初めて体験し、最初の登場シーンから二人の主人公に魅了されたぼくは、映画の途中もまさに手に汗を握りながらブッチとサンダンスがどうやって追っ手から逃れるのだろうと主人公の二人を見守っていた。映画の主人公なのだから最後は絶対に逃げ切るはずだ。そう信じて疑わなかったぼくは、二人が何百というボリビア兵に包囲され絶対絶命のピンチに陥っても、奇跡的にその危機を切り抜けるものと信じていた。ところがぼくの期待を完全に裏切る衝撃的な結末。
ラストの瞬間、ぼくはまるで心臓を誰かに鷲づかみにされ、そのままシートに押さえつけられたようにまったく動けなくなり、氷のように固まってしまった。瞬きすらできないでいるぼくの目の前で、ブッチとサンダンスが銃をかまえたままのストップモーションの映像が徐々にセピア色に変わると、バート・バカラックの静かなピアノの曲が画面にかぶさり映画は終わる。
ぼくは映画が終わって誰かが視聴覚室の明かりをつけて暗幕を開けたときにも身動きすらできないほどの衝撃を受けていた。そしてしばしの間、憔悴にも近い感情がぼくを包んだ。ぼくはその瞬間から、映画の世界の虜になっていった。
ぼくはすぐに毎週一回の上映会には飽き足らなくなって、中学一年の夏休みになる少し前から自分ひとりで映画館に行くようになった。ぼくはそのころ、毎朝母から昼食代としていくらかのお金をもらっていたが、ぼくは学校で食べる昼食の量を減らして少しずつ貯めたお金を日曜日に映画館に行くための資金にあてた。
ぼくは毎週、映画雑誌や新聞で上映されている映画の情報を確認し、横浜や大船や藤沢にある名画座に行った。
そのころぼくがよく行った“名画座”と呼ばれる映画館は、現在のシネマコンプレックスのような床にきれいな絨毯を敷きつめた豪華な映画館ではなく、裸のコンクリートの床に座席がボルトで打ち付けられているといった、質素な造りの映画館が多かった。
夏はガタガタと大きな音をたてるクーラーがこれでもかとばかりに冷房をきかせて、首の後ろやTシャツからさらけ出している腕が冷たくなった。冬は冷え切ったコンクリートの床からの冷気が映画館全体を覆い、コートを着ていないと凍えるほど寒くなることもあった。そして座席の座椅子や背もたれなどには、ところどころ綻びがあった。
映画はたいてい二本立てでの上映だった。ぼくは映画上映の最初の回に合わせて朝一〇時前に映画館に行き、売店で瓶のコーラを買ってそれにストローを差して、座席に座りコーラをちびちび飲みながら上映が始まるのを待った。そして館内の明かりが落ち、スクリーンに明かりが灯ると毎回のようにぼくの胸は高鳴った。
上映されている映画を二本とも観終わってから、その映画が気に入るとそのままずっと映画館にいて、繰り返し同じ映画を何度も観た。今では完全入替制の映画館ばかりだが、当時はそういうこともできたのだ。そして帰りはいつも夜八時を過ぎていた。
毎週日曜日に映画館に行くのが楽しくて、月曜日にはもう次の日曜日が待ち遠しくてしかたなかった。そうやって次から次に古い映画や新しい映画、恋愛ものやミュージカル映画、サスペンスやSFや、刑事もの、ギャングもの、戦争映画、青春映画、ヌーヴェルヴァーグ、アメリカン・ニューシネマ、ロードムービーなどあらゆるジャンルの映画を観ていった。
暗闇の中で目の前のスクリーンを見つめているときぼくの心は落ち着いた。自分の周りの嫌なことを、学校のことも両親の離婚のことも、映画を観ているときはすべて忘れることができた。これを現実逃避と言うのかもしれないが、ぼくには映画の世界の中に逃げているという意識はなかった。ただ純粋に映画が好きなだけだった。そしてぼくの心の中に芽生えていた逃避願望は、映画という世界を知ってから徐々になくなっていった。
いくつもの映画を観ているうちに、ぼくはだんだんと自分が好きな映画や、自分が心地よいと感じる映画にはある一定の傾向があることも分かってきた。
ぼくは映画のストーリー展開より、むしろその映画の醸し出す“空気”や“色”でその映画が好きか嫌いかを決めていた。特にぼくは、『サムライ』(主演アラン・ドロン)や『暗殺の森』(主演ジャン=ルイ・トランティニャン)、『死刑台のエレベーター』(監督ルイ・マル)、『男と女』(監督クロード・ルルーシュ)といったヨーロッパ映画の醸しだす独特な雰囲気のある、深くて、重くて、どんよりと湿ったような空気や色が好きだったし観ていてとても心地よかった。
また主演俳優のオーラや俳優が演じる役柄の雰囲気もその映画が好きか嫌いかを決める重要な要素になった。『サムライ』『冒険者たち』のアラン・ドロン、『暗殺の森』『男と女』のジャン=ルイ・トランティニャンは特に好きだった。アメリカ映画では『スケアクロウ』『狼たちの午後』のアル・パチーノ、『チャイナタウン』のジャック・ニコルソン、『コンドル』『華麗なるギャッツビー』のロバート・レッドフォードがぼくはとても好きだった。
ぼくはまた映画から自然に、学校や家では決して教えてもらえない様々なことを学んでいったように思う。
『ひまわり』(主演ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ)、『追想』(主演ロミー・シュナイダー)、『禁じられた遊び』(監督ルネ・クレマン)などの映画からは、戦争がいかに悲惨で、地道に暮らす庶民にとっていかに無意味なことかを教わった。またその他、題名をあげたら際限がなくなるが、ぼくは数多くの映画から人を愛することや人を信じることの素晴らしさを学び、また世の中の不正や差別や権力に対して勇気を持って立ち向かっている人たちがいることを知った。
ぼくは映画から、ぼくがこれから一人の人間として成長していくために必要な多くのことを学んだ。そして多くの映画を通して学び、様々な知識を身につけていくうちに、いつの間にかぼくの胸の奥深くにあった兄や周りの人間に対する劣等感は薄れ、両親の離婚による心の傷も癒されていった。
しかし相変わらずぼくには、映画を観てとても感動したとき、その感動を分かち合ったり、映画について語り合える友人が一人もいなかった。ぼくはいつもストローを差した瓶のコーラを飲みスクリーンを見つめながら、一人で笑い、一人で感動し、一人で泣いた。ぼくは、友人がほしかった。
中学校も卒業が近づくにつれ、ぼくはそろそろ映画からも卒業しなければならないことを薄々とではあるが感じていた。ぼくは高校に入学したら運動部に入ろう決めていた。そしてそこで、一人でもいいから真の友人を作ろうと思った。
中学校卒業式の朝、それまでの三年間ある意味でぼくを育ててくれた映画たちに、心の中で別れを告げた。将来、もしかしたら今度は違う形でまた映画の世界に戻ってくるかもしれない。そんな予感がしたが、しばらくの間、映画とはお別れだ。
そして高校入学後、ある運動部に入部したぼくは、そこで一人の友人と出会った。