◆43 間違えられた頁
※魔法使い視点
無くなった毒リンゴ。騒がしくなる城内。
猫の鋭敏な聴覚で、僕は何が起きたかを知り、肝が冷えた。慌てて長靴を履いて、僕は彼女の名を叫ぶ少女の元へ走る。
誰にも気づかれぬよう厨房をのぞき見れば、すでに王子やその他大勢の無表情な城の住人達が集まっていた。
その中心で、彼女を抱えたアリスが泣き叫んでいる。大粒の涙を、腕に抱く彼女の顔に零していた。
「ミチル! ねえ、どうしちゃったの? 起きてよ、ねえ起きて!」
「アリス、落ち着いて。ミチルは眠っているだけみたいだ」
「でも、何をしても目を覚まさないの!」
ああ、やっぱりと僕は眉間にしわを寄せた。口に苦い物が広がっていく。
「ど、毒って睡眠薬だったのね……これで良かったのよアリス。あなたがこんな風になるところだったんだから」
「ミチルがわたしにそんな事するわけない! もしそうだったとしても理由があったのよ」
動揺しながらも強気に言う妖精に、アリスは涙を流しながらも言い返す。
「どうしてそんなにミチルのことを悪く言うの? ミチルはリンクのことも心配してたのよ? ヘンゼルと喧嘩して、わたしが暴言を言ってリンクを悲しませたことを教えてくれたのは、ミチルだったの。それにお茶会にはちゃんとリンクのプリンもあったのに。そんなミチルがわたしに毒を飲ますと思う? 人を脅すような人じゃないわ」
「……そうなの? あたしが間違ってるの? で、でも本当に見たんだから。ミチルの部屋で、魔法使いさまとミチルが二人っきりになって、アリスとリンゴについて話をしていたのよ! ミチルが、毒リンゴって呟いていたわ」
「……あの人がミチルと……?」
妖精の言葉に、ヘンゼルが端整な顔を不審に歪める。
小妖精は、罪悪感を顔に浮かべて唇を噛み沈黙した。後悔するような性格ではないはずだが、その小さな体を震えてる。
どうやら妖精が余計な事をしてくれたらしい。あの時は、彼女に協力を取り付けることに気を取られていた。見られていたとは不覚だ。
事実とは異なる方向で妖精は勘違いをしてくれた。後日、毒リンゴをアリスの元に届けさせる手はずだったのに、早とちりした妖精は忌々しくも彼女に渡したのだ。
憤りを覚えても、全ては僕の失態。
怒りの余り、口角があがって冷たい空気が牙に当たる。僕は厨房の外で、低くうなった。
「食べてしまったリンゴはどのくらいだい?」
「ほんの一欠片だったわ。その台の上にあるの」
掠れた声で、アリスは台の上を指さした。ヘンゼルはそれを見て、呼び出したらしい医者に告げている。医者は首を振った。
僕も遠目から首を伸ばして、台の上にあるリンゴを確認する。調理前だったのだろう、毒々しいほどに赤い実は、切り取られた欠片を除いて丸い形を保っていた。紛れもなく僕が作った、魔法の毒リンゴだ。
「ミチル? 大丈夫……?」
アリスの涙声に、か細い腕の中に居る彼女を見やれば、渋面していた。
硬く閉じられた瞼から幾筋もの雫が伝っていく。アリスの物では無い、彼女自身の涙だ。
……彼女の泣き顔を見るのは、これで二度目だ。前の時も眠りながら泣いていた。
リンゴには眠りの魔法をかけただけだった。悪夢を見せる効果はないはずなのに、涙で頬を濡らす彼女は普通ではないうなされ方をしている。とても苦しそうだった。
「悪夢を見ているのかも知れない。ぼく達にはどうすることも出来ないな……」
「そんな! こんなに苦しそうなのにっ」
「何とかしたい気持ちはよくわかるよ……一先ず、彼女を部屋に運ぼう」
アリスの悲痛な言葉に、ヘンゼルは悔しそうに首を振る。
どうしてこうも思い通りに事が運ばないのだろう。これでは、物語がいきづまってしまう。彼女に呪いを掛けるはずではなかったのだ。
あのように、苦しませるために僕の世界に留めた訳ではない。彼女が眠りに落ちては、また物語が変わってしまう。
書いたとおりにならない状況に、僕の怒りはふつふつと煮えくりかえって膨れあがった。
ヘンゼルが、アリスの腕から彼女を持ち上げようとしたときに、またぽろりと彼女の目尻から涙が零れて頬を伝い、黒髪へと滑っていった。
それを見たとき、僕の感情は弾けた。
「ミチルを渡してくれ」
「……え? お前は――」
僕は人の姿へと戻り、音もなくアリス達の前に姿を現した。
青いローブを纏った魔法使いの僕に、その場に居た全員の時が止まる。彼らが動かないことを良いことに、僕は台の上にある残りの赤い実を掴むと、ヘンゼルから彼女を抱き取って距離を取った。
素早い僕の行動に、ヘンゼルが我に返る。
「お前は、……魔法使い!?」
「魔法使いさま!?」
どうしてここにと、苦々しくヘンゼルは呟き、妖精が高い声をあげる。アリスは状況が掴めていないようで、目を見張っていた。周りにいる無表情の者達は、現れた僕に対して反応することはない。
驚く彼らに、僕はにやりと邪悪に笑って見せた。
「そう。僕は悪い魔法使い。毒リンゴを彼女に食べさせるために、妖精を騙したのさ。思いの外上手くいって良かったよ」
思っていることとは、真逆のことを僕の口は淀みなく語った。
こんな最悪な方向に転がるなんて、思いもよらなかった。失敗も失敗、……大失敗だ!
「全部お前の企みだったのか? ミチルをどうする気だ!?」
嘲笑う僕に、果敢にもヘンゼルは腰から剣を抜いて構えた。
こんな展開になるはずじゃなかったから、僕はしばし返答に戸惑う。
どうするも何も、こうする予定はなかったのだから、はっきり言って、どうしようもなかった。
頬が引きつりそうになるほど、頑張って口の端を上げたまま考える。邪悪に笑うのは結構疲れると思った。
「……彼女はここに相応しくない人物だ。彼女にかけたのは永久の眠りにつく呪い。そうだね、ずっと眠っていて貰おうかな」
最後辺りは自分に言い聞かせるみたいになったが、悪役らしい台詞だろう。
温厚なヘンゼルの瞳に、怒りが燃え上がった。彼が僕に怒るための対象は違うけれど、仕方ない。
後は僕が去るだけだ。
ずれた物語は、これで方向を違えることなく進行するだろう。
僕は彼女を抱えて、宙に浮いた。ぞろぞろとしたローブが揺れる。
黒い大きな輪を横に出現させ、僕はそれをゆっくりと通り抜けていった。こんなものを出さなくても簡単に移動できるが、悪役が去るのにはぴったりな演出だ。
「待て、魔法使い!」
ヘンゼルが僕に剣を振るが、僕には見切れている。僕の青いローブに彼の剣先が触れることはなかった。
ちらりと横目で妖精とアリスを覗えば、妖精は惚けていた。
そして、アリスは長い銀髪が持ち上がるのではと思えるほどの怒気をはらんで、歯を食いしばり、僕を睨め付けてきた。視線で人が殺せるとはこのことだ。
……見なかったことにしよう。
輪に全身を通らせて、僕の根城である塔に移動した後。
僕はこんなはずじゃなかったのにと、しょんぼり肩を落として嘆いた。




