1953決戦、ハワイ沖海戦3
ホノルル郊外に設けられた滑走路は、上空から見る限り高規格で建設されたものだった。滑走路長は、エンジンをジェットエンジンに換装したことで離発着距離が原型機よりも更に増したB-60にも対応するものだったからだ。
おそらくは占領直後から米陸軍正規の工兵隊や徴用した現地人の労働力を集中動員して建設したのだろう。だが、外観は高規格であるものの、急増基地という感は免れないと新アロー号と名付けられたB-60を操縦するヘイル大尉は考えていた。
先に僚機が連続着陸していたものだから、滑走路上には土煙が盛大に上がって上空からの視界を一部遮っていたからだった。ヘイル大尉は副操縦士のスレーター少尉に肩を竦めると、ゆっくりと機体を旋回させていた。
この基地は、建設が完了するよりも早く運用が開始されていた。というよりも今でも工兵隊は拡張工事を行っているようなのだが、実際には規模が一定以上となると拡張よりも維持の方が工数が上回るようになってしまっているのではないか。
オアフ島内の適地にホノルル郊外の基地をバックアップする滑走路を建設するという案もあったようだが、滑走路の適地となる平地はいずれもこの人口過密なオアフ島内では現地民有力者の大規模農場などに使用されていて断念したらしい。
現地民の農場など徴用してしまえばよさそうなものだが、ハワイの占領地行政を担当する民政部から住民の反感を買う強引な徴用に難色を示す意見が出ていたという噂だった。
第一、ハワイ諸島に投入された機械化工兵部隊は航空基地建設に特化した部隊ではなかった。というよりも開戦前の米軍には航空基地建設専門部隊などなかったのだから、限られた時間内で複数の大規模航空基地を建設することは元々不可能だったともいえる。
そのような状況だったから、滑走路を一時的にでも使用できなくなる全面的な舗装工事はしたくともこれまで出来なかったようだ。転圧も不十分だったのか大重量のB-36が連続で着陸すると土煙が上がるような状態だったのだ。
それでもハワイ諸島には他にも滑走路がいくつか存在していた。占領前に英日などの資本と技術で建設されたものもあったようだが、規格が貧弱で米陸軍航空隊の基準では運用出来ないものばかりだった。ハワイ王国に在籍する航空機も限られていたから運用実績も殆どなかった。
英日の建設能力がそれほど米軍工兵隊よりも劣っているとは思えないから、そもそもハワイ諸島内の要人移動用と割り切って建設されたものなのだろう。だから大拡張を行わない限り不時着地程度にしか使用できなかったし、建設箇所によっては地形上拡張工事が不可能だったところもあったようだ。
だから、ハワイ諸島でB-36の基地として運用することが可能な航空基地は新設されたホノルル基地しか無かったのだ。
移動手段がハワイ諸島内に限られるという点では、海上輸送も大した違いは無かった。原住民が運用する時代遅れの手漕ぎ船や帆船には十分なのだろうが、どの島も貧弱な港湾施設しかなく、揚陸艇で乗り上げたほうが早いような島もあったほどだ。
外洋航行が可能な大型艦船が入港出来るのはオアフ島のホノルル港に限られていた。地形上の問題もあるが、喫水の深い外航船でも通過できる水道や港湾施設を複数用意できるほど在島する浚渫船団などには能力がなかったのだろう。
米軍の占領後も限られた港湾整備能力はオアフ島に集中投入されていた。ハワイ防衛艦隊の根拠地として整備されたということもあるが、主な理由は陸軍航空隊の支援を行うためだったようだ。
そもそもハワイ王国に米国が宣戦布告をしたのは、旧弊な王政を打倒してとか自由な市民がなんとかとかいうお題目を除けば、対日戦争を遂行するには太平洋の中間点にあるハワイ諸島が後方拠点として必要不可欠と考えられていたからだとヘイル大尉は考えていた。
開戦以後、占領されたハワイ諸島には米本土から運び込まれた膨大な物資が山と積まれていったことからもそれは明らかだった。更に西方のグアムやフィリピンに向かう船団も、ハワイ諸島を経由していたのだ。
開戦前に米軍がそうした中間経由地として使用していたのはハワイ諸島から2千キロ程西方にある米領ミッドウェー島だった。同島は相次ぐ拡張工事によって太平洋艦隊の拠点として整備されていたからだ。
だが、ミッドウェー島の拡張工事は限界に達していた。資機材の大規模な投入が難しい離島である上に、硬いサンゴ礁質で形成された同島の工事は出来高に対して恐ろしいほどの工数が必要だったのだが、滑走路長を確保するために司令部施設でさえ大半は地下に押し込められていた程だった。
そんな状態だったから、平時の中継地点として運用することは可能であっても、物資の集積地として運用するのはそもそも不可能だった。
対日戦争の主力手段として考えられていたB-36による戦略爆撃を実施するには、膨大な物資が必要だった。
B-36の機体重量はおおよそ60トンというところだったが、離陸重量は150トンに達していた。裏を返せば、一機あたり100トンもの資材を積み込むことになるのだ。
この全てが消耗品とは限らないが、出撃する度に交換する部品や、遠距離爆撃時でも5トンにも達する爆弾搭載量を加えればその程度の物資は消耗すると考えるべきだった。
つまりB-36の1個中隊10機が出撃するとすれば千トンもの物資が一度に消費されるのだから、これを事前に集積しようとすれば大型貨物船やタンカーで頻繁に運び込むしかなかった。
ミッドウェー島が戦時の拠点としては物足りないというのも当然だったが、結局中間経由地として使用するにしても燃料や物資の補充をB-36に対して行うには外航船が出入港可能なオアフ島に航空基地を建設するしか無かったのだ。
しかも、米軍の重爆撃機としては小さかったB-49からヘイル大尉達が機種転換を受けたB-60は、B-36にもまして大量の物資と、高度な整備を要求する機体だったのだ。
B-49の機長だったヘイル大尉が認めるのは少しばかり不愉快なこともあるのだが、開戦時の米陸軍航空隊で主力重爆撃機だったB-36は極めて有力な機体だった。
主に欧州で行われていた2度の大戦で米国は中立を保っていたのだが、客観的に見て戦争ばかりに明け暮れていた英日などの重爆撃機と比べても、B-36は一歩抜きん出た性能を有していたといえるのではないか。
ところが、その高性能をもってしても日本本土への空襲は損耗が大きかった。日本軍は大規模な防空部隊とともに、戦闘機隊を日本本土に集結させて防御を固めていたらしいというからだ。
戦略爆撃を妨害する硫黄島などへの爆撃作戦に参加していたヘイル大尉もそれは実感していた。日本本土に向けて北上するB-36をいち早く探知するためだけに、日本人達は硫黄島を航空拠点として整備していた程だからだ。
損害が重なる中で、B-36の性能向上を求める声が強くなっていた。B-36は開戦の前年度に制式採用された新鋭と言って良い機体だったのだが、早くもその後継が望まれていたのだ。
米陸軍航空隊には既に完全にジェット化した立派な重爆撃機が存在していたのだが、残念なことにヘイル大尉達が乗り込んでいたダグラス社のB-49は高速性能などではB-36を上回っていたものの、航続距離や爆弾搭載量で劣っているものだから日本本土への戦略爆撃を行う主力爆撃機とはなれなかったのだ。
B-36の製造会社であるチャンスヴォート・コンヴェア社では同機のジェットエンジン化が慌ただしく行われていた。こうして急遽制式化されたのがB-60だった。
初期案では主翼構造もB-49の実戦投入後の実績などを加味して後退角度の増加が図られた新型形状とする予定だったらしいが、実際には生産工程の変更を最小限に抑えるためにB-36の推進式に設けられたエンジンをジェットエンジンに換装したような形状とされていた。
そうした妥協にも関わらず、ジェットエンジン化による性能向上は明らかだった。B-36の機体構造を踏襲しながらも、B-60はより早く、そしてより高い飛行高度を発揮できたからだ。
B-49からの機種転換時にヘイル大尉達が聞かされたのも、B-60が戦略爆撃の主力となれば日本軍の迎撃網を悠々と躱して戦争の主導権を捉えることが出来る、という話だった。
尤も皮肉屋のヘイル大尉は勿論、予備将校のスレーター少尉もその話を真に受けはしなかった。確かにB-60は画期的な性能を持つかもしれないが、それで全てがうまく行く程この戦争は甘く無いと思い知っていたからだ。
例えばジェットエンジンの威力で高高度から侵入した所で、爆撃精度は大幅に低下するのではないか。日本人の首都は広大なものだというからどこかに当たればいいという考えなのかもしれないが、軍需工場への精密爆撃などは難しくなるだろう。
日本人の家屋がどれだけ被害を受けようが知ったことではないが、肝心の目標に命中しないのでは意味がないのだ。
それにB-49で対艦攻撃を行っていた際にヘイル大尉達も艦隊空ロケット弾による迎撃を受けていた。機関砲はもちろん高射砲も高高度侵入する重爆撃機を捉えられないかもしれないが、ロケット弾やジェット戦闘機相手では焼け石に水という気がしていた。
上層部の見積もりが甘いのはともかく、B-60の機体性能が向上しているのは確かだが、それ以上に高性能を搭乗員達が活かしきれるかどうかも分からなかった。
編隊長のヘイル大尉は先におろした僚機の様子を見つめてため息をついていた。上空からでも開戦時と比べると搭乗員の質が低下しているのが明らかだったからだ。
操縦桿を握りながらヘイル大尉の視線を追ったスレーター少尉も眉をしかめていた。
「皆、滑走路ぎりぎりですね。よく事故が起こらなかったものだ……あの滑走路、B-36を前提に造成されていたと聞きますが、B-60には無理があるんですかね」
そう言いながらも、事前に滑走路長を確認していたスレーター少尉は暗に促成教育を受けた搭乗員の技量を疑っていた。ヘイル大尉に言わせればROTC出身のスレーター少尉も開戦頃には似たようなものだったが、訓練期間の短縮で飛行時間が不十分な操縦員が増えているのは事実だった。
機種改変と戦略爆撃用部隊として再編成されていた第21爆撃群がハワイに進出すると聞いた時、いっそ一挙にグアムに飛んで最前線で訓練をさせればいいとヘイル大尉は考えたのだが、実際には現地の備蓄物資量から訓練を同地で行うことは難しいとされていたらしい。
太平洋を渡る海上補給路は日本人の潜水艦によって寸断されていた。本土とハワイ、ミッドウェー間の航路にすらわざわざ長距離航行してきた潜水艦によって襲撃を受けているのだから、グアム近海は日本人が行う卑怯な通商破壊戦の狩場となって民間人が乗り込む商船が多数沈められていた。
これに対処する為に海軍では航続距離の長い双発機でも運用可能な大型空母を船団護衛に随伴していた程だったが、日本人の潜水艦は執拗に襲撃をかけて航空機燃料を運ぶタンカーも次々と被害にあっていた。
ハワイで第21爆撃群が訓練を行っているのもそれが理由だった。通商破壊戦を生き延びてグアムに集積された物資は日本本土への戦略爆撃のみに使用するものであり、訓練に使用できるほどの贅沢は前線では行えないというのだった。
スレーター少尉に着陸を任せたヘイル大尉は、鋭い目で預けられた編隊の様子を確認していた。駐機場によたよたと進む僚機の先に、ふとヘイル大尉は視線を向けていた。
航空基地近くのホノルルの白い海岸には、現地人のちっぽけな漁船と、それを見守る陸軍部隊の姿が見えていた。のんびりとしたその様子に、ヘイル大尉は無性に腹が立っていた。




