1953決戦、ハワイ沖海戦2
憲兵隊仕様の四輪駆動トラックに据えられた車載無線に取り付いていたパイク伍長は、レシーバーを耳に当てたまま何度かダイヤルを回していたが、諦めて顔を上げると観念した様子で言った。
「大尉殿、駄目です。電波発振は完全に途絶えています。連中さっさとお話を終えちまったようです」
両手を上げて軽口を叩いたパイク伍長をじろりと睨んでから、ハーディ大尉も思わず嘆息していた。そして、所在投げな様子の部下達と同じ様に、憲兵隊に割り当てられた四駆車にもたれかかっていた。
ハワイ派遣憲兵隊に所属するハーディ大尉達が追いかけていた無線通信の痕跡は完全に途絶えていたが、最初から追跡体制は無理のあるものだった。限られた人数と装備で断続的に放たれる電波源を特定するのは難しかったのだ。
不審な無線発振を観測出来たのも当初は偶然だった。ハワイ諸島間の長距離無線通信に顕著なノイズが入っていたのだが、それが不審な無線通信であると即座に判断されていたわけではなかった。ハワイ諸島には陸海軍の各部隊が入り乱れていたからだ。
開戦早々に占領されたハワイ諸島に配置された米軍部隊は多かった。陸上部隊だけ見ても、旧ハワイ王国軍を蹴散らして今でも駐留部隊の主力となっている第25歩兵師団の他に、第1海兵師団が配置されていた。
開戦直後にトラック諸島やマリアナ諸島の日本領占領作戦に投入されていた第1海兵師団は、日本軍との交戦によって損耗して第2海兵師団と交代していた。そして本国からの補充を受けて再編成を行うためにハワイに移送されていた、はずだった。
だが、軍公式のそのような発表を信じるものはすくなかった。確かに第1海兵師団の消耗は激しかったものの、それは戦闘による直接的な損害だけでは無かったからだ。
第1海兵師団の中には原因不明の疾病が広まっていた。マリアナ諸島での戦闘中は師団野戦病院の収容能力を越えるほどの患者が居たらしい。当初は最前線に連続して投入されたことによる士気の低下、つまり意図的な戦闘放棄ではないかと疑われていた程だった。
戦闘による負傷ではなく、嘔吐や倦怠感を訴える将兵ばかりであったこともそのような見方が広まる原因となっていた。憲兵隊の隊内にも話が広まっていたのはそのような経緯があったからだ。
ところが、統計を取ってみると奇妙な事実が発覚していた。この疾病を訴える将兵は、第1海兵師団の中でも開戦直後にトラック諸島の占領に投入された部隊に所属するものばかりだったのだ。
ハワイ占領と同時に、米陸軍航空隊はトラック諸島に新兵器である核攻撃を加えて、日本海軍が派遣していた大規模な艦隊を一撃で殲滅していた。その直後に第1海兵師団の主力が日本軍の一大拠点だったトラック諸島の占領に乗り出していたのだ。
同時期にグアム島を挟んでトラック諸島とは反対方向にあるテニアン島やサイパン島にも海兵隊が派遣されていたのだが、実はそちらの部隊には同じような疾病を訴えるものは少なかった。
この疾病の原因は意外なところから判明していた。公式には米政府筋は認めていなかったのだが、英日などが核攻撃の影響による放射線病とかいう新たな病名を名付けていたのだ。
それによると、核攻撃、というよりも原子分裂という物理現象によって生じた放射線を大量に被爆すると、そのような症状が出る、らしいというのだ。
敵国の発表を鵜呑みにするのは出来なかったが、同様の症状は第1海兵師団の将兵だけではなく、核攻撃時にトラック諸島に在島していた第3国の報道関係者などにも生じていた。
当初の米軍による作戦計画では永続的に行われるはずだったトラック諸島の占領は、早いうちに放棄されていた。第1海兵師団は生き残った中立国報道関係者等と共に、マリアナ諸島を経由してハワイ諸島に移動していた。
トラック諸島で捕虜となった少数の日本軍将兵や、報道関係者の中には、第1海兵師団の将兵以上に症状が急速に悪化して命を落としたものも多かった。ハワイに設けられた病院内では皮膚が焼けただれたように崩れていったものもいたらしい。
それどころか、病死した報道関係者の中にあの有名なナポレオンの子孫がいたものだからフランス国民感情が激昂して対米参戦に繋がったというにわかには信じがたい話まであった程だった。
だが、仮に英日が言う放射線病とやらが存在しているのだとしても、既に発病のピークは過ぎ去っているはずだった。トラック諸島に取り残された原住民は分からないが、ハワイ諸島に収容されたものは、海兵隊員だけではなく、捕虜などを含めて死亡者は減っていたからだ。
言い換えれば、急性に症状が悪化していたものは既に死亡していたのだ。
今の第1海兵師団の隊員達を襲っているのは、放射線病とやらが直接の原因というよりも、皮肉なことに当初疑われていたサボタージュの類だといえた。戦友達が敵弾ではなく、味方が行った核攻撃の余波で体内から腐っていく姿を見た彼らの間に、著しい士気の低下が起こっていたのだ。
そのような状態の将兵を、旧王国の首都であり、占領後も行政の中心地であったホノルル周辺に置くことは出来なかった。防衛体制の均質化を図ることを名目として、第1海兵師団はハワイ諸島の中核であるオアフ島からハワイ島に移駐していたが、それが体の良い隔離なのは明らかだった。
士気の低下した第1海兵師団は、ある意味で首脳陣の予想通りに隔離先のハワイ島でも騒ぎを起こす下士官兵が増大していた。師団内部の自浄作用は期待できなかった。第1海兵師団の中でも放射線病の対象外だった完全状態の部隊は既に他師団に抽出されていたからだ。
むしろ、マリアナ諸島で戦闘中だった第1海兵師団隷下の部隊を中核に、本土から輸送された部隊で急遽編成されたのが、現在マリアナ諸島の防衛にあたっている第2海兵師団であると言って良かった。
そもそも海兵隊が戦略単位となる大規模な師団を編制したのは、開戦直前のことだった。
幾度も行われた中南米への介入などで実戦経験は多かったものの、海兵隊は陸軍のように粘り強く長期間戦闘を継続することなどは求められていなかったと言えるのではないか。だから支援部隊を欠いていても大きな問題はこれまで生じていなかったのだろう
そのために、あちらこちらに分散していた海兵連隊を集成して3個の海兵師団を何とか編制していたものの、いざとなればカナダやメキシコの国境線を警備している部隊を転用したり州兵連隊を招集できる陸軍と違って、海兵隊に戦略的な予備兵力は存在していなかった。
第1海兵師団の再編成、というよりも補充は遅々として進まなかった。本国で徴兵や志願した海兵隊員達も補充兵として送られるとすればカリブ海の第3海兵師団か、マリアナ諸島の第2海兵師団ばかりだった。
放射線病を恐れたのか、あるいは士気低下のせいなのか、海兵隊員達は除隊や本国への帰還も許されずにいたのだが、それがさらに士気を低下させてハワイ島内で原住民への暴行や脱走などの犯罪行為に手を染める兵が増えていた。
実は、ハーディ大尉達が追いかけていた不審な無線通信を捉えたのは、ある意味ではこの第1海兵師団の士気低下が原因だと言えた。ハワイ島に派遣された憲兵隊分遣隊と本隊との交信に紛れたノイズが切欠だったからだ。
本来であれば海兵隊も海軍憲兵の管轄であるはずだが、海軍も海兵隊も人員に余裕がないものだから、ハワイ駐留の陸軍憲兵隊に隊内犯罪の取締を依頼してきたのだ。
だが、偶然とはいえスパイの痕跡らしき不信電波を確認したものの、追跡体制の不備から捕捉は失敗続きだった。不満げにハーディ大尉が視線をそらすと、その先には冬でも暖かなハワイの青い海が広がっていた。
海と空は同じような青一色に染まって、境界となる水平線は定かではなかった。今日は風が弱く白波も目立たなかったから、許可された地元民の漁師達の漁船が海面に何隻か広がっている以外に、空と海の区別はつかなかった。
常夏のハワイならではの光景は、のどかとすら言って良いものだった。写真にでも撮ればそのままパンフレットに載せて観光客を呼び込めそうだとハーディ大尉はぼんやりと考えてしまっていた。
だが、ハワイ派遣憲兵隊の1隊を率いるハーディ大尉は、そのような平穏な風景が一皮向いた所に広がる危険な匂いをかぎとっていた。それに、米国の占領下に置かれた今のハワイは、間違いなく戦時体制にあったのだ。
その証拠にハーディ大尉の耳に轟音が響いていた。緩慢な動作で部下達と共に上空を仰ぎ見ると、ジェットエンジンの轟音をたなびかせて米陸軍航空隊の重爆撃機B-60がこちらに向けて降下しつつあるのが見えていたのだ。
大出力のジェットエンジンを8基も搭載したB-60だったが、同機が単機で行動すると言うことは考えにくかった。ハワイを経由地として最終的に対日戦略爆撃の拠点となっているグアムに向かう補充機だったとしても、航法や補給の都合から数機がまとまって動く事が多かったからだ。
おそらくはホノルル郊外の滑走路周辺はB-60の巨体が占拠している筈だったが、また補充機がやって来たのだろう。
海面に視線を戻したハーディ大尉は、漁船の乗員達も同じように上空を見上げているのに気がついていた。何人かの男達は上空を指差して言い合っているようだった。
あまり穏当には見えない漁師達の様子に、ハーディ大尉は苦笑していた。B-60がホノルルに降り立った理由が、米軍の強大な戦力を見せつける事による占領下の住民に対する宣撫工作を兼ねているのだとすれば、それは逆効果を招いていると考えたからだった。
第一、呑気なハワイ人共でも、いい加減西に飛び去ったB-36が東に帰って来ることが滅多に無い事くらい気がついているのではないか。
開戦時の米陸軍航空隊における主力重爆撃機だったB-36は、日本人達の本土に向けた戦略爆撃作戦でも主力として投入されていた。陸軍航空隊の上層部は、当初は開戦初期に日本人の首都に爆弾の雨を降らせることで早々に彼らを降伏させられると考えていたらしい。
ところが、二度に渡る旧大陸の戦争で学んだのか、あるいは日本人が野蛮人なのか理由は知らないが、日本本土への戦略爆撃を受けてもなお彼らは降伏しようとはしなかった。
日本人が戦略爆撃を受けても降伏しようとしないのは、彼らの野蛮性だけが原因ではなかった。二度に渡る旧大陸での戦争で学んだのか、日本本土は重層的な迎撃網が構築されていたのだ。
開戦から3年目を迎えた今でもグアム島や占領下のテニアン、サイパンから出撃したB-36による戦略爆撃は続いていたが、日本本土に与えた損害に比例して、B-36の消耗も激しかった。
直接日本人達の戦闘機や高射砲などで撃墜されなくとも、彼らの本土上空で損傷した機体では、マリアナ諸島から日本本土間に広がる二千キロを超える距離を帰還するのも難しかった。
卑怯にも日本人達はその間に点在する島嶼部などに配置された迎撃機で追い打ちをかけてくる事も多いというが、仮にそのような障害がなかったとしても途中に不時着地すらないのだから僅かな損傷が丸々1機分の損失に直結する事も多いようだ。
マリアナ諸島から北に根拠地を持たないことがB-36の損害を増大させていたのだが、米陸軍航空隊上層部はB-36のエンジンをジェット化したB-60の投入でこれに対処しようとしていた。
―――だが、爆撃機をどれだけ飛ばした所でハワイ人には余所事にしか見えないだろう……
ジェットエンジンの轟音を聞きながらそう考えたハーディ大尉は、パイク伍長が無線機に再び取り付いていたのに気がついていた。再び不審電波を傍受したのか、そう期待したハーディ大尉に、パイク伍長は上空からの騒音に負けないように大声で言った。
「隊長、親父からお声掛かりですぜ」
憲兵隊司令スタイルズ少佐からの呼び出しに、ハーディ大尉は再び渋い顔になっていた。




