1952激闘、バルト海海戦20
第二次欧州大戦以前、日本海軍は駆逐艦という艦種そのもの再検討を行っていた。従来の艦隊型駆逐艦は有力な雷撃戦能力を有する一方で、汎用性に欠けていたからだ。
艦隊決戦において不利な対米戦力比を覆すことを目的として立案されていた緻密なまでの漸減邀撃作戦に水雷部隊が組み込まれていたことが、このような歪な艦を生み出していたと言えた。
この駆逐艦の再定義において計画されたのは、従来の艦隊型駆逐艦の延長である甲型、空母直掩の防空艦計画から派生した乙型、駆逐艦本来の肉薄雷撃に特化した丙型といった性能を追求した駆逐艦だけでは無かった。
当時既に日本海軍は再度の欧州大戦を予期していたのか、個艦性能よりも量産性を優先した丁型駆逐艦の建造計画が含まれていたのだ。
第二次欧州大戦において、数的な主力となったのは当然簡易な丁型駆逐艦である松型駆逐艦となっていた。
僅か1隻が半ば実験艦として建造された丙型は除くとしても、水雷戦隊にのみ充足された甲型や空母直掩の駆逐隊に優先配備された乙型などとは違って、いくらあっても足りない長距離船団護衛部隊だけではなく、甲型や乙型の補助として遣欧艦隊の一線部隊にも松型駆逐艦の配備が進められていたからだ。
松型駆逐艦は、計画当初から単純な護衛駆逐艦として設計されたものではなかった。前線で消耗する駆逐艦全般を補充する為の量産型駆逐艦として設計されていた松型駆逐艦には、最初から汎用型と特化型という相反する要素が組み込まれていたと言える。
技術的に見れば、松型駆逐艦最大の特徴は量産性を考慮して直線が多用されたことなどではなく、ブロック建造や電気溶接といった新技術を躊躇いなく導入した事にあった。
そして、計画当初からブロック構造の導入目的を単に建造期間の短縮や効率化だけに留まらせるのではなく、特化型の建造においても積極的に活用する予定があったのだろう。
建造された松型駆逐艦には汎用駆逐艦以外の派生型も多かった。純粋な駆逐艦型にしても、原形艦の実働後にはその実績を反映して早くも長距離護衛用に空調設備などの増強が図られた南方仕様の建造が始まっていた程だった。
高価な乙型こと秋月型駆逐艦を補佐する為に一世代前の12.7センチ高角砲を集中搭載した防空型などはまだ駆逐艦という姿を留めていたが、歩兵一個中隊程度の輸送能力を持たされた一等輸送艦等は、言われなければ原型が駆逐艦とは思えなかっただろう。
日本海軍では、第一次欧州大戦後に東雲型などの旧式化した駆逐艦の一部が陸戦隊支援に改造されて揚陸作戦用の特務艦とされていたが、これを範として計画された一等輸送艦は、汎用駆逐艦型から輸送艦には過剰な機関部を削って貨物室を捻出していた。
しかも一等輸送艦の艦尾には揚陸艇を迅速に泛水させるために軌条が設けられていたのだが、長距離護送船団に組み込まれた一等輸送艦は純粋な輸送艦ではなく、軌条に爆雷を追加搭載して船団護衛隊の方に編入されることも少なくなかった。
このような特異な運用が可能だったのは、松型駆逐艦の派生型は大きく姿が変わっているように見えても、建造時のブロック単位では互換性が保たれていたからだった。
実際に建造時期や搭載された艤装品が同一であれば、輸送艦型も駆逐艦型も艦首や艦橋などは同一設計のブロックが使用されていた。一等輸送艦に対潜戦闘が可能だったのも、探信儀や聴音機といった対潜索敵機能を持つ艦首部分が汎用駆逐艦仕様と同一であったからだ。
つまり、原型となる駆逐艦型のブロック構造を元にして、用途の異なる艦種用のブロックを設計しておく事で、建造時のブロックを入れ替えるだけで全く用途が違う艦が建造出来てしまうのだ。
こうなると丁型駆逐艦とは単なる駆逐艦の建造計画ではなく、有事の際に消耗の激しい千トン級艦艇の汎用建造計画とも言える大掛かりなものだったと言えるのだろう。
このように駆逐艦の枠に収まりきらなかった丁型駆逐艦と比べると、甲乙丙の3種はある意味では計画通りに駆逐艦の枠内に収まっていたといえるだろう。
乙型である秋月型は、優れた防空能力を発揮して予定通り空母部隊の直衛艦として活躍していた。主砲となった長10センチ砲を汎用性を高めた両用砲型に換装しつつ、未だに秋月型は同時期に建造された米代型防空巡洋艦と共に空母機動部隊に欠かせない艦艇と認識されていたのだ。
残る甲型、丙型のうち、駆逐艦乗りの主流である水雷科将兵が期待していたのは従来の艦隊型駆逐艦の延長線である甲型ではなく、水雷戦闘に特化した丙型だった。
島風として就役した丙型は、甲型とされる陽炎型やそれ以前の艦隊型駆逐艦と違って、迅速な魚雷再発射を可能とする次発装填装置どころか予備魚雷庫すら省かれていた。
その代わり同時雷数は多く、速力も甲型以上が追及されていた。丙型駆逐艦が水雷科に要望されていたのは、漸減邀撃戦術に組み込まれていた駆逐艦本来の正当な進化が丙型と考えられていたからだった。
第二次世界大戦勃発前に駆逐艦に搭載されていた魚雷は、雷速が抑えられていた代わりに長大な射程を持つ巡洋艦用のものと同一だった。
漸減邀撃戦術において、巡洋艦群が隠密で遠距離から雷撃を行う為に、概ね戦艦級艦艇の主砲射程にすら匹敵する長射程の魚雷が開発されていたのだが、巡洋艦群がこじ開けた敵艦隊の警戒幕をすり抜けて進出する駆逐艦にはそこまでの長射程は必要ないはずだった。
本来であれば、駆逐艦の主兵装である魚雷は敵主力艦に肉薄して必中を狙うはずのものだった。丙型駆逐艦が高速性能に加えて同時雷数を増やされたのもそうした事が理由であったのだ。
ところが、丙型駆逐艦として建造されていた島風はそうした水雷科将兵の期待とは大きく異なる姿で就役していた。15射線が確保されるはずだった魚雷発射管数が1基5射線に抑えられた代わりに、防空巡洋艦並みの対空電探を備えた電探哨戒艦とも言える全く当初計画とは異なる姿になっていたのだ。
遣欧艦隊に配備された島風は、空母機動部隊の前衛哨戒艦として活躍していたが、それは当然のことながら水雷科将兵が望んだ姿ではあり得なかった。
島風が建造中に大きく設計変更を受けたのは、第二次欧州大戦序盤のいくつかの戦闘でこれまで重要視されていた魚雷攻撃の限界が露呈していたからだと言えた。
その一方で電探や計算機に関する技術が飛躍的な進歩を遂げた事で長距離砲撃や対空砲の命中精度は高まっていた。その結果、次期主力艦上攻撃機や陸上爆撃機開発計画は迷走し、駆逐艦も雷装が軽視されるようになってしまっていたのだ。
実のところ第二次欧州大戦中に駆逐艦用の短射程ながら雷速の高い魚雷が最後まで制式化されなかったのも、駆逐艦による大規模水雷襲撃という戦術に疑問が抱かれていたかららしい。
だが、艦隊にとって駆逐艦が不要となったわけではなかった。それに松型駆逐艦は量産性を重視した為に、士官次室を廃するなど平時の艦隊型駆逐艦として配備するには不都合も多かった。
そこで第二次欧州大戦終結後に戦訓を反映させた新たな駆逐艦として計画されたのが最新鋭の太刀風型だったのだ。
尤も、第二次欧州大戦頃に陽炎型やその後続の夕雲型を刷新する艦隊型の次期主力駆逐艦として考えられていたのは、丙型駆逐艦の運用実績を甲型に反映させた改甲型となるはずだった。
ところが、実際に建造された太刀風型は甲型と乙型を組み合わせたようなものに仕上がっていた。集団での対艦攻撃に特化しすぎていた従来の甲型に対して、汎用性を重視したためといえるだろう。
艦隊を構成する万能艦として設計された太刀風型は、秋月型で採用された長砲身の10センチ砲を高角砲を兼ねた両用砲としていた。射撃指揮装置も電探と連動した最新鋭のものが搭載されていたから、同じ砲でも秋月型の初期建造艦と比べれば対空火力はより強化されたといってよいのではないか。
従来の12.7センチ砲から小口径化することに懸念の声もあったが、長砲身故の高初速を活かせば装甲がない駆逐艦が相手ならば支障がないという判断が下されていた。高初速砲故に砲弾は低伸するから、駆逐艦同士の交戦程度では口径差でアウトレンジされることは無かったのだ。
それに砲弾威力、というよりも弾頭重量からなる炸薬量の少なさも、小口径化によって副次的に生じた高い発射速度で補えると判断されていたのだ。
一部では従来の高角砲、平射砲として運用されていた12.7センチ砲を統合する長砲身の12.7センチ砲を搭載するという案もあったのだが、総合的に見てこの案は却下されていた。
長10センチ砲はすでに連装砲型式のものが大型艦の高角砲から駆逐艦主砲の両用砲に至るまで広く採用されていた。
確かに試作されていた長12.7センチ砲の性能は長10センチ砲を上回るものもあったのだが、連装砲とすると砲塔重量は長10センチ砲の比ではなく、駆逐艦主砲とするなら単装砲になると言われていた。
駆逐艦同士の砲撃戦では手数も重要になってくるから、一発当たりの威力は大きくとも単装砲4基4門では連装砲4基8門に対して不利となるというのがその時の結論だった。
それに大型艦の対空火砲としても長12.7センチ砲は大掛かりに過ぎるという声もあったようだ。すでに日本海軍では高角砲は近接火力の一部と割り切って、遠距離対空火力は近年急速に進化している噴進弾を使用するという方針を取りつつあるようだ。
将来的に駆逐艦が対空噴進弾を装備するかどうかはわからないが、駆逐艦の場合は対空兵装ばかりを強化はできなかった。主力艦の護衛という任務を果たすためには対潜能力も重要だったからだ。
夕雲型などの艦隊型駆逐艦でも段階的に対潜兵器の増強が行われていたが、太刀風型では設計当初から充実した対潜兵器だけではなく、探信儀や聴音機も調音可能な自艦航行速度の高速化や、探知距離の延長が進められた最新鋭の機材が、艦首近くの艦底部に設けられていた。
全周探知可能な探信儀に加えて対潜兵装も充実していた。従来の爆雷投下軌条や両舷に向けた爆雷投射機に加えて、艦橋前には散布爆雷も大戦中の対潜艦艇に倣って設けられていた。
最新の英国艦のように大威力長射程の対潜噴進砲こそ搭載されなかったものの、対潜兵装に関しては従来の甲型、乙型よりも格段に強化されたといってよかった。
それに散布爆雷や爆雷投下軌条自体は従来のものだったが、搭載される爆雷は第二次欧州大戦開戦時よりも進化していた。爆雷は音響式の信管や沈降速度の高い筐体形状を得ていたのだ。
その一方で、次発装填装置も予備弾もないとはいえ、雷装は夕雲型同様の8射線を確保していたから、水雷襲撃を行う事も可能だったが、これには裏があった。
場合によっては、魚雷発射管には対艦攻撃用の通常魚雷ではなく、対潜兵装である機動爆雷、つまり音響探知式の対潜魚雷が積み込まれる可能性があったのだ。原型を甲型としつつも、太刀風型は汎用性の名の下に対潜能力を強化した駆逐艦と言えたのではないか。
ボーンヘルム島沖で警戒任務にあたっている今の微風他の第51駆逐隊は、4隻すべてがこの最新鋭の太刀風型で構成されていた。
汎用性を追い求めた結果、太刀風型駆逐艦の基準排水量は三千トンに達していたが、その余裕のある大柄な船体ゆえに長時間の哨戒任務を押し付けられたといえなくもなかった。
実は、空前の大型駆逐艦となってしまった太刀風型は、就役当初から懐疑的な意見が少なくなかった。従来の軽巡洋艦に準ずる建造費用の高騰もあったし、甲型と乙型の能力をかけ合わせた汎用駆逐艦と言うだけでは唯一無二の存在ではないからだった。
遣欧艦隊隷下に当初から配属されていた第52駆逐隊で司令駆逐艦として配属されている橘型駆逐艦もまた汎用性を追求した大型駆逐艦として建造されていた。
しかも、橘型駆逐艦は艦名の植物名が示す通り、本来は松型に連なる従来の二等駆逐艦扱いで建造されたものだったのだ。
太刀風型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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松型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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島風型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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橘型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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東雲型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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米代型防空巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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