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1952激闘、バルト海海戦19

 直交代で駆逐艦微風の艦橋に上がってきた古田大尉は、見張員に混じって平大佐が所在無げにしているのを見つけて思わず苦笑していた。

 哨戒直とはいえ長距離捜索用の電探で索敵しているのだから艦長室かせめて後方の休息室で休んでいても良いのに、平大佐はあれこれと当直員達に話しかけるのを好んでいた。



 微風を旗艦とする第51駆逐隊は、第52駆逐隊に遣欧艦隊の主力である第2戦隊の直掩を任せると、ボーンヘルム島沖深く進出して遊弋しながら哨戒を続けていた。

 周辺には第51駆逐隊の僚艦と、戦艦ヴァンガードと共に英本国艦隊から派遣されてきた駆逐艦が哨戒線を構築してバルト海を南下してくるはずのソ連北方艦隊を待ち受けていた。


 英本国艦隊からの増援を受け取ったとはいえ、遣欧艦隊の戦力に余裕は無かった。敵はソ連海軍の主力である北方艦隊だけではなく、以前からバルト海に駐留していた艦艇まで合流してくるものと考えられたからだ。

 英海軍の他の戦艦群はフランス海軍の一部とともにカリブ海に進出して米海軍を牽制していたから、本国艦隊がバルト海に派遣可能な戦艦はヴァンガード1隻だけだった。

 戦艦群の護衛となる軽快艦艇部隊も投入可能な艦艇が次々と送り込まれてくるのは良いのだが、指揮系統を整理するので精一杯で艦隊前方で哨戒任務につけるのは最初からヴァンガードと共にバルト海に投入されていた水雷部隊のみだった。



 英海軍の哨戒部隊は、軽巡洋艦ウガンダに指揮された4隻の駆逐艦で構成されていた。ただし、第二次欧州大戦中に竣工した駆逐艦の方は型式が別れていたし、水雷戦隊の旗艦に充当する嚮導駆逐艦も無かったから、フィジー級軽巡洋艦であるウガンダが急遽配属されていたのだ。

 フィジー級軽巡洋艦には元々水上偵察機の運用能力が備わっていたのだが、水上機の陳腐化に伴ってカタパルトなどの航空艤装は大戦後に撤去されていた。フィジー級の中でも後期建造艦に属するウガンダの場合は、あるいは最初から航空艤装を省いた状態で就役していたのではないか。


 だが、艦隊前方での警戒を始めてからしばらくの間は、平大佐はないものねだりをするようにウガンダの艦載機が省かれているのを残念がるようなことを言っていた。

 本来であれば、バルト海で哨戒任務を行うならば搭載機の有無が大きな問題となることはないはずだった。濃霧が発生する事が多いこの海域では航空機に限らず目視での哨戒範囲が狭まるからだ。逆に最新の対水上電探さえあれば、索敵範囲は安定して確保できるということになるだろう。

 ところが、遣欧艦隊がボーンヘルム島沖に展開してからは好天が続いていた。この天気ならば性能に劣る水上偵察機でも広域の哨戒が可能だったのではないか。



 尤も、平大佐があれこれと不平を言っていたのは、実際に軽巡洋艦ウガンダに航空哨戒能力が欠けていたのが原因とは思えなかった。この時期、日本海軍でも以前は重要視されていた巡洋艦の水上機運用能力が省かれていたからだ。

 その代わりに一部では汎用性に優れた回転翼機が搭載されていたのだが、回転翼機母艦能力を持った巡洋艦が投入されていたとしても、平大佐はまた不平を述べる別の理由を思いついていたのではないか。


 平大佐がへらへらと笑いながら言っていたからあまり深刻には聞こえなかったのだが、この海域における索敵行動には障害が多かった。

 物理的な障害が多いわけでは無かった。ボーンヘルム島東方には視界を妨げるほど大きな島影は少なかったし、バルト海の幅は200キロを切っているから、対馬海峡程度の広さしか無かったからだ。

 最新の対水上電探は、駆逐艦に搭載される小型機でも戦艦級の目標を3,40キロ程度の距離から探知可能だったから、単純計算すれば1個駆逐隊4隻もあればボーンヘルム島周辺をソ連艦隊がすり抜けできないような哨戒網を構築可能ということになる。



 だが、実際には政治的な障害が純粋に効率的な索敵行動を妨げていた。デンマーク領であるボーンヘルム島は、国際連盟軍の勢力圏から突出して孤立した海域に存在しているといっても過言ではないからだ。

 元々バルト海西部を制する要衝であるボーンヘルム島は歴史上の係争地でもあった。過去にはスウェーデン王国の領土に編入された時期もあったというが、実際にデンマーク王国本土よりも対岸のスウェーデン王国領の方が遥かに近い位置にあった。


 最短距離でデンマーク王国の首都であるコペンハーゲンからボーンヘルム島に赴くには、直接海路で向かうよりも一度対岸のスウェーデン南端を経由したほうが短時間となるはずだが、政治的な事情から不可能だった。

 第二次欧州大戦中に国土をドイツに占領されたデンマーク王国は、早々と国際連盟にその一員として復帰して旗幟を鮮明にしたのに対して、その北方のスカンジナビア半島に位置するノルウェー王国、スウェーデン王国、そしてその東方のフィンランド共和国の北欧諸国は大戦後に異なる道を歩んでいたからだ。



 元々ロシア帝国の支配下から独立したフィンランド共和国は、第二次欧州大戦勃発前に白海とバルト海を結ぶ運河周辺の領土問題などからソ連と紛争状態になっていた。

 ソ連側の狙いは、米国の支援を受けて整備されたこの運河を重砲の射程内に収めうる地域が潜在的な敵国であるフィンランド領であることを安全保障上許容し得なかったのだろう。

 だが、フィンランドにとってもこの領域は手放すことの出来ない整備された領土だった。ましてやラドガ湖周辺と交換にソ連からフィンランドに引き渡される筈だった土地は、使い道のない痩せた無人の荒野だったのだから領土交換に応じるのは到底無理な話だった。

 そこで冬戦争が勃発したのだが、緒戦こそ整備された陣地帯でソ連軍の侵攻を押し留めたフィンランド軍は、増強される一方のソ連軍前線部隊に押され続けていた。


 国境地帯に深く食い込んだ領土をこの戦争で失ったフィンランドは、第二次欧州大戦でドイツ側に加わって領土奪還を目指したのだが、それは無謀な試みだったといえた。

 フィンランド国内で継続戦争と呼ばれたこの戦争は、バルト海からバレンツ海を結ぶ差し渡し千キロにも至る長大な戦域で行われていた。単純な戦線の距離で言えば、ドイツとソ連間で行われた東欧の戦線とほぼ変わらないものだった。

 このような長大な戦線をフィンランド単独で構築するのは不可能だった。北端のノルウェー領には同国を占領していたドイツ軍が有力な部隊を派遣していたのだ。


 一時はソ連領深く食い込んで侵攻するドイツ軍に期待していたフィンランドだったが、ドイツが言うところのモスクワ攻防戦は誇張が過ぎたものだと言えた。実際には、150年前のナポレオンと違ってドイツ軍がモスクワを望める地域まで進出は出来なかったからだ。

 フィンランド戦線も同様だった。冬戦争で失われた国境線まで進出した時点で、粘り強く抵抗するソ連軍を突破することは不可能となっていた。

 そしてシベリアーロシア帝国との国境線を守っていたソ連軍の精鋭部隊が欧州方面に増援として到着した時点でドイツやフィンランドが勝利を収める機会は永遠に失われていたと言えるのではないか。



 第二次欧州大戦が終結した時点でもフィンランド共和国は独立国として存続していたが、それが形式的なものに過ぎないのは明らかだった。最早フィンランドはポーランドやルーマニア等と同様にソ連の影響下にある衛星国として残されていただけだったのだ。

 そしてフィンランドの西側に位置するスウェーデン王国もその影響から逃れる事は出来なかった。第二次欧州大戦中は中立を宣言した同国だったが、実際には独立を維持するために各勢力間を泳ぐ様に様々な工作を行っていた。

 国際連盟も、ドイツへの資源輸出などを戦後中立違反として批判していたが、ソ連はドイツ側の戦力通過を黙認していたことなどを理由に一時は強硬な態度を示していた。


 更に西方のノルウェー王国などは、中立宣言を踏みにじったドイツによる占領下にあったのだが、スウェーデンの場合は自らの判断でドイツに加担したとソ連側は主張していた。

 結果的にノルウェーが中立政策を放棄してデンマークに倣って国際連盟に加盟を申請していたのに対して、スウェーデンは中立政策を放棄することは出来なかった。

 というよりもソ連よりの中立という複雑な立場は、国際連盟側のデンマークやノルウェーとソ連の衛星国となったフィンランド間の緩衝地帯としてかろうじて許されたものというべきだったのではないか。


 第二次欧州大戦終結から5年経って勃発した今回の戦争においても、ノルウェー王国は慎重に中立を宣言していた。勿論、実質的にはソ連寄りであったものの、ソ連側も北部ドイツ占領地帯におけるドイツ連邦軍との戦闘などを除けば、今回の艦隊進出まで積極的な行動を控えているふしがあった。

 そのために今回の作戦でも国際連盟軍、つまり英海軍の上層部はスウェーデンの中立を侵犯する行動は現地部隊に制限していた。

 ボーンヘルム島は紛れもないデンマーク領であるからその周辺で国際連盟軍が行動するのは自由だと解釈されていたが、同島とスウェーデン領の中間線を越えて進出するのは控える様に命じられていた。



 ボーンヘルム島の北方はスウェーデンによって遮られていたが、南方はそれ以上に物騒な海域となっていた。

 おそらくスウェーデンも周辺で行動する国際連盟軍の動向をソ連側に通告するくらいのことはしているのだろうが、ボーンヘルム島から100キロ程しか離れていないポーランドは紛れもなくソ連の衛星国となっていたからだ。


 フィンランド等と同じく、ポーランドも既に共産党の一党支配が確立されていた。英国に亡命した旧政権の影響力を廃した共産党政権は、ソ連に習った政策を強制的に推し進めていた。

 共産党以外の政党には様々な制限が課さられて、実質的に共産党の衛星政党以外は存続を許されなかったのも他のソ連衛星国と同様だった。

 独自性を失ったポーランドの政権は、モスクワの言いなりになっていたが、それはソ連駐留軍と共に国内に展開するポーランド軍も同様のはずだった。ソ連と同じく今は慎重な行動を取っている同国軍だったが、ソ連艦隊の接近に伴ってどう動くかは分からなかった。



 結局、遣欧艦隊はボーンヘルム島周辺の限られた海域に展開するしか無かった。デンマークからは定期的に哨戒機が飛来していたが、それもボーンヘルム島上空を通過した後は、危険を避けてポーランドとノルウェーに挟まれた狭い空域を線状に飛行して引き返す事しか出来ていなかった。

 このような事態に対して、戦艦信濃に将旗を掲げた遣欧艦隊司令部は、より危険度が高いと思われるポーランド側の海域に、警戒隊として編成された日英混成部隊の中から第51駆逐隊を展開させていた。


 ソ連艦隊が遣欧艦隊の哨戒網をすり抜けて戦闘が行われているキールに向かうか、デンマークを突破して北海に向かうとすれば、国際連盟軍が進出を躊躇するであろうポーランドの海岸線近くを通過するものと思われていた。

 だが、主力をなすソビエツキー・ソユーズ級戦艦の他に、キーロフ級軽巡洋艦等の有力な軽快艦艇部隊がソ連艦隊には含まれていたからだ。


 フィジー級軽巡洋艦のウガンダはともかく、戦前、戦中に就役したA級駆逐艦以降の中型駆逐艦の中から残存艦をかき集めた英水雷戦隊に対して、第51駆逐隊を構成する最新鋭の太刀風型駆逐艦は、基準排水量三千トンを越える一昔前の軽巡洋艦に匹敵する大型駆逐艦だった。

 その残存性を考慮してより危険な海域を哨区として割り当てられていた第51駆逐隊だったが、その隊司令艦である微風乗員達は哨戒任務につきながらも、心の何処かでは本当にソ連艦隊がこの海域に出現するのか、その事自体を疑い始めていたのだった。

太刀風型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/ddtatikaze.html

ヴァンガード級戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbvanguard.html

信濃型戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbsinano.html

ソビエツキーソユーズ級戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbsovyetskiysoyuz.html

キーロフ級軽巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/clkirov.html

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