表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
809/815

1952激闘、バルト海海戦6

 ―――こんな事態になるなら、最初から断固とした態度でソ連軍に挑めばよかったのでは無いか……

 旗艦を務める戦艦信濃の会議室内で、緊急出動に備えて遣欧艦隊司令部参謀の説明を聞きながら、浅田大佐はそう考えていた。



 会議室は狭苦しかった。第二次欧州大戦では日本海軍の主力を掻き集めた形となった遣欧艦隊だったが、戦後も英国に駐留する艦隊は一転して小規模で象徴的なものとなっていた。日英の友好関係を仮想敵であるソ連を含む諸外国に見せつけるためだけの部隊だったからだ。

 今の遣欧艦隊は、信濃型戦艦2隻とその護衛となる2個駆逐隊で構成されており、その指揮官も第2戦隊の戦隊司令官が兼任していた。指揮系統も実質的には英本国艦隊に組み込まれていると言ってよかった。


 だから全駆逐艦を含む艦長や司令を集合させても司令部要員に追加させるのは10名を僅かに越える程度の人数にしかならないのだが、信濃の会議室はそれでも圧迫された雰囲気があった。単に会議室内の雰囲気が重苦しいというわけではなかった。物理的に会議室の専有面積が圧迫されていたのだ。

 同型艦である周防の艦長である浅田大佐はその理由を知っていた。司令部設備に加えて艦橋構造物に建造段階で変更が加えられていたものだから、単純に空間に余裕がなくなっていたのだ。



 長砲身の40センチ砲を備えた信濃型戦艦が計画されたのは第二次欧州大戦の最中だった。軍縮条約が完全に無効となった後に建造された大和型戦艦に続いて計画されていたのだ。

 ただし、改大和型とも呼ばれるように、軍機となる詳細が記載されていないような当たり障りのない諸元表であれば、信濃型と大和型に差異は殆ど無かった。


 信濃型と大和型に生じている最大の変更点は、船内奥深くの機関室内にあった。信濃型は4軸分すべての主機関を減速機を通して大出力ディーゼルエンジンとしていたのだ。

 ただし、大和型の時点で主機の半分はディーゼルエンジンとなっていたし、逆に信濃型に続いて建造された紀伊型では大和型と同じようなディーゼル、蒸気タービンの複合機関となっていたから、主機関全てをディーゼルエンジンとした日本海軍の戦艦は今のところ信濃型だけだった。


 機関室内部では重量のある一方で燃費の良いディーゼルエンジンを搭載した事で燃料タンクの容量削減などが行われていたが、補給の手間暇が減る一方で舷側に液槽となる燃料タンクを設けて水中防御区画を兼ねるという措置が出来ないという欠点もあった。

 重量のあるディーゼルエンジンで主機を統一できたのは、元々戦艦の燃料搭載量が大きく、皮肉なことに燃費改善分の燃料タンクを削減して重量を抑えることが出来たからではないか。



 尤も、機関科はディーゼル員ばかりとなって機関長は苦労しているようだが、艦長である浅田大佐からすれば、立ち上がりがやや遅いことを除けば機関の違いは然程感じられなかった。

 蒸気タービンを高速で回転させる為に罐圧の上昇を待つ必要がないという利点は無視できないが、これまでの遣欧艦隊の出動は予め予定された訓練行動などばかりだったから、あまり利点として認識はされていなかった。

 ディーゼルエンジンの低燃費も、日本本土までの長距離航海であれば燃料削減の効果も大きいのかもしれないが、信濃型では燃料タンク削減の効果もあって結局本艦の航続距離程度では影響はあまり無かった。

 その辺りが紀伊型で使い慣れた蒸気タービンとの複合機関に戻った理由であるのかもしれなかった。第一、これまで軽快な運動性を持つ駆逐艦を乗り継いできた浅田大佐には、戦艦というだけで操艦時の鈍重さの方が目立ってしまっていたのだ。


 それにディーゼルエンジンを搭載したことによる大和型からの外観上の変化は小さかった。吸気口を兼ねた煙突構造の違いは、艦尾の航空艤装廃止とどちらが目立つかは分からないだろう。

 浅田大佐からすれば、電子兵装の強化の方が変化が大きいように思えていた。戦時中に建造されていた大和型、信濃型は工事途上で段階的に第二次欧州大戦で飛躍的に進化した電探等の電子兵装を追加搭載していたからだ。

 その度合いが大和型よりも後になって建造された信濃型の方が進んでいたし、更に終戦後に建造された紀伊型の方が大戦の戦訓を反映していた分だけ洗練されていたのだ。


 例えば、信濃型は初期計画から大幅に追加された電子兵装によって逼迫した電力事情を改善する為に発電機を増設していたが、大出力発電機への変更ではなく艦尾区画への発電機増設に甘んじていたのは、艦内奥深くの防護区画内に発電機室を拡張することが難しかったからだ。

 集合命令により浅田大佐達が集められた信濃の会議室が狭いのも、電子兵装の増載が原因と言えた。本来であれば信濃型には司令部用の会議室が設けられていたはずだったのだ。



 初期計画の配置図では、大和型戦艦も連合艦隊旗艦として運用される事を考慮して艦橋基部付近に長官公室などの司令部施設が設けられていた。大和型建造時に計画が進められていた信濃型も、司令部施設などの配置は同様だったらしい。

 ところが、第二次欧州大戦中は電探等の情報が集約される中央指揮所の増設が相次いでいた。自らの視野に囚われることなく周囲の状況を正確に指揮官が把握する為だった。

 問題はこの中央指揮所を何処に配置するかだった。初期の中央指揮所は特設巡洋艦の客室部分を流用した広大な空間に設けられていたのだが、そこから機材を簡略化しても、場合によっては艦長どころか艦隊司令官や参謀達が乗り込む空間を確保するのは難しかった。

 電探の増設もマストの追加など気楽に出来る事ではないが、すでに配置が完結していた戦艦に指揮所を設けるのは別の空間を削り取らない限り不可能だった。


 幸いなことかどうかは分からないが、昨今では分艦隊以上の大規模司令部が戦艦を旗艦として乗り込む例は減っていた。砲撃戦を行う戦艦ではあまりに前線に近すぎるし、旗艦として一隻の戦艦を遊ばせておくほどの余裕も有事の際には無かったからだ。

 前線で指揮を取る大規模な艦隊司令部の場合は、戦時中に改造された重巡洋艦鳥海や軽巡洋艦大淀などの艦隊指揮に特化した艦に司令部が座乗する例が増えていたし、第1艦隊や連合艦隊などは事務仕事が増え過ぎて、増員された司令部要員は陸上施設でなければ収容できなかった。


 被弾時の耐久性を考慮すれば、指揮系統を維持する為には敵弾に晒されるのが前提となる戦艦の中央指揮所は防護区画内に設けるべきだった。しかし、既に配置が決定された戦艦の奥深くに何重もの電線を引き込んで区画を新設する事は不可能だった。

 信濃型建造までに間に合ったのは、従来指揮官を詰め込んでいた艦橋内部の司令塔を廃止した事位だった。中央指揮所は本来旗艦機能に割り当てられるべきだった艦橋基部付近の区画を流用していたのだが、そこには弾片防護程度の装甲板を割り当てるのが精一杯だったのだ。

 本来は充実した旗艦機能を持つ筈だった信濃の会議室が狭苦しくなっていたのもそれが理由だった。司令部施設の半分は中央指揮所等の電子兵装に割り当てられ、長官公室等を維持するので手一杯だったようだ。



 その一方で、元々遣欧艦隊への派遣を想定されていた信濃型戦艦は、長期間の航行を前提として居住区画の充実が図られていた。

 大戦中はアジアから欧州に向かう長距離船団の護衛艦として配属されていた松型駆逐艦等も、日本本土よりも高温の赤道付近を長時間航行する為に、通風や給食など居住性が段階的に強化されていったが、信濃型戦艦も兵員居住区の拡大や設備の刷新が図られていた。


 あるいは、米軍の脅威に晒されている本土から遠く離れた欧州で無聊をかこっている状態である遣欧艦隊の士気がぎりぎりの所で保たれているのは、そのような居住性の向上も原因の一つなのだろうか。

 そんな事を浅田大佐は考えてしまいながら周りの艦長達の様子を伺っていた。


 米国の奇襲攻撃でこの戦争が始まった当初、遣欧艦隊の中には早期の帰国を訴えるものが多かった。トラック諸島で旧式ばかりとはいえ多くの戦艦等が失われた状況では、戦艦2隻と護衛の駆逐艦からなる遣欧艦隊は無視出来ない戦力と思われたからだ。

 日本陸軍がデンマーク軍団に派遣していた第13,17師団などは規模も大きいからそう簡単に帰国させることは出来ないだろうが、自ら移動する遣欧艦隊所属艦であれば、本土への帰還は物理的には難しくないはずだった。


 だが、開戦直後から目まぐるしく変わる政治的な事情が、遣欧艦隊をスカパフロー泊地に閉じ込める事態を招いていた。同盟関係から早々に帰国できるような状況ではなくなっていたのだ。

 米国の奇襲攻撃からさほど間を置かずに英国は対米宣戦布告を行っていたし、フランスやドイツ等もそれに続いていた。国際連盟軍による集団安全保障体制を維持するためだった。

 この集団安全保障の履行に対する米国の反応は劇的だった。カリブ海に点在する旧大陸側勢力の植民地を次々と占領していったのだ。その鮮やかさは、以前から米国の政治中枢である北米大陸東海岸に近接する植民地を占領する戦争計画の存在を疑わせるものだった。



 これに対抗するために英仏などは有力な艦隊を南米のギアナに派遣して米国を牽制していたが、彼らのお膝元である欧州本土でも異変が生じていた。ドイツ北部の占領地帯に駐留するソ連軍とドイツ軍との間で戦闘が勃発していたのだ。

 英仏連合艦隊がギアナに派遣された後も、欧州本土防衛の要としてスカパフロー泊地に留まっていた遣欧艦隊の中からは、帰国が叶わないならせめて北海から出撃してユトランド半島を回って戦場となっているキールに出撃するという作戦案も出ていた。


 積極的な出撃案では、艦砲射撃でソ連軍の出先を叩くつもりだった。現地のドイツ軍からもそのような要請が出ていたようだが、遣欧艦隊、そしてその上級司令部となっている英本国艦隊は出動を控え続けていた。

 ソ連軍の動きが想定よりも鈍く、本格的な交戦に踏み込むのが躊躇われていたのだ。ドイツ北部での戦闘は、米国と呼応した計画的なものではなく、偶発的なものでしかないのではないか、そう考えられていたのだ。

 むしろ国際連盟軍上層部としては、有力な日本海軍の戦艦がバルト海に侵入する事でソ連全軍を刺激するのを恐れていたと言えるだろう。欧州全域でソ連軍の全面攻勢が開始されれば、第二次欧州大戦からの戦災復興も終わっていない欧州諸国の戦力で凌ぎきれるか分からなかったからだ。


 遠く離れた日本本土の統合参謀部も英本国艦隊の方針に異を唱えていなかった。遣欧艦隊に対しては、英本国艦隊残余とともに欧州に残してすきあらば米国東海岸を襲撃する姿勢を維持することを彼らは求めていた。

 それで米海軍大西洋艦隊の戦力を釘付けにできれば、信濃型を太平洋に長い時間をかけて回航する以上の価値があると考えていたのだろう。



 そのような消極策が破綻したのは、つい先日ドイツが欧州奥深くに張り巡らせている諜報組織からの情報が入ってきたからだった。ソ連海軍主力が白海から姿を消したという情報は、ソ連の本格的な参戦を決意したものと受け止められていたのだった。

大和型戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbyamato.html

信濃型戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbsinano.html

紀伊型戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbkii.html

高雄型重巡洋艦鳥海の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/cachokai1943.html

松型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/ddmatu.html

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ