1952激闘、バルト海海戦5
日米開戦前、ミント・ポトチニク大尉は大使館付き駐在武官補佐という肩書でドゥブロヴニクを建造した日本帝国に赴いていた。その頃から海軍だけではなくユーゴスラビア連邦王国軍は大戦で壊滅的な被害を受けた国軍の装備更新を日英などの中古装備に求めていたのだ。
戦時中の今は日本軍との折衝機会も増えることから、即席士官であるポトチニク大尉や開戦奇襲攻撃の核攻撃で死亡した旧王国系の駐在武官の代わりとなる正規士官が入れ替わるようにして赴任していたのだが、当時のポトチニク大尉の仕事は軍人相手よりも兵器輸出入に関する商社との折衝が多かった。
ほぼ新規に編制されるユーゴスラビア空軍は、その主力装備として日本製の四六式戦闘機の採用が以前から決まっていた。空軍の主力機選定には英国製のミーティアも最後まで対象となっていたのだが、最終的には軽快な四六式戦闘機が選ばれていた。
実は戦時中に英国空軍の一員として操縦桿を握っていたペータル2世もミーティアを密かに推していたようなのだが、ソ連側勢力となったハンガリー、ルーマニアとの長大な国境線を抱えたユーゴスラビアでは双発で鈍重なミーティアよりも対戦闘機戦闘に向いた、つまり制空権の確保に向いた四六式が選択されたらしい。
当時日本にいたポトチニク大尉はそんな事は知らなかったが、空軍の装備が早々に日本製となっていたことから、再建される海軍の装備は政治的なバランスを取るために一時期英国製が本命視されていたようだ。
ユーゴスラビア海軍が再建された当時は、戦時賠償の名目でイタリアから譲渡された駆逐艦が主力だったのだが、とうのイタリア海軍自体が国際連盟軍地中海方面の主力として再編成されていたのだから、ユーゴスラビアに引き渡された駆逐艦はイタリア海軍再編成の対象外となる旧式艦ばかりだった。
ところが、そのユーゴスラビア海軍自体も、有事の際にギリシャ方面に移動するイタリア海軍が姿を消したアドリア海からイオニア海に至る海域の警備を求められる様になると、本格的な戦闘艦の整備を意識するようになっていた。
その一方で英連邦諸国の装備を優先する英国側がユーゴスラビア海軍に提案するのは余剰となるフラワー級コルベットなどの警備艦ばかりで、駐英武官を失望させていたようだ。
実は、当時中尉だったポトチニク大尉が来日した頃の日本海軍からユーゴスラビア海軍への売却計画は現在の艦隊整備よりももっと大規模なものだった。
当時の日本海軍は、第二次欧州大戦によって肥大した戦力の再編成、つまり本格的な軍縮に乗り出していた。だから一時的に予備艦に指定された旧式艦もその多くが解体か売却の対象となっていたのだ。
第二次欧州大戦前のユーゴスラビア海軍にはドイツ製の練習巡洋艦と水上機母艦が在籍していた。駆逐艦同様に戦時中に鹵獲され最終的に喪失していたのだが、これの代艦となる大型艦の取得を望む声が大戦終結後から海軍内には存在していた。
実際に一度壊滅した海軍がそんな大型艦を短時間で運用可能かはポトチニク大尉には疑問だったが、実際にこの時期は日本海軍は旧式巡洋艦の安価での売却どころか譲渡の可能性すらあったのだ。
売却予定の巡洋艦がどれかは分からなかった。だが、日本海軍の軽巡洋艦は軍縮条約の影響で断絶していたから、条約期に建造されて大戦を生き延びていた重巡洋艦が対象となる可能性が高かったのではないか。
日本海軍では旧式化していたとはいえ、一万トン級の大型巡洋艦だったから、度重なる改装工事を行っても排水量三千トン程度だったユーゴスラビア海軍の練習巡洋艦とは比べ物にならなかったはずだ。
軍縮条約下で建造されていた日本海軍の重巡洋艦は艦齢が20年を超えていたが、それでも先代のドゥブロヴニクと大して変わらないほどだったから、整備を怠らなければあと10年程度の艦齢は確保出来ていたはずだった。
ユーゴスラビア国内での整備が難しければ、場合によってはアドリア海の対岸にあるイタリアに整備を押し付けることも想定されていたようだが、実際にはユーゴスラビアに日本海軍の重巡洋艦が回航されることはなかった。
日米戦の開戦当日、売却対処となっていたはずの旧式巡洋艦は、同じく旧式化した戦艦とともに日本海軍の大演習で仮想敵を務めるべくトラック諸島に集結していた。そしてそのすべてが奇襲となった米軍の核攻撃で吹き飛ばされていたからだった。
結果的に幻で終わった重巡洋艦の売却どころか、開戦以後稼働艦に逼迫した日本海軍は、最初に売却されたドゥブロヴニクに続く艦の譲渡も難しくなっていた。
初期の計画ではドゥブロヴニク同様の状況に整備された松型駆逐艦が更に売却されるはずだったらしいが、結局国際連盟軍として再編成が必要だったユーゴスラビア海軍に配備されたのは第二次欧州大戦終結後も英国に残されていた鵜来型海防艦だけだった。
もしも日米戦が勃発しなければ、今頃ユーゴスラビア海軍は重巡洋艦を旗艦として、隷下に松型駆逐艦で統一された駆逐艦隊を持つはずだった。
ところが日米開戦によって緊張する対ソ戦に備えなければならないユーゴスラビア海軍は中途半端な警備艦に無理な雷装を施したうえで主力艦として運用する羽目に陥っていたのだ。
当時やけに太っ腹だった日本海軍だったが、それは売却予定だった艦が旧式化したことや、軍縮に伴う再編成によって余剰となったというだけではないらしいという事を日本滞在時にポトチニク大尉は聞き及んでいた。
実際には日本海軍における軽快艦艇の運用術は、第二次欧州大戦より前から変化の兆しが現れていたらしい。そのきっかけとなったのはユーゴスラビア王国とは全く無関係であった軍縮条約、その改定だった。
1930年代半ばの軍縮条約改定では、米国の協力を得て急成長していたソ連軍海軍を黙認するのと引き換えに日本海軍の保有枠拡大を搦手で英国が認めさせていた。
対米比ではそれでも保有枠で劣る日本海軍だったが、この改定の経緯からしても有事の際に日英が協調路線を貫くのは明らかだったから、米海軍は現在の様に両洋に戦力を割り振らなければならないのは必然だった。
重要だったのは、この改定によって日本海軍の戦力が対米戦に余裕が出来たことだった。それまでに日本海軍は、強力な米太平洋艦隊の来襲に備えるために、十重二十重の雷撃戦部隊を構築して待ち構える予定だったらしい。
皮肉なことに、そうした計画が放棄されたことで初めてポトチニク大尉のような国際連盟加盟諸国軍に明かされた戦法によれば、急発展した航空機によるものや、外洋航行能力を持つ大型駆逐艦群でもって敵主力艦隊の数を減らしたところで主力艦をぶつけるという作戦計画だったらしい。
だが、精緻に練られた作戦は、逆に僅かな綻びから破綻する可能性もあった。所詮は正攻法で来られては勝ち目がない弱者の戦略に過ぎなかったからだ。軍縮条約改定で保有枠が増大した後の日本海軍はその正攻法に立ち返ったと言えるのだろう。
これが後の日本海軍の兵備計画に大きな影響を与えたのだが、その後の第二次欧州大戦中においてもこの戦術案に無視できない影響を与える事態が発生していた。それまでの日本海軍が重要視していた雷撃戦重視を戦訓から否定する動きがあったのだ。
航空戦においては、主力と考えられていた陸上雷撃機は脆弱性を暴露していた。海上を長駆進攻して重量のある魚雷を放つために、陸上雷撃機は航続距離と搭載能力を重視して設計されていたのだが、それが結果的に防御力の低下を招いていたらしい。
同時に、レーダーの発展が海上戦闘においても水雷襲撃を困難なものにさせていた。これまでのように夜陰に紛れて射点まで辿り着こうとしても、遠距離から電子の眼で発見されてしまうからだ。
それに従来なら戦艦主砲などの大口径砲であっても夜間の遠距離射撃では命中は期し難かったのだろうが、目視によらないレーダー照準の実用化が遠距離砲戦の実用性を高めていた。
今では戦艦級の大型艦であればレーダーによる測距結果のみで長距離砲戦の照準を行うことも珍しくないというし、目視不可能な状況での盲目射撃も可能だというから、軽快艦艇は夜闇を盾とすることも出来なくなっていたのだ。
結局、開戦前から発生していた保有枠の余裕と雷撃の必要性低下という双方の原因がその後の日本海軍における建艦計画に大きな影響を与えていたといえるだろう。
大きな威力を持つ魚雷が駆逐艦やそれを先導する軽巡洋艦から省かれることは無かったが、再装填用の魚雷などは削減されるようになっていたようだ。そして最新鋭の重巡洋艦に至っては新兵器であるロケット弾を搭載する一方で魚雷発射管は完全に省かれていたようだった。
だが、雷撃の軽視は日本海軍に余裕があるからこそ出来たことだとポトチニク大尉は考えていた。
仮に水雷襲撃が不可能であったとしても、日本海軍はその代わりとなる攻撃手段を有する戦艦群や空母部隊が存在していた。それは英海軍やその仮想敵である米海軍も似たようなものだった。
その一方で安価な軽快艦艇で大型艦を屠るという逆転の機会もあり得る水雷襲撃は、今のユーゴスラビアのような弱者の戦略には必要不可欠だった。
北方のハンガリー、ルーマニアに駐留するソ連軍の脅威を抱える為に大兵力の陸軍を整備維持しなければならないユーゴスラビア連邦王国は、海軍に大きな予算を割くことは出来なかった。だからユーゴスラビア海軍は弱者の戦略に甘んじなければならないのだ。
その観点からすると、いくら安価に取得できたからといっても鵜来型海防艦は水雷襲撃に向いた艦とは思えなかった。合同演習を終えた後の訓練評価でもそのような声がユーゴスラビア、イタリア双方から出ていた。
十年前に本土を占領していた相手というのは、合同演習の相手としては生々し過ぎた。イタリア海軍を指揮する、あまりイタリア人らしからぬ外見の小太りの将官もどこか歯に詰まったような言い方をしていたのだが、その点では見解は一致していた。
演習後にユーゴスラビア側の港湾で行われた評価会議では、窓の外に見える停泊中の戦艦イタリアを背にしたボンディーノ少将が訓練を総括するように言った。
「個艦単位では貴国海軍艦艇にも見るべき練度の高さはあるように思える。ただし、ソ連海軍の戦艦は本艦と同程度の速力を有するものと思われるから、実戦では大型艦に対する水雷襲撃は困難だろう……」
ボンディーノ少将の判断に苦々しい顔でドゥブロヴニクの艦長も頷いていた。
「その点には同意せざるを得ない……護衛艦の20ノットという最高速力では敵戦艦に追随することすら不可能だ。せめて本艦と同型の駆逐艦であれば戦いようもあると思うのだが……」
「いや、駆逐艦といっても日本海軍の松型駆逐艦では速力は本艦と大して変わらなかったはずだ。同速では射点を確保する機動は難しいのではないか」
間髪を入れずに言ったボンディーノ少将に苦々しい表情を崩さないまま、力なく艦長はまた頷いていた。
「確かにそうだが……いっそ噂になっていた音響誘導方式の魚雷を使用するというのはどうだろうか、自動で追尾してくれるなら遠距離からでも精度を上げられるのではないか」
そう言い募った艦長の言葉に一瞬考える素振りを見せたが、ボンディーノ少将はすぐに首を降っていた。
「いや、前に日本人から聞いた話では、あれは自分で聴音しながら舵を切るようなものだから、雷速を抑えないとまともに聴音出来ずに追尾してくれないらしい……おそらく戦艦でも全速航行中では対応出来ないだろう」
使い所が難しい上に、そもそも音響追尾式は日本軍でもまだ限られた例しかないらしいと聞いて艦長が落胆しているのを横目で見ながら、ポトチニク大尉が場を紛らわせるようなつもりで言った。
「弾の速度が問題なら、いっそ魚雷発射管にロケット弾でも詰め込みますか」
ポトチニク大尉に困惑した視線が飛んでいたが、誰かが反応する前に会議室の扉が叩かれていた。慌てた様子のイタリア海軍士官から電文用紙を受け取ったボンディーノ少将は、一瞬眉をしかめてからすぐに凄惨な笑みを浮かべていた。
「残念だが議論はここまでのようだ。おそらくお国からも母港に帰投するようにすぐに連絡が入るだろう。等々アメリカ人に付き合って赤共も動き出したらしい。
英国からの情報だ。ソ連海軍北海艦隊に動きあり、出撃準備と思われる、だそうだ」
一気にざわつき始めた会議室内に、日米戦の緒戦において陸奥艦橋で味わった実戦の気配を感じてミント・ポトチニク大尉はうんざりとした表情を浮かべていた。
四六式戦闘機震電/震風の設定は下記アドレスで公開中です。
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松型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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