1952激闘、バルト海海戦4
―――同じ日本製の船でもこいつは陸奥とは随分と勝手が違うな……
狭苦しい駆逐艦ドゥブロヴニクの艦橋で乗員の邪魔にならないように身を縮こませながら、ミント・ポトチニク大尉はそう考えていた。僚艦を引き連れたドゥブロヴニクは、共同演習の相手であるイタリア海軍の戦艦に対して模擬襲撃を加えるべく機動を行っている最中だった。
ポトチニク大尉が乗り込んでいたドゥブロヴニクは、現在のユーゴスラビア連邦王国海軍が保有する唯一の駆逐艦だった。同時にユーゴスラビア海軍唯一の水上戦闘艦隊の旗艦でもあったが、複雑な経緯から同国海軍の総旗艦という扱いは受けていなかった。
第二次欧州大戦前に就役していた先代駆逐艦の艦名をそのまま受け継いでいたのだが、ドゥブロヴニクは元々日本海軍が第二次欧州大戦中に建造していた松型駆逐艦の一隻だった。
直線を多用して量産性を高めた形状に優美さは感じられなかったが、建造数が多い松型駆逐艦は本来想定されていた船団護衛だけでは無く、日本海軍では多用途に使用されていた。
元の艦名は知らないが、日本からユーゴスラビア海軍に売却されたのは、その中でも比較的原型艦に近い純粋な駆逐艦仕様だった。建造時期は大戦中盤以降だったらしく、電子兵装などは原型の時点で比較的充実していたようだ。
ただし、ドゥブロヴニクはユーゴスラビア海軍に編入される前に改造を受けていた。アドリア海で使用するには過剰とされた対潜兵装の一部を撤去すると共に、主砲を対空砲を兼ねた長砲身の10センチ砲とする事で対空、対水上戦闘能力のバランスをとっていたのだ。
しかし、忙しく動き回る艦橋要員の間から船首方向を覗き見たポトチニク大尉は、ドゥブロヴニクの艦橋直前に配置された主砲塔の様子に違和感を覚えていた。頼りない船首構造に巨大な連装砲塔が載ると、ひどくアンバランスであるように思えたのだ。
原型となった松型駆逐艦は、一世代前の対空砲である12.7センチ径の砲を備えていたらしい。計画時期が新型の10センチ砲と旧式砲の切り替え時期であったし、大戦序盤は日本海軍も主力艦への配備で手一杯だったようだから、建造数の多い松型駆逐艦の備砲は手慣れたものを使用したのだろう。
尤も松型駆逐艦は千トンを越えるポトチニク大尉から見れば立派な駆逐艦であるにも関わらず、派生型が異様に多かった。兵装や機関を減じて空間を捻出した高速輸送艦型などの変わり種を除いた純粋な戦闘艦の中でも兵装にはかなりのバリエーションがあるようだ。
量産性を徹底的に考慮した松型駆逐艦は、積み木細工のように陸上で製造済みの部分部分を組み上げていく方式をとった、らしい。碌な学のないポトチニク大尉は造船の話を聞いてもさっぱりだったが、建造するブロックを建造段階で差し替えて用途を変更するのは容易であるようだ。
それが松型駆逐艦の建造計画において、対空砲を強化した空母随伴用の防空型や対潜兵装を強化した船団護衛用などの特化型の建造に繋がっていったのだろう。
実は、松型駆逐艦の派生型の中には、今では正式に兵装を10センチ砲に換装したものが既に存在していた。原設計のように二線級の護衛駆逐艦として運用するのではなく、その艦は機関部まで一新した高性能の艦隊型駆逐艦として就役しているようだ。
そうなると、既に松型駆逐艦は量産型駆逐艦というよりも、日本海軍の新たな駆逐艦の原型とも言えるようだが、護衛駆逐艦でしかない松型駆逐艦の備砲をいきなり最新鋭のものにすげ替えたとは思えなかった。
艦隊型駆逐艦として建造された松型の場合は、船体にも相応の大型化が図られている筈だし、備砲周りの設計も一新されているのではないか。あるいは、ドゥブロヴニクが10センチ砲を搭載したのは、元々はその艦隊型駆逐艦仕様の試作を兼ねていたのかもしれなかった。
ドゥブロヴニクに搭載された10センチ砲は、本来は対空砲として開発されていたものらしい。ポトチニク大尉は詳細は知らないが、高空を高速で飛翔する航空機を狙い撃つ為には、飛翔時間を短縮するのが重要、らしい。
だから砲身を延長する必要があったのだが、高初速を実現する為にこの砲は砲弾の径こそ小さいものの12.7センチ砲と同規模の機関部を有していた。つまり大雑把に言えば、旧式の12.7センチ砲と規模で言えば大して変わらないということになるのだ。
むしろ装填装置など周辺機材が充実した分、砲塔単位で見れば12.7センチ砲よりも大柄になるようだから、松型駆逐艦の原型に近いドゥブロヴニクに搭載するには無理が生じているのかもしれなかった。
ドゥブロヴニクの場合も、艦橋構造物自体をえぐるようにして艦首に砲塔スペースを割り振った結果、艦橋の容積が不足するという本末転倒な事態も発生していたのだ。
ドゥブロヴニクに施された改造工事は些か無理があるものだったが、運用者であるユーゴスラビア海軍にしてもこの艦の戦闘能力が向上するのであれば、居住性が多少悪化する程度には目を瞑っていたといえるだろう。
1930年代に就役した先代のドゥブロヴニクは、駆逐艦隊を率いる嚮導駆逐艦だった。第二次欧州大戦の戦時中にイタリア、ドイツに相次いで接収された上に撃沈されてしまっていたのだが、大戦を生き延びていたとしても今頃は旧式化で戦力価値は心もとなくなっていたはずだった。
ただし、先代の排水量は今のドゥブロヴニクよりもやや大きい二千トン近くもあるものだった、らしい。そうした点から海軍関係者の中には松型駆逐艦を強引に改造したドゥブロヴニクの性能に不満を抱くものも少なくないようだった。
それは続航する僚艦も同様だった。先代ドゥブロヴニクが率いていた3隻のベオグラード級駆逐艦も旗艦を追うように全艦が接収を経て戦没していた。その代艦としてユーゴスラビア海軍が取得したのは鵜来型海防艦だった。
船団護衛艦として建造されていた日本海軍の鵜来型海防艦は、皮肉なことに欧州とアジアを結ぶ長距離船団の護衛には力不足と判断されていたものの、日英などは欧州近海のドイツ海軍潜水艦隊を制圧するために純粋な対潜艦艇として運用していた。
ユーゴスラビア海軍に売却されたのも英国本土で使用されていた中の3隻だったのだが、鵜来型は第二次欧州大戦の全期間を通して建造されていたものだから細かな仕様差が生じていた。
ドゥブロヴニク同様に引き渡しに前後して鵜来型海防艦も改造工事を受けていた。過剰な対潜兵装を撤去したのはドゥブロヴニクと同様だったが、鵜来型の改造は同艦以上に徹底したものだと言えた。爆雷投射機と共に後部の備砲を撤去して魚雷発射管を設けていたからだ。
船団護衛に主に投入されていたとはいえ、元々松型駆逐艦は汎用性のある駆逐艦として設計されていた。場合によっては艦隊型駆逐艦の代わりに攻勢的な任務に投入される可能性もあったからだ。
だから装備数や予備弾などは限定されていたものの、最初から強力な魚雷発射能力が与えられていたのだが、船団護衛用の海防艦では対潜戦闘と自衛戦闘程度を目的とした兵装に抑えられていたのだろう。
だが、ドゥブロヴニクと共に行動する実質的に小型駆逐艦として運用するには対艦兵装の充実は必要不可欠だった。
対空砲の代わりに魚雷発射管を据え付けるなど日本人の仕事は手回しが良いとポトチニク大尉は感心していたのだが、鵜来型海防艦に雷装が施されたのはユーゴスラビア海軍仕様が初めてのことではなかったらしい。
遥か彼方のハワイ王国海軍向けに一足早く魚雷発射管を装備した対艦戦闘型が改造されていたから、ドゥブロヴニクに続航する僚艦達もそれに倣った工事を受けたものだったようだ。
ドゥブロヴニクと僚艦3隻の再就役によって、戦前のユーゴスラビア海軍が保有していた実質的な主力とも言える駆逐艦部隊は数的には再建されたと言えた。同時に艦齢が一気に若返っていたのも事実だった。
だが、戦前の駆逐艦部隊は兵装や機関の旧式化は否めなかったものの、それから今の艦隊が質的に向上したとは部内で捉えられていなかったものもまた確かだった。
実は、先代ドゥブロヴニクの後継艦に関しては既に第二次欧州大戦開戦前に起工されていた。
その艦はユーゴスラビア王国国内で建造されていたものの、多くの機材は外国製を導入していた。そのため開戦以後は艤装品の未納入で工事が滞り、最終的には占領軍に接収された後に未完成のまま破壊されていた。
スプリトと命名されていた駆逐艦は、完成すれば合計6射線の魚雷発射管と駆逐艦を超えた火力を併せ持つ有力な艦となるはずだった。射撃管制装置や電子兵装は除くとしても、艦の基本的な性能では松型駆逐艦を原型とする今のドゥブロヴニクを大幅に上回っているはずだった。
元々列強海軍が縛られた軍縮条約とは規模の小さいユーゴスラビア海軍は無縁だったから、駆逐艦の個艦性能だけならば列強を上回る艦を建造するのは可能だったのだろう。
その高性能の未完成艦が頭に残っているものだから、艦齢が若いとはいえ大戦中に酷使された護衛駆逐艦を原型とする現在のドゥブロヴニクの性能に不満を持つものが多いのではないか。
松型駆逐艦や改造後の鵜来型海防艦に搭載されている魚雷は、日本海軍仕様の61センチという大口径のものだった。ドゥブロヴニクを先頭とする4隻の艦隊はそれぞれが4連装魚雷発射管1基を備えているから、3連装発射管2基を備えていた前世代の艦隊よりも射線数は少なかった。
ただし、威力は格段に61センチ魚雷の方が上だというから、一隻辺り6射線から4射線に減ったとしても、雷撃戦に関する能力はほぼ同等と言えるのではないか。
参謀本部から合同演習の査察という名目で派遣されていたポトチニク大尉は出港する前に艦長にそう言ったのだが、返ってきたのは苦笑だけだった。今にわかると言わんばかりの様子だったが、ポトチニク大尉は艦橋内部の慌ただしい雰囲気からなんとなく理由を察し始めていた。
駆逐艦隊の仮想敵となっているのは、イタリア海軍の戦艦イタリアだった。かつてのユーゴスラビア海軍を滅ぼした枢軸側の片割れと言えるのだが、今ではソ連海軍が黒海から現れた際には国際連盟軍として共同で事に当たらなければならない友軍だった。
複雑な感情を抑えながらも、ドイツ人よりもはましと考えながらイタリア人との合同演習に望んでいたのだが、ユーゴスラビア海軍駆逐艦隊による水雷襲撃は失敗続きのようだった。
正直に言えば、ポトチニク大尉には自分が乗ったドゥブロヴニクがどのように動いているのかはさっぱり分からなかった。鋭い動きで左右に揺られているから、複雑な機動を連続しているのだろうということが推測できるくらいだった。
ただ、乗員達の動きからすれば襲撃行動がうまく行っていないのは明らかだった。
元々スロベニア系のポトチニク大尉は戦前はゴロツキ同然の男だった。それが対独抵抗運動に成り行きで参加してから、都市部の情報収集細胞としてチトー率いるパルチザンの一員ということになっていったのだ。
時流に乗っていただけのポトチニク大尉が正規の士官教育を受けたのは戦後のことだった。ペータル2世から首相に任命されたチトーが乗り出していた国軍将校団の改革にポトチニク大尉が打って付けだったのだ。
当時は各民族に自治権を段階的に与える形でユーゴスラビアの政治体制そのものが再編成されていた時期だったのだが、再建される連邦王国軍の中核となっているのは戦前からの士官団となっていた。
問題となったのは旧王国軍の士官はセルビア系が民族の人口比を大きく超えて主流派を形成しており、大戦中に対独抵抗運動どころかクロアチアなどとの「内戦」に明け暮れていたチェトニックに関与していたものも多かったことだった。
チトー首相は国軍の将校団にセルビア系以外を増やすことを望んでいたのだが、スロベニア系でパルチザン出身のポトチニク大尉は、まさにその目的に最適だった。
そんな流されるままに士官教育を受けただけのポトチニク大尉だったが、幾度も襲撃機動を繰り返しては失敗するドゥブロヴニクの様子を見ている間に何となく状況がわかり始めていた。
そんな大尉の様子を察したのか、操艦指揮の合間に艦長が振り返って言った。
「どうだ、スロベニア人。俺達がうまく行っていない理由がわかったか」
自嘲的にそういう艦長に、ポトチニク大尉は硬い表情で頷いていた。
鵜来型海防艦魚雷発射管装備仕様
松型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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イタリア級戦艦(改ヴィットリオヴェネト級)の設定は下記アドレスで公開中です。
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