1952激闘、バルト海海戦3
第二次欧州大戦で生じた分断は、対独敗戦から10年以上経った今でもフランス国内の政治勢力に大きな影を落としていた。
大雑把に言えば、ドイツに屈した傀儡政権であるヴィシーフランス政権とそれに抗う自由フランスに別れたということになるのだろうが、実際にはどちらの勢力も一枚岩とはかけ離れたものだった。
大戦の勝利者という形になった国際連盟軍の側には自由フランスがついていたわけだが、短時間で本国が降伏した為に敗戦時に英国に脱出することが出来た高位の軍人は少なく、対独講和時にかろうじて陸軍次官という政権の末席にあったド・ゴール少将が代表という政治的な脆弱性を抱えていた。
着の身着のまま脱出したという点では、戦時中に英国軍に組み込まれていた亡命ポーランド人なども同様だったが、降伏時の大統領から後継指名を受けた元上院議長という高位の政治家を代表とする亡命ポーランド政府は無視できない正統性と発言権があったと言えるだろう。
他の亡命政権も王族などの象徴性を有する人物を代表に据えていたから、大国といえども自由フランスの組織が誕生した時点では政治的な発言力は低かったのだ。
大国としてふさわしい国際連盟内部での発言権を確立する為に、自由フランスは世界中に散らばったフランス植民地を掌握していったのだが、東南アジア等では戦後の独立を餌として本土回復への戦争協力を確約させていた。
この非常措置で誕生した自由フランス軍極東師団は、最終的に軍団規模を超える膨大な兵員数を抱える大部隊に成長していた。
同じ理由でインドから集められた英国軍インド師団以上の規模となった極東師団と共に自由フランス軍は欧州本土解放に活躍したのだが、国際連盟内での貢献に反してフランス本国内の世論は帰還した自由フランスに反発を抱いていた。
第二次欧州大戦が終結した後のフランスは、世界中に有していた影響力を大きく低下させていた。これを自由フランスが勝手に植民地の独立を許した為であるとする世論は、戦時中は国内で対独抵抗運動に従事していたものたちの中でも根強かった。
尤もその抵抗運動にしても主義主張は一致していなかった。共通していたのは占領者であるドイツに反抗するという一点だけで、組織の規模や実行手段、思想が全く異なる集団は最後まで統一した行動を行えなかった。
一時は自由フランスによる指揮系統の統一化も図られたのだが、あまりに主張の異なる抵抗運動側の理由に加えて、自由フランスの国内世論からの乖離もあって結局一部抵抗運動が英国などからの支援を受ける程度に留まっていたのだ。
戦後におけるフランス政治の主流派は自由フランスが占めたと言えるのだが、それは国際連盟との外交関係を考慮した結果に過ぎず、国内の政治事情は未だに混沌としていた。
対独協力を批難された旧ヴィシー・フランス政権関係者は政治家の多くは排斥されていたが、さほど高位ではない軍人が中心となった自由フランス勢力ではフランス国内を統治することは難しく、実務を行う官僚団自体を排除する事は不可能だった。
結果的にフランス国内の政治は少数政党の乱立、妥協と打算が渦巻く状況に陥っていた。しかも、そうした混乱を嫌ったのか自由フランスを率いていたド・ゴール将軍は早々に公の舞台から姿を消して引退してしまっていた。
強力な指導者を失った自由フランス勢力はさらなる分裂を招き、既存の政治勢力と時に迎合しながら政権運用を行わなければならなかったから、巨大な国費を傾けて行う戦艦の建造どころか、国防方針ですら僅かな間に二転三転する始末だった。
むしろ隣国の政治的な混乱を傍目にしていたピオキーノ大佐などは、よくビスマルクを徹底的に改造してアルザスに仕上げたものだと考えていたのだが、そこにはフランス人の面子という超党派の意識があったようだった。
工期の促進や改装計画の改定は行われていたのだろうが、国際連盟諸国に戦艦整備を改めて突きつけたソ連海軍のアルハンゲリスク再就役が確認される以前からアルザスの改装工事そのものは進められていた。
旧ヴィシー・フランス側や自由フランス側かによって受け取り方は多少異なるかもしれないが、大凡のフランス人たちは自分達を戦勝国と認識していた。英国海軍はともかく、イタリア海軍どころかドイツ海軍ですら戦艦を保有する状況ではフランス海軍に戦艦が一隻もないのは我慢ならなかったのだろう。
フランス国民の面子を保つためにも再就役していたアルザスだったが、実際に有事の際には旧ビスマルク時代から母港としているブレストから地中海側のトゥーロンに移動してイタリア海軍の後詰として英海軍の来援と共に行動する、はずだった。
ところが、北部ドイツで国際連盟軍とソ連軍が衝突するという事態を迎えた今、肝心のアルザスはトゥーロンどころか、大西洋に面するブレストにすら在泊していなかったのだ。
戦艦アルザスは、一部の英国艦隊と共に南米大陸の北東部に移動していた。米国が奪取した英仏カリブ海植民地の奪還を目的とした多国籍艦隊を構成していたのだ。
日米が太平洋で開戦に及んだと最初に聞いたピオキーノ大佐は、何処か対岸の出来事と捉えてしまっていた。戦場となったハワイやトラック諸島が何処に存在するのかでさえ正確な知識はなかったからだ。
勿論イタリア海軍にとっても日米戦は無関係ではなかった。米国は欧州諸国が対峙するソ連の友好国であるし、日本海軍が派遣した遣欧艦隊は第二次欧州大戦からの復興が完全とは言えない状況では数は少なくとも貴重な戦力だったからだ。
だが、遣欧艦隊やデンマーク軍団への派遣戦力が日本本土に帰還するのではないかと言う懸念が中心であった日米開戦の影響は、フランス国民にとって意外なところで大きくなっていた。
当初の予想では、日本帝国との関係が深く、同時に対米関係が冷え込んでいる英国の方が対米参戦に積極的だと思われたのだが、ある一人の男の死がフランスの世論を対米参戦へと強く傾けていたのだ。
その男の名はナポレオンといった。かつて欧州に皇帝として君臨したものの子孫だったが、その名はフランス国民にとって複雑なものだった。
政治的な影響力が極めて大きく、かつての皇帝の家系は国外追放となっていたのだが、当代の当主は国外で自由フランスに身を投じていたのだ。それでも戦後も腫れ物扱いが続いていたのだが、自由フランス時代の伝手でジャーナリストとしてほとぼりが冷めるまで国外に赴いていた、らしい。
やはりナポレオンの名はフランス政界にとって劇物だったらしく、実質的に国外追放となっていたことから、皮肉な事に彼の死亡を伝えるニュースで消息を知った人間は多かった。
彼はジャーナリストとしてトラック諸島で行われる日本海軍の演習を取材中に、米国の新兵器の巻き添えを食らって死亡していた。しかも、米国は一般外国人ジャーナリストと同じ扱いでナポレオンの死を簡単な連絡のみで済ませていたのだった。
これを知ったフランス国民は、党派を問わずに激昂して対米感情は悪化の一途を辿っていた。当代のナポレオンを国外に送っていた一派もそのことを忘れていたかのようだった。
共産党は独裁者としてナポレオンの名を見ていたようだが、どのみち講和時に爆弾テロを起こした事で徹底した弾圧を受けたフランス共産党に発言力などあるはずもなかった。
おそらくはフランス国民を対米強硬に走らせたのは、ナポレオンの名前だけではないのだろう。各派分裂して何も進まない議会、国際的な発言権の低下をもたらした国力の衰退、そうした鬱屈した状況がフランスの象徴たるナポレオンの名を汚したという対米世論に繋がったのではないか。
単に鬱屈した感情の捌け口を求めていただけかもしれないが、ナポレオンの死は、それ程フランス国民の意識を集合させる力があったのだろう。
フランスの宣戦布告は米国にとっても予想外だった筈だが、米軍の動きは迅速と言って良いものだった。彼らの内懐にある英仏のカリブ海植民地を圧倒的な戦力で占領していったのだ。米国からすれば、短期決戦でフランスの継戦意欲を削ごうとしていたのかもしれない。
しかし、自らの宣戦布告で短時間で広大な領域が失われたにも関わらず、フランス国民の戦意は衰えなかった。むしろ、米国の野心が明らかとなったと声高に主張したフランスは、アルザスをカリブ海に接すると言ってもよいギアナに送り込んでいたのだ。
同時に英国海軍も本国艦隊から抽出した旧式戦艦を含む有力な艦隊を派遣していた。英仏に加えてオランダ領を含むギアナに展開した連合艦隊は、ほぼ一体として運用されていた。
対する米海軍大西洋艦隊は広大な戦力を有していたが、英仏連合艦隊はしばしば積極的に出撃してそれなりの戦果を上げていた。確かに米海軍の戦力は大きかったが、日本海軍と対峙する太平洋に加えて、カリブ海全域に十分な戦力を手当出来る程の余裕はなかったからだ。
人口の多い大島や経済価値の高い島に偏在する米海軍の防衛艦隊を嘲笑うように、英仏艦隊は機動力を活かして無防備な地域を選んで荒らしまわっているらしい。
しかも、ある意味で英仏艦隊はギアナを聖域としていた。地域大国であるブラジルが南米を戦場とする事を非難していたからだ。ブラジルは、本土に隣接するギアナから英仏艦隊の撤退を要求していたが、英仏は厚かましくこの艦隊はギアナの防衛部隊であると主張して居座っていた。
だが、カリブ海方面の戦闘は戦果の宣伝にはなっても決定的な勝利とはならなかった。英仏艦隊には占領地奪還と防衛に必要な大規模な歩兵部隊が存在していなかったからだ。
この方面には各島に分散しているとはいえ、米軍は複数の師団を投入しているようだった。それに対して英仏両軍を合わせても現地で確保できる兵員数は一個師団程度でしかないし、海上機動可能な歩兵戦力となると更に心許ない状況だった。
だから、錯綜した島嶼部の地形を利用した高速艦艇による短期的な襲撃や通商破壊戦は可能でも、長期的な奪還作戦には本国からのさらなる増援が必要だったのだろう。
尤も手詰まりなのは米軍も同様だった。米国は英米の宣戦布告への回答として短時間のうちに占領地を広げた形だったが、それが可能だったのはカリブ海の大半が人口密度の低い島嶼部であったからだ。
元々米本土に近いこの海域には英米とも大規模な守備隊を置く余裕はなかったから、制圧そのものを妨害する戦力は大したことはなかったはずだ。
米海軍は大西洋艦隊の大兵力をカリブ海に貼り付けて占領地の確保を狙っているものの、カナダ国境線などにも兵力を展開させねばならない米陸軍には、ブラジルを刺激してまで南米の英仏領に師団級の部隊を送り込む余裕はないようだった。
イタリア海軍にとっては、この膠着状態こそが最も避けたかった事態かもしれなかった。ソ連海軍黒海艦隊と対峙するイタリア海軍の後詰となる筈だった戦艦アルザスがフランス本国に帰還する時期が見えなくなっていたからだ。
最悪の場合、カリブ海でアルザスや英海軍の旧式戦艦が沈められるかもしれないし、英海軍と違ってイタリア海軍には予備兵力は存在しなかった。
戦艦イタリアの戦力化が急がれているのは、この状況そのものが理由だった。
現在のイタリア海軍には悠長に新鋭戦艦の戦力化を待っている余裕はなくなっていたのだが、ピオキーノ大佐にとって心の支えとなるかどうかは分からないが、同じような事態に陥っているのは戦艦イタリアだけではなかった。
―――むしろ、日米戦の開戦前に整備が整わなかった彼らのほうが、相対的に状況は悪いのかもしれないな……
ピオキーノ大佐はそう考えながら接近する艦艇の存在を告げる見張り員の声を聞いていた。傍らのボンディーノ少将にうなずきながら、大佐は当直将校に艦長が操艦することを宣言していた。
ピオキーノ大佐が操艦する戦艦イタリアは、今日の合同演習を行う相手に急速に接近していった。
イタリア級戦艦(改ヴィットリオヴェネト級)の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbitaliana.html
戦艦アルザスの設定は下記アドレスで公開中です。
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