1952激闘、バルト海海戦1
大戦で荒れ果てたキールの市街地は、再び瓦礫の山と化していた。ソ連軍との交戦の合間にシュナイダー少尉が疲れ切った体をもたれかせていたのも、もとは誰かの家か商店でもあったのだろうが、その判別はつかなかった。
ドイツ北部、ユトランド半島東岸の根本に位置するキールは、深いフィヨルドの奥にあって天然の良港として機能していた。そして、キールから直接大西洋に進出可能なキール運河の存在によってその重要度は増していったと言えるだろう。
ドイツにとってはバルト海から北海に進出できるキール運河の存在は欠かせないものであり、その交通量は年々増加していたと言っても過言ではなかった。
そのような状況が一変したのは、第二次欧州大戦の終盤における7年前に行われたソ連軍大攻勢の影響によるものだった。
前年のヒトラー総統暗殺事件前後からドイツ軍は戦線を縮小して国際連盟軍との講和を協議していたのだが、旧ポーランド国境を越えたソ連軍はドイツ領に急侵攻していたのだ。
国際連盟軍の推測では、ルーマニアやチェコなど東欧方面に展開すると思われていた部隊も一挙にドイツ本国を占領する為に投入されていた形跡もあったようだ。
戦力を集中させたソ連軍に対して、ヒトラー総統が行方不明となった後に政権を掌握したゲーリング総統代行は、国際連盟との講和を進めながら東部国境付近の民間人に対して組織的な疎開を命じていた。その時点で総統代行は東部戦線の崩壊を予期していたのは間違いないだろう。
ただし、ドイツ連邦軍と殆ど名前を変えただけで再編成されたドイツ軍の幹部や古参下士官達は、ゲーリング総統代行のそのような弱腰の政策がドイツ北部陥落の原因であると考えていたようだった。
当時のドイツ国内はヒトラー総統暗殺事件以降混乱を極めていた。国際連盟との講和条件によって外国人労働者や捕虜は続々と帰国していたのだが、戦時中のドイツは増大する一方の軍に労働人口を吸い取られていたために、国内で不足する労働力を外国人達で補っていたのだ。
国内の労働者どころか、最前線に展開する武装親衛隊ですら志願した外国人で成り立っていた。当初は占領地域の民族ドイツ人、つまりかつてのドイツ帝国領に取り残されたドイツ民族に限定されていた武装親衛隊の「外国人」将兵は、兵力不足を理由になし崩し的に緩和されていった。
最終的には欧州諸国や捕虜のスラブ人どころか、ソ連国内の少数民族やムスリムまで政治的に取り込んでいた結果、武装親衛隊の隊員達は人種や階層のるつぼとなっていったのだが、国際連盟との講和は戦争犯罪に加担したとみなされた武装親衛隊の組織解体に及んでいた。
純粋なドイツ人からなる古豪の武装親衛隊師団が陸軍に吸収される一方で、雑多な外国人部隊は解隊されて隊員達は散っていった。その多くは労働者や捕虜と共に彼らの祖国に帰国していたが、帰国後の待遇には温度差が生じていた。
終戦間際のドイツ国内で深刻化する労働者不足に対処するために、地中海戦線やフランス占領地帯から帰国した部隊の多くはそのまま解隊されるか、労働部隊として工場などに送られていた。
だが、いきなり労働者が外国人から現役将兵に入れ替わったところで産業界が対応できる筈もなかった。数字上の労働者は必ずしも生産量の維持を示さなかったのだ。
結果的に見れば、帰国した部隊を労働者として再編成するよりも、そのまま東部の前線に再投入した方が良かったのかもしれなかった。僅か数カ月で前線が崩壊した結果、その間の労働力を確保しても生産量は前線に寄与しなかったと言えるからだ。
戦力が不足するドイツ軍の前線をあっさりと崩壊させたソ連軍は、バルト海沿岸を突き進んでいた。特殊な長距離ロケット弾による戦線後方への攻撃などもあったものの、大局に大きな変化をもたらすようなものではなかった。
住民が疎開したドイツ北部は、まさに無人の荒野だった。講和した国際連盟軍も北上を開始してチェコなどの防衛線に参加していたのだが、ドイツ本国への展開が遅れた結果、ベルリン陥落後もソ連軍は特に北部に占領地帯を広げていたのだ。
最終的にソ連は国際連盟軍との全面衝突を回避してエレノア米大統領の仲介で停戦に同意していたのだが、それまでの間にハンブルクを半壊させたソ連軍はキール近郊まで急展開していた。
ソ連軍がそこで押しとどまったのは、遅滞戦闘もおぼつかずにユトランド半島の根本に押し込まれていたドイツ北方軍集団残余ではなく、国際連盟に復帰したデンマークからの要請という形で急遽同国のユトランド半島に展開した国際連盟軍デンマーク軍団との衝突の方を恐れたからではないか。
この時点で、北方軍集団残余はほぼデンマーク国境とキール運河に挟まれた狭い地域に押し込まれていた。深い運河を堀として防御地形に取り入れて前線を構築していたから、破竹の勢いで進軍してきたソ連軍も損害覚悟の全面攻勢を躊躇っている間に停戦にもつれ込んだというところではないか。
だが、ドイツ側の反発にも関わらず、停戦交渉の結果としてソ連は停戦後も占領地域を維持し続けていた。事実上の賠償扱いだったが、ドイツは概ね南北、正確には北東部のソ連占領地域と南西部のドイツ連邦に分断された形になっていたのだ。
そして、この分断された国境線がキール運河の命運を分ける結果となっていた。バルト海と北海、更には両岸で支配者が違うものだから、運河の運行がほぼ止まってしまったのだ。
一応は国際条約でキール運河は第一次欧州大戦後に自由航行が許された国際運河と定められていたのだが、国際連盟が主導する国際運河に関する条約を未加盟のソ連が律儀に守るとは確約出来なかった。
実際に航行する船舶の臨検などをソ連が積極的に主張したわけではないが、国際運河の取り扱いに関してはソ連は曖昧な姿勢を崩そうとしなかった。ソ連側としてはキール運河の運用そのものを交渉材料とするつもりだったのではないか。
キール運河が繋ぐ大西洋沿岸部の北海とバルト海を分断するのはユトランド半島しかないから海面高度差は無視できる程度だったが、干潮から閘門が設けられていた。それに建設費を圧縮する為に自然河川を最大限利用していたから、本来は運河を維持するためには定期的な浚渫作業も欠かせなかった。
停戦から5年も経つと、実質的に閉鎖されて淀んだキール運河でまともに大型船が運航可能かは分からなかった。本格的に運河の運用を再開しようとすれば大規模な浚渫や閘門の整備点検が必要となってくるだろう。
今回のキール運河をめぐる戦闘は、そうした閉鎖的な環境に置かれて鬱屈していたドイツ軍の一部が日米開戦に便乗したものだったのではないか。自分が率いる部隊が、再戦のきっかけとなったといっても過言ではないシュナイダー少尉は、密かにそう考え続けていた。
訓練中における新兵の行方不明事件は、本来であれば単なる脱走か事故で済まされるはずだった。行方不明になったハンス二等兵は入隊したばかりだったし、それ程優秀という感じは受けなかったからだ。
彼に限らず、シュナイダー少尉が所属する装甲猟兵中隊の隊員は士気も練度も低い兵が多かった。
デンマーク国境付近に取り残された娯楽も人口も少ないドイツ北部への配置ということもあるのだろうが、単純にシュナイダー少尉達のような先の大戦には従軍できる年齢ではなかった若者は、終戦後も我が物顔に振る舞う軍に対して好意は持っていなかったと言えるのではないか。
だが、中隊司令部は最初から近傍に展開するソ連軍に警戒不足の新兵が拉致された可能性を考慮して動いていた。戦時中は前線から拉致した捕虜は重要な情報源だったからだ。古参の士官や下士官は未だに戦時中の意識で動いていたのだろう。
その捜索活動が独ソ間の戦闘を誘発していたと言えるのではないかとシュナイダー少尉は考えていた。最初の一発を誰が撃ったのかは分からなかった。勿論ドイツ軍はソ連軍の発砲を主張していたが、ソ連軍は逆であると言い張っていた。
その時は確かに現場にいたシュナイダー少尉でさえ判然としなかったのに、後方にいた中隊や旅団の指揮官達は傲然とした態度でソ連軍を批判していた。おそらくはキール運河の向こう側でも同じような事が起こっていたのだろう。
なし崩し的にキール運河全面で戦闘が始まった当初は、ドイツ軍の方がソ連軍よりも優位であったと言えた。上層部はこれあるを予期していたのではないかとシュナイダー少尉は疑っていた程だった。
事前に用意されていた渡河装備を駆使すると、たちまちキール運河南岸に橋頭堡が築かれていた。そしてシュナイダー少尉達装甲猟兵中隊もキールに向けて前進を開始していたのだ。
実は、その頃には一時的に行方不明になっていたハンス二等兵が発見されていた。一人で用を足していた時に銃撃を聞いたハンス二等兵は、そのまま木陰に隠れていたのだが、日が差して中隊が本格的に動き出した頃には原隊を探し回っていたのだ。
シュナイダー少尉は、古参の小隊軍曹と示し合わせて戻ってきたハンス二等兵を何事も無かったかのように分隊から外して自分達の目が届く小隊付にしていた。
今となっては誰が戦闘の切っ掛けだったのかは誰も気にしなくなっていた。そんな中で、ハンス二等兵の存在を公にすると問題となる気がしていたのだ。
順調にドイツ軍が前進できたのは僅かな間のことでしかなかった。ソ連軍の重戦車部隊がキール市街地の前面に展開していたからだ。
その時点で北部に展開していたドイツ軍の主力はキール運河を渡河していたが、重装備には欠けていた。重巡洋艦でも楽々通過できるキール運河は、水深が深く渡船でないと渡河は不可能だったからだ。
人員輸送用の軽量級ボートなどは陸上輸送でも容易に持ち込めたが、重砲や戦車などを輸送出来る装備は当地のドイツ軍には欠けていたのだ。浮足立ったドイツ軍が辛うじてキール郊外で戦線を維持出来ていたのは、ソ連軍地上部隊の動きが予想以上に鈍かった事が主因だったのではないか。
尤も動きが鈍いのはドイツ軍の背後を固める形になった国際連盟軍デンマーク軍団も大して変わらなかった。
英日から派遣された師団を主力とするデンマーク軍団は、正面のソ連軍以上に重装備だった。しかも大半が第二次欧州大戦中の中古装備を支給されていたドイツ軍と違って、英日軍の中には大戦の戦訓を受けて開発された最新鋭装備を配備された部隊も配属されていた。
ただし、その重装備に加えて日本陸軍は未だに大規模な4単位制師団編制を維持しているものだから、戦略的な展開速度は遅かった。本来はデンマーク防衛とソ連軍への牽制のために配備された部隊だったから渡河装備なども不足しているようだ。
重装備の渡河が遅れた皺寄せは、シュナイダー少尉達に強くのしかかっていた。ソ連軍は戦車砲の火力を中核とした諸兵科連合部隊を投入していたのだが、キール運河南岸に展開していたドイツ軍は重火器に乏しかったからだ。
シュナイダー少尉達の装甲猟兵中隊は、ドイツ軍の貴重な対戦車部隊として幾度も火消しに投入されていたのだが、古式ゆかしい部隊名は厳しいものの装甲猟兵中隊の実態は軽易な対戦車兵器である携行ロケット砲部隊でしかなかった。
第二次欧州大戦中に日本軍が採用していた成形炸薬弾を使用する噴進砲は未だに強力な火力を持っていたものの、見飽きたT-34中戦車ならば兎も角、傾斜装甲を極めたIS-3の重装甲に対抗するには力不足だった。
何よりも、生身の体でロケット砲の実用射程距離まで接近するには運と胆力が必要不可欠だった。一年もかけてようやく瓦礫とかしたキール市街地にたどり着いたシュナイダー少尉達の装甲猟兵隊は、幾度も再編成を受けてその顔触れも代わっていった。
皮肉な事に開戦の切っ掛けとなったと言っても良いハンス二等兵は五体満足で未だに装甲猟兵中隊に残っていたのだが、シュナイダー少尉はこのキールを抜くまでにどれ程の損害が出るのかは全く分からなかった。
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