1919シベリア遡行6
カッターが着岸した衝撃は、それほど強くなかった。
予め予測していなければ、それと気が付かなかったかもしれない。
それだけ衝撃は弱かった。
中洲は、ほとんど柔らかい砂で形成されているようだった。
カッターが流されないように、着岸と同時に、周囲の樹木に固定するためのロープを持って駆け出そうとした陸戦隊員が足を取られて、その場で転びそうになっていた。
踝辺りまで埋まりそうになったが、何とかその兵は数少ない樹木に向かって駆け出していった。
だが、それもその兵が騎銃しか抱えていない軽装備だったからだ。
これでは重量のある重火器の移送には手間取るかもしれない。
それに、このような砂地では地形を変えるような塹壕陣地を構築するのは不可能だろう。
ヴォルスネセンスキー連隊員達が十分な機材を有しているとも思えないから、実際は僅かな地形の起伏を利用して防御陣地を築くしかないのではないのか。
日露戦争以後の戦訓では、防御側が適切に機関銃などの重火器を配置した場合は、攻撃側に対して圧倒的な優位になる。
だが、それも十分な陣地を構築したとしての話だから、偽装や築陣がされていなければ防御側優位の方則も揺らぐかもしれなかった。
中洲への上陸を果たした日本軍だったが、すぐには動き出すことはできなかった。
不用意にヴォルスネセンスキー連隊の陣地へと近寄れば、戦闘の直後で興奮した彼らから銃撃される可能性が高かったからだ。
だから、まずはケレンスキー大尉を先頭にして、友軍を明らかにした上で接近しなければ危険だった。
しかし、そのような手間を考えても合流は難しくなさそうだった。
陣地の中心である番屋と上陸地点とがごく近距離にあったからだ。
漁民の休憩地となる番屋が水面に近い位置にあるのは当たり前なのだが、事前に通信筒から出てきた地図で確認していたよりも、ヴォルスネセンスキー連隊員の陣地と水面との距離は近いような気がする。
上空からの偵察では、距離を見誤っていたのか、それとも干潮の関係で川岸が番屋に寄ってきているのかもしれない。
――先に敵水上部隊を殲滅した大賀艇長の判断は正しかったということか。
それが地形を見た伊原中尉の結論だった。
これしか番屋との距離がないのでは、川岸から敵部隊に上陸されてはひとたまりもなく、多数の敵上陸部隊にもみ潰されて終わったのではないのか。
極端な話、敵部隊は上陸すらする必要がないかもしれない。
不知火と陽炎に対してそうしたように、舷側からの急射を行うだけでも膠着した戦況を一変させていたかもしれなかった。
そのような危機的な状況に置かれているのを感じたためかもしれない。
先頭を行くケレンスキー大尉は、ほとんど走りだすような勢いで番屋に近づいていった。
重火器の上陸と小隊主力の移動の指揮を国枝兵曹長に任せると、伊原中尉も少数の兵だけを連れてそれに続いた。
ケレンスキー大尉の行動は、はたから見れば無防備なほどだった。
ほとんど無造作に戦闘直後の陣地に近づいていく。
だが、これは危険な行為だった。戦闘の興奮は、直接の戦闘が終了してからも暫くの間は将兵たちから抜け落ちることはないからだ。
だから、些細な物音などでも発砲する兵士は少なくないし、平時に考えられているほど敵味方の識別も簡単ではない。
しかし、ケレンスキー大尉は、無頓着に陣地に近づいていった。
実際に、最初に出会って兵士は、彼らに気がつくなり、慌てて銃を向けてきた。
伊原中尉達は慌てて準備してきた日本軍旗を示そうとしたが、それよりも早くケレンスキー大尉が喜色をあらわにしながら、親しげに兵の名前を叫んでいた。
その大声に気がついたのだろう。周囲からはわらわらとロシア人達が姿を表した。
彼らはしばらく呆然とケレンスキー大尉の顔を見つめていたが、すぐに何人かが駆け寄ってきた。
ケレンスキー大尉以上に満面の笑みを浮かべながら、彼らは大尉を抱きすくめていた。
それを見守る将兵たちも、お互いに顔を見合わせながら安堵の笑みを浮かべていた。
平服のままであったり、軍服を着ていても上下どちらかだけだったりと、装備や服装はいい加減だったが、指揮や練度はたしかに高そうだった。
考えてみれば、ケレンスキー大尉も元々彼らに先行して派遣されていたのだから、顔なじみなのはあたり前のことだった。
だが、伊原中尉と護衛の兵たちは、呆気にとられるばかりだった。
しかし、伊原中尉達が部外者でいられたのも短時間のことだった。
ケレンスキー大尉をようやく開放したロシア人達によって彼らも揉みくちゃにされて歓迎されたからだ。
ヴォルスネセンスキー連隊員たちが増援を待ちかねていたのは間違いなかった。
中洲に陣取るのはヴォルスネセンスキー連隊の一部、約一個中隊という話だったが、それを指揮しているのは佐官だった。
番屋の前で、折り畳みテーブルの上に広げた簡素な地図を前にしていた男が、騒々しい気配に気がついて顔を上げた。
疲労の色は隠せないが、戦意までは失っていないようだった。その目は鋭く、顔つきは精悍だった。
歳の頃は40は越しているだろう。
平服の上から、ロシア帝国陸軍の軍服を上着だけ羽織っていた。
軍服に縫えつけられた階級章は、陸軍中佐を示していた。
中佐は、ケレンスキー大尉に気がついても、他の将兵のように騒いだりはしなかった。
ただ、ひどく人好きのしそうな笑みを浮かべて、やぁサーシャと呼びかけただけだった。
それに対して、ケレンスキー大尉は、涙を浮かべんばかりでぐしゃぐしゃになった顔で敬礼をしていた。
次に伊原中に向けて中佐は笑みを向けた。
伊原中尉は、素早く堅苦しい敬礼をしながら言った。
「日本海軍、伊原中尉であります」
「ロシア帝国陸軍、マクシモヴィッチ中佐です。あなた方の来訪を皇女殿下に代わって感謝いたします」
感涙で使い物になりそうもないケレンスキー大尉を一瞥すると、伊原中尉は慌てて続けた。
「申し訳ありませんが、自分が率いてきた部隊は一個小隊に過ぎません」
そう言いながら、伊原中尉は素早くマクシモヴィッチ中佐が広げていた地図に目を向けた。
伊原中尉の意図に気がついたのだろう、マクシモヴィッチ中佐は簡潔に状況を説明した。
敵部隊は少なくとも一個大隊以上の戦力を保有しているらしい。
砲兵などの重装備は確認されていないが、その半数は騎兵らしく機動性には優れていた。
状況は、事前の推測と殆ど変わりはなかった。
伊原中尉は、ため息を付くといった。
「やはり我々を加えても敵部隊を撃退するのは難しいかと…」
マクシモヴィッチ中佐も同じ判断らしく、頷いて賛意を見せた。
「我々をここまで輸送した不知火と陽炎の収容人員は限られます。申し訳ありませんが、皆さんをお連れすることはできません」
下手に希望を持たせるようなことは言うべきではなかった。
伊原中尉は、マクシモヴィッチ中佐の目を真っ直ぐ見つめながらいった。
マクシモヴィッチ中佐は、一瞬落胆の表情を浮かべたが、そんな自分を恥じるように次には笑みを浮かべた。
「中尉が気に止むことでありません。最初からこのような事態は予測していましたから…皇女殿下の付き人として、連隊で一番若い士官と兵を一人づつ選んであります。何とかこの四人だけでもハバロフスクまで無事にお連れしていただきたい」
最後はほとんど懇願するような声だった。
伊原中尉は、感動を覚えながらいった。
「機関銃や迫撃砲のような重装備は置いていきますから、四人と言わずにもう少し移送することは可能ですが」
「いや、追加の人数を選抜する時間が惜しい。それに人数が少ないほうが身軽でしょう。機関銃はありがたく使わせて頂きます。最後まで我々は皇女殿下んために戦いましょう」
もうこれ以上話すことは何も無いように思えた。
伊原中尉は押し黙って頭を下げた。
「増えるのは三人だ」
出し抜けにケレンスキー大尉の声が聞こえた。
慌てて伊原中尉が振り返ると、ケレンスキー大尉は、すでに小銃を構えていた。
元は日本軍の小銃だが、欧州大戦時にはロシアにも盛んに輸出されていたものだった。
ケレンスキー大尉の小銃を構える姿も様になっていた。
伊原中尉は何かを口にしようとしたがそれは果たせなかった。
ケレンスキー大尉がそれより早く首を降っていたからだ。
その決意は固いらしかった。
伊原中尉は、言葉の代わりに唸り声を上げると、押し黙ってから腰の軍刀を外していた。
そして、無言のままフランス製のサーベルを、押し付けるようにケレンスキー大尉に差し出していた。
ケレンスキー大尉は、無言のまま大尉を睨みつけるようにサーベルを柄ごと突き出した伊原中尉を驚いて見たが、しばらくしておずおずとしながらサーベルを手にとった。
「私がもらっても良いのだろうか…その、日本軍の備品ではないのか」
伊原中尉は、苦虫を噛み潰したような顔でいった。ただし見るものが見れば、作った表情だと気がつくだろう。
気を抜けば、悲壮な表情になりそうだったからだ。
「元々は戦死したフランス軍士官からもらったものだ。第一、機関銃や迫撃砲まで置いていくのに備品もクソもないだろう。それに…俺よりあんたが持っていたほうが役に立ちそうだ」
ケレンスキー大尉はそれを聞くと、ニヤリを笑みを見せると素早くサーベルを腰に固定して、見事な敬礼をしてみせた。
それからすぐに、伊原中尉の肩越しに、何かを見てそちらに向けて緊張した顔を見せた。
伊原中尉がそちらに顔を向けると、マクシモヴィッチ中佐も敬礼しているのが見えた。
そして、番屋から素早く二人の男がかけ出して直立不動で扉に前に陣取った。
よく見ると片方は、ひどく年若い兵だった。
紅顔の少年兵は、十代の半ばくらいにしか見えなかった。
もう片方は士官だったが、階級章は少尉で、士官学校を出たかどうかも怪しそうな年齢だった。
――すると、この二人が皇女の付き人なのか…
そこまで気がつくと、伊原中尉も慌てて敬礼をした。
番屋からは、更に二人の女が出てきた。
それは間違いなく皇女だった。
衣類は質素で豪勢なものでは無かったし、表情からもひどく疲れた雰囲気が漂っていたが、それでも気品は隠すことができなかった。
歳の頃は二十歳前後だから、間違いなくロシア帝国の第三皇女マリアと第四皇女アナスタシアなのだろう。
マクシモヴィッチ中佐は、伊原中尉を手招きすると二人の皇女の前に歩み出た。
「殿下、こちらは日本軍の伊原中尉です。彼が殿下を日本軍の艦艇でハバロフスクまでお連れします」
伊原中尉は、ひどく緊張した声で申告した。
「日本海軍中尉、伊原であります。皇女殿下をお連れすることは小官にとって光栄の極みであります」
落ち着いた様子でマクシモヴィッチ中佐は続けた。
「殿下、事態は切迫しております。いつまた無政府主義者共が襲撃してくるかもしれません。どうか、お早く」
だが、マリア皇女は不安そうな顔で、マクシモヴィッチ中佐と、伊原中尉の顔を交互に見た。
「ですが…あなた方はどうするの」
マクシモヴィッチ中佐はそれに答えなかった。にこやかな笑みを浮かべてこう言っただけだった。
「どうかお早く」
それに覆いかぶさるかのように、日本語とロシア語の見張り員の声が同時に聞こえた。
「敵騎兵部隊接近」
伊原中尉が、見張りの声が聞こえた方向に双眼鏡を向けると、中洲の反対側に微かに土煙が見えた。
湿地といっても良い中洲の中であれだけの土埃を上げるということは、かなりの規模の騎馬部隊が移動していると考えられた。
もはや時間的な余裕は、全く無くなったと判断するべきだった。
伊原中尉は、焦燥感に襲われた表情を隠すことなく、皇女に向かっていった。
「もう余裕は御座いません。直ちに移動します」
マクシモヴィッチ中佐も頷くと、皇女の付き人に任命された二人の将兵に合図をした。彼らは無言のまま皇女のものらしきの荷物を担ぎ上げた。
あまり大きな荷ではなかった。持ち出せたのはそれだけだったのだろう。それは落日の帝国の象徴なのかもしれない。
柄にも無く伊原中尉は一瞬そう考えると、首をふった。
今はとにかく、皇女たちを守ってこの場を逃れなくてはならなかった。
だが、マリア皇女は、不安そうな表情ながらもで、付き人の少尉の先導で川岸まで動き出そうとしたが、彼女に手をつながれたアナスタシア皇女は動こうとしなかった。
妹を呼ぶマリア皇女の言葉も聞こえなかったかのように、アナスタシア皇女はひどく澄んだ瞳で空を見上げていた。
伊原中尉は、眉をひそめながらアナスタシア皇女を見ていた。
アナスタシア皇女は、これまでの辛い拘束、逃亡生活の中で精神を病んでいるのではないのか、彼女の澄んだ瞳はその証拠なのではないのか、そう考えていたからだ。
実際、伊原中尉は、欧州戦線で、精神を病んだ将兵を何人も見てきていた。
しかし、伊原中尉の心配は杞憂だった。
アナスタシア皇女の視線は何かを追うように動いていった。
自然と周囲の人間の何人かが彼女の視線を追うように空を見上げていった。
伊原中尉は、空を見ると、一瞬愕然とした表情になっていた。
そして彼女は、しっかりとした発音で、こういった。
「あれは…鳥かしら?」
それが鳥などであるはずはなかった。まだ距離はあったが、その飛行機の識別は容易だった。
伊原中尉だけでなく、陸戦小隊員たちには見慣れた横廠式ロ号水上偵察機だったからだ。
ロ号偵察機は、二年ほど前に制式化されたばかりの新型国産機で、それまでの主力機であった輸入機のモーリスファルマンなどと比べると格段に高性能の機体だった。
欧州へは送られなかったから、実戦経験はまだないはずだが、速力や、兵装の点でモーリスファルマンを大きく上回っているらしい。
ロ号偵察機は一機だけではなかった。二機が緻密な編隊を組んだまま、中洲に向けて急速に接近しつつあった。
角度が悪いために、薄い褐色に塗られた尾翼に書きこまれているはずの呼称番号は見えなかったが、状況から考えて間違いなくハから始まる番号の高崎航空隊個有の番号が書かれているはずだった。
この周辺で、水上機であるロ号偵察機を編隊で運用できるのは、事実上の航空母艦として改装されている高崎しか無かったからだ。
しかし、ロ号偵察機の航続距離を考えれば、ハバロフスク周辺にいたはずの高崎から発進したのでは、この地点まで飛行出来るはずはなかった。
無茶な片道飛行だったとしてもここまではたどり着けないはずだ。
つまり、母艦である高崎も、不知火と陽炎を追いかけるように、ハバロフスクを離れているたのだろう。
その時、唐突に伊原中尉は、不自然な大賀艇長の態度と長く続いた待機時間の理由に気がついていた。
おそらく高崎は、不知火に発進させた飛行機の概略到着時間を通信で送っていたのだろう。
だが、未だ開発されたばかりの飛行機の性能は不安定だから、それに全幅の信頼を置くことはできない。
だから大賀艇長は判断を保留していたのではないのか。
伊原中尉にカッターへの移乗を許可した時点では、まだ通信中だったのかもしれない。
すでに、伊原中尉は、急速に接近するロ号偵察機の意図を見抜いていた。
素早く迫撃砲の砲座に近づくと、伊原中尉は発砲準備を命じた。
迫撃砲手は、怪訝そうな顔で振り返った。
彼は、すぐにでもロシア人に迫撃砲を渡して撤退するつもりで、身振り手振りで手近なロシア人将兵を捕まえて使い方を説明していたところだった。
しかし、弾幕を張る機関銃ならばともかく、いきなり渡された迫撃砲で正確な照準が出来るとも思えない。
水平の確保などの射撃準備にも十分な時間をかける余裕はないから、実際には盲撃ちになってしまうだろう。
しかし、伊原中尉がロ号偵察機を指さしながら、弾種を告げると、下士官の砲手はにやりと笑みを見せて、部下の兵たちを怒鳴り上げると素早く発砲準備を行なっていった。
ロ号偵察機が、上空を高速で航過していったのはその直後だった。
あまり時間はなさそうだった。
ただ上空を飛びさっていっただけとはいえ、ロ号偵察機が戦況に与えた影響は少なくなかった。
陸戦隊員達は歓声を上げて、中には、識別のためか日章旗を振り回すものもいた。
マクシモヴィッチ中佐達ヴォルスネセンスキー連隊員達は呆気に取られて見送っていっただけだったが、彼方に見えるボルシェビキ騎兵部隊は少なからず混乱しているようだった。
もしかすると、飛行する機械を今まで見たことがないのかもしれない。
騎馬はさしたる影響を受けていないようだが、それに乗る騎兵達は何人かが戸惑ったように空を見上げているのがこの距離からでも容易に認識できた。
そこへ狙いすましたかのように迫撃砲弾が弾着した。
勿論水平も満足にとれていない迫撃砲が容易に初弾命中などするはずもない。
実際、迫撃砲弾は彼らから距離があるところに着弾していたから、被害は全く出なかったはずだ。
しかし、彼らに被害が出なかったのは、迫撃砲弾の弾着がずれていたいた為だけではなかった。
弾種が破片を周囲に撒き散らす榴弾では無かったからだ。
発射された発煙弾は、着弾箇所から白リンの燃焼効果による煙を盛大に立ち上らせているだけだった。
見慣れぬ飛行機械の上空航過と、白煙弾の弾着によりしばし混乱していた敵騎兵部隊は、すぐに統制を取り戻していた。
実質的な被害が無かったものだから、障害にはならないと判断したのだろう。
再開された進撃は散漫なもので、重火器や飛行機からの攻撃を警戒した様子はなかった。
どうやら敵部隊は、これまで近代兵器を使用した戦闘に参加したことのない部隊のようだった。
数は多いが、兵員の質が高いとは思えなかった。
一度航過したロ号偵察機は、ゆっくりとしたロールを打ちながら旋回していた。
操縦員の練度がかなり高いのはその動作からもうかがえた。
旋回半径が大きいせいかも知れないが、二機は緊密な編隊を維持しながらも、高度や針路に全くブレを感じさせ無かったからだ。
それに、操縦員席の後の偵察員席に座る搭乗員が、こちら側を観察しているのが見えた。
勿論この距離で顔が見えるわけではないのだが、肌色の顔が見える面積でそれは容易に判断できた。
すでにロ号偵察機が発煙弾周囲の敵部隊を特定しているのは明らかだった。
水平旋回を終えた二機のロ号偵察機は、襲撃機動に入っていた。
敵騎兵部隊は勿論、ヴォルスネセンスキー連隊員達もそれにまだ気がついていないようだが、ロ号偵察機は、まっすぐに敵騎兵部隊の前進予測位置に突進していた。
そして、敵騎兵部隊が気がついた時にはもう手遅れだった。
すでに逃げようがない位置までロ号偵察機は近づいていた。
あるいは、そこまで近づいても一度目の航過の経験から、ロ号偵察機を無力な存在だと高をくくっていたのかもしれない。
そして、ロ号偵察機から投下された爆弾は、敵騎兵部隊の鼻先をへし折るような近距離で爆発した。
その時にはすでに投弾を終えたロ号偵察機は、再び水平旋回に入ろうとしていた。
爆発はそれほど大きいものではなかった。
元々ロ号偵察機は、その名が示す通り偵察機にすぎないから爆装はさほど大きなものではない。
しかし、これまで飛行機をほとんど見たことがなかったような将兵にとっては、上空から落とされた爆弾の威力は、危険なほど大きいものに感じるはずだった。
それに、衝撃を受けたのは、人間だけではなかった。
着弾による破片で実際に負傷した敵将兵はあまり多くはなさそうだったが、突然の爆発に驚いて暴れだした乗馬に振り回されて落馬したものは少なくなさそうだった。
実際の被害よりも混乱が大きいのは確実だった。
伊原中尉は、ついさっきまで感じていた焦燥など嘘であったかのように凄惨な笑みを見せると、軽機関銃の銃手に発砲を命じた。
直ちに発射された機銃弾だったが、その弾着は間延びしているような気がした。
軽機関銃による射撃を行うにしては距離があるものだから、着弾までに時間がかかって散布界が広がってしまっているせいだろう。
ただし、先ほどの空爆と同じく、実際の効果よりも、敵将兵に与える心理的な効果は大きかったようだ。
次々と連続して着弾する機関銃弾と、上空で横旋回を続けるロ号偵察機を恐れているのは確実だった。
実際には、この距離では軽機関銃で騎兵部隊に突撃を断念させるほどの打撃を与えるのは難しいし、彼らが下馬して歩兵として接近すれば目標は小さくなるから、さらに防御射撃の効果は薄れてしまうだろう。
そして、ロ号偵察機の爆装重量はさほど大きくないから、投下される爆弾はさっきの一発きりだった。
つまり、上空を旋回するロ号偵察機には、もう威嚇以上のことはできないのだ。
しかし、敵部隊がそれに気がつく様子はなかった。
この距離からでも敵部隊が逡巡している様子が手に取るようにうかがえた。
敵部隊にとって止めとなったのは、中洲の後方から聞こえてきた爆発音だった。
いつの間にか、中洲の沿岸に沿うように、支流の上流側に向かって不知火と陽炎が航行を始めていた。
しかも、二隻は連続した発砲を続けていた。
着弾点は中洲の反対側だった。
この場所からは直接視認できないが、おそらく渡河点を砲撃しているのだろう。
渡河点を確保するために、少数の部隊は残留しているかも知れないが、重火器を装備していない部隊では、水上からの砲撃には無力だった。
そして、それを確認した敵騎兵部隊の行動は素早かった。
おそらく、不知火と陽炎によって渡河点を制圧され、中洲に取り残されることを恐れたのだろう。
数少なく自力で動けない重傷者や戦死者を拾い上げると、渡河点の方向へと去っていった。
脅威が去ったというのに、ヴォルスネセンスキー連隊員達の反応は鈍かった。
あまりに短時間に、それも小銃の決戦距離よりも彼方で行われた戦闘で、あれほど強大に見えた敵部隊があっさりと後退していったことが信じられないようだった。
陸戦隊員たちの方は、感極まって万歳の声を上げるものもいたが、大部分は概ね冷静だった。
彼らにしてみれば、高崎搭載機による敵情偵察と爆撃、それに不知火と陽炎による支援砲撃は、臨時戦隊の編成以来続けてきた訓練想定そのままだったからだ。
敵騎兵部隊が去ったあとの戦場は、妙に静かだった。
渡河点を狙っていた不知火と陽炎の砲撃も短時間で終了していた。
敵部隊は、すでに渡河点を越えて大陸へと去っていったのだろう。
上空を何度も旋回するロ号偵察機のエンジンが立てる爆音だけが中洲に響きわたっていた。