1952グアム島沖砲撃戦32
四六式対潜哨戒機大洋は、老朽化した一式陸攻の代替機として開発された機体だったが、その開発経緯は複雑なものだった。
当初は純粋な長距離対艦攻撃機として開発されていた一式陸攻だったが、第二次欧州大戦の主戦場は想定されていたものとはかけ離れていたのだ。
狭い欧州では一式陸攻の航続距離はさほど評価されるものではなかった。しかも、その航続距離を活かして大陸深部への攻撃に参加するには一式陸攻の機体は脆弱だった。
日本軍の参戦直後に行われていたプロエスティ油田地帯への爆撃で、一式陸攻の脆弱性はこれ以上無いほど示されてしまっていた。海陸軍協同作戦となったこの爆撃において、重武装の一式重爆撃機に対して一式陸攻の損害があまりに大きかったからだ。
更にその後の水上戦闘で対艦兵器としての魚雷の有効性が疑われた事で、海軍上層部の一式陸攻への期待は大きく萎んでしまっていた。欧州で対艦攻撃の機会が少ない事を理由として、海軍航空隊は一部航空隊に陸軍から購入した一式重爆撃機を配備しつつ、一式陸攻を前線から引き上げていたのだ。
一式陸攻に対艦攻撃の代わりに与えられたのが対潜哨戒機としての任務だった。艦上哨戒機に転用されていた東海に代わって、英本土などに設けられていた拠点からその長大な航続距離を活かして独潜水艦を狩り続けていたのだ。
皮肉な事に対潜哨戒機として転用された後の一式陸攻は大きな戦果を上げていた。直接潜水艦を沈められなかったとしても、上空に有力な哨戒機が存在するというだけで独潜水艦の行動範囲を制限する事が出来たのだ。
世界各地からの航路が集中する英本土周辺の狩り場を追い出された独潜水艦は、効率の悪化を承知で大西洋中心部に長い時間と燃料を消費して進出しなければならず、船団の被害は結果的に低下していった。
その一方で対潜哨戒機としての任務は、一式陸攻の機体構造には過酷なものだった。大重量の対艦兵装の代わりに爆雷や対潜機材を満載した対潜任務では、設計時の想定を遥かに越えて長時間の低空飛行を強いられていたからだ。
元々対艦兵装として航空魚雷の運用を想定していた一式陸攻は、一定の低空飛行能力を確保されていた。正確な照準で航空魚雷を放つには、一定速度、一定高度で投弾しなければならなかったからだ。
しかし、敵弾の回避や投弾の為に一時的に降下するのと、対潜作戦の為に降下するのでは海面上の飛行高度や継続時間が段違いだった。海面下に潜む敵潜水艦を繊細な磁気探知機で探知するには、低空を低速で飛行しなければならない上に、操縦員に負担の大きい緻密な編隊を組む必要もあった。
対潜作戦に従事した改造対潜哨戒機の一式陸攻は、機体構造を消耗させて続々と用廃機を出していたのだ。
本来であれば、1940年代中盤には一式陸攻の後継機となる15試陸上爆撃機が就役するはずだったが、陸上航空隊の任務見直しなどの影響で15試陸上爆撃機は制式化を断念していた。
どのみち高速化で損害低減を狙った15試陸上爆撃機の機体性能は、どう見ても対潜哨戒機としての任務には合致しなかった。対潜哨戒機部隊には一式陸攻に代わる大型陸上哨戒機が必要だったのだ。
その対潜哨戒機としての一式陸攻の後継機として配備されていたのが四六式哨戒機大洋だったが、その機体構造は低空飛行向けに一部が強化されていたものの、大部分は一式陸攻のものを踏襲していた。
しかも、対潜哨戒機の主兵装は対潜兵器である爆雷であるからなのか、四六式哨戒機の自衛機銃は貧弱なものでしかなかった。
尤も対潜哨戒機部隊では、以前から一式陸攻でも使用頻度の低い側面の機銃などを銃手ごと下ろしたり、目視の見張りに専念させていたから、大洋が自衛機銃を省いたのも現状の追認でしかないと言えた。
実質的には四六式哨戒機大洋は本格的な対潜哨戒機というよりも一式陸攻の対潜仕様、あるいは再生産型といった程度の機体だった。実際に製造元である三菱の社内製造計画では一式陸攻と区別がつけられていないという話もあるほどだった。
そんな哨戒機部隊で石井少尉は慣れない大型機の低空飛行を行っていたのだが、一時期は海軍の主力基地攻撃機として量産されていた一式陸攻と比べると、四六式哨戒機の生産数は然程多くはなかった。
第二次欧州大戦が終結して各航空会社の生産体制が平時に戻されていた事を除いても、部隊に新たに配備される機体は少なかった。対潜哨戒機部隊も大幅に縮小されているから、部隊で一式陸攻が機体寿命で返納される度にその数だけ四六式哨戒機が配備されるといった様子だった。
このような生産数では、全体の予算は圧縮出来ても一機あたりの製造費用は恐ろしく高く付く筈だった。大量生産を前提とした流れ作業が構築出来ないから手間のかかる手作業がどうしても増えるし、専用治具の減価償却期間も長く取るしかないからだ。
意気の上がらなかった対潜哨戒機部隊も、対米開戦直後は慌ただしくなっていた。
それまで等閑に付されていた筈の四六式哨戒機も生産数増大や部隊の再拡張が要求されていたし、本土近海の警戒のみならず一部の機体は日本本土最南端の台湾道から更に南方の香港やベトナムなどに展開してアジア欧州間を結ぶ航路哨戒に展開していたからだ。
ところが、開戦以後の経緯は日本海軍にとって決して有利なものでは無かったのだが、奇妙なことにその後の対潜哨戒機部隊の活動は比較的低調だった。
二度にわたる欧州大戦で独海軍潜水艦隊によって英本土が追い詰められていく様子を見ていた日本海軍とそこから別れて誕生した日本空軍は、米海軍の有力な水上艦以上にフィリピンに展開する潜水艦隊を恐れていた。
米海軍アジア艦隊はルソン島西岸に根拠地を持っていたから、台湾からベトナム沖を通過して英領シンガポールに至る南シナ海の国際連盟側主要航路を容易に扼する事が出来ると考えられていたのだ。
対潜哨戒機部隊は、日本と一蓮托生とも言える英国領だけではなく、強引に南中国から使用許可をもぎ取った海南島などにも展開しつつ、効率が悪い大陸沿岸寄りに航路を変更した商船の護衛を行っていたが、その間に空軍によって米海軍アジア艦隊の母港であるスービック基地に対する爆撃が行われていた。
米軍が定めたマニラ要塞地帯内に含まれるスービック基地への爆撃は強烈な対空砲火で損害も出ていたようだが、その代わりに開戦前から配備されていた米潜水艦は一掃できた、らしい。
その顛末を海南島に展開する急造の基地で聞いた石井少尉は首を傾げていた。空軍がいい加減な報告をしたのではないかと疑うほどに、あっさりとアジア艦隊の潜水艦部隊が壊滅したからだ。
戦略的な奇襲攻撃という形でこの戦争を仕掛けてきたのは米国の方だった。開戦と同時に行われた奇襲攻撃でトラック諸島に核攻撃を加えただけではなかった。
治安維持任務の為にフィリピンに輸送中と宣伝していた陸上部隊を使って太平洋に点在するハワイ王国や日本の委任統治領を次々と占領していく手際の良さは、米軍が事前に相当の検討を行っていたことを物語っていた。
開戦直後に攻略予定地点に複数の師団級部隊を輸送中の船団が航行中であったということは、一万人規模の大部隊の移動を綿密に計画していなければ不可能だからだ。
ところが、米海軍潜水艦隊はそうした巧みな計画の例外だった。大半の米海軍アジア艦隊所属の潜水艦は、母港に係留されたまま日本空軍機によって撃沈されていたのだ。
もしも石井少尉が米海軍の指揮官であれば、目立つ水上艦はともかく、開戦直前に潜水艦隊には出港を命じていただろう。主要航路周辺や日本本土近海に接近して潜ませて、未だ混乱しているであろう日本軍や航路帯を襲撃させれば戦果は上がっていたはずだった。
隊内で疑うものの多かった空軍による潜水艦隊の撃破も、その後も低調だった米海軍潜水艦隊による被害を考慮すると概ね正しかったようだった。
巨砲を装備した米海軍の特異な潜水艦は、貴重な魚雷を使わずに長期間の通商破壊作戦を行う為のものではないかと日本海軍関係者の間では開戦前から予想されていたのだが、実際には米海軍の潜水艦隊は通商破壊作戦を本格的には検討していなかったのではないか。
開戦からしばらく経っても、国際連盟軍に確認されている限りは米海軍潜水艦隊の動きは鈍かった。
日本海軍は開戦以後は再編成中だった第6艦隊配備の巡洋潜水艦などを太平洋奥深くの米西海岸とハワイ間にまで進出させて通商破壊戦を行っていたが、米海軍の潜水艦が本格的に国際連盟側通商路を襲った例は少なかった。
その間も対潜哨戒機部隊は航路警戒に出撃していたが、敵潜水艦の動きが低調であることが周知されたことで開戦によって盛り上がっていた隊内の士気は、次第に低下していた。
変化の無い哨戒飛行の毎日に飽き飽きした隊員は多かった。士官搭乗員の末席である分隊士として石井少尉は彼らを監督する立場だったのだが、自分自身も言い様のない焦燥感を抱いていた。
すでに海南島に展開していた空軍の爆撃機隊は飛び去っていった。ルソン島北端に上陸した陸軍が米軍飛行場を奪取した後は、より戦場に近いそちらに移動していたのだ。
出動する彼らを見送った対潜哨戒機部隊の隊員達は、何ら戦局に寄与していないように思える自分達の立場を恨めしく思ってさえいた。
そんな戦時中とは思えない代わり映えの無い石井少尉の処遇が一変したのはしばらく前の事だった。唐突に原隊から特設される航空隊への異動を言い渡されたのだ。
皮肉な事に、石井少尉が隊を離れた後、対潜哨戒機部隊も一挙に忙しくなっていた。長距離対空捜索任務の為に三陸沖に展開していた特設哨戒艦が日本本土付近に接近した米潜水艦によって撃沈されていたからだ。
緒戦を無為に過ごして損害を被った米海軍潜水艦部隊も、ようやく再編成を終えて本格的に前線に投入され始めていたのではないか。そして安全と考えられていた日本近海で発生した事態に、外地に展開していた一部対潜哨戒機部隊が本土に呼び戻された上で濃密な哨戒網を構築し始めているらしい。
ところが、対潜哨戒機部隊から異動した石井少尉は双発の四六式哨戒機よりも遥かに大きいこの電子戦闘型五二式爆撃機の操縦員としての訓練を行っていた。特設航空隊とは、空軍から借り受けた電子戦闘型を水上戦闘支援の為に投入するために開設されたものだったのだ。
空軍の試作機を海軍が水上戦闘支援に用いる為に、搭乗員の構成は変則的になっていた。特殊な機材の取り扱いには手慣れた空軍将兵の手が欠かせないが、水上戦闘に精通した海軍の指揮官を機長に充てる必要があったからだった。
石井少尉が配属されたのも、海軍の操縦員が決戦を制する機体の操縦を行わなければならないという判断だったのではないか。
だが、その時の石井少尉は、第二次欧州大戦中に乗り込んでいた零式艦上戦闘機系列の単発機どころか、双発の四六式哨戒機とも全く異なる多発機の操縦特性を把握するのに必死で、海空軍の微妙な政治的駆け引きに気を取られるような余裕は無かったのだった。
五二式重爆撃機/ホーカー・シドレー ヴィンディケイターの設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/52hb.html
一式重爆撃機の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/1hb.html
一式重爆撃機四型の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/1hbc.html
二式艦上哨戒機東海の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/q1w.html
タンバー級潜水艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/sstambor.html