1952グアム島沖砲撃戦31
昨今では電子戦闘などと呼ばれるようになった電波を用いた目に見えない戦闘は、意外な程以前から実施されていた。第一次欧州大戦や日露戦争の頃には無線通信の妨害が行われていたというのだ。
だが、電子戦闘が大規模かつ系統立てて行われる様になったのは、やはり電探が実用化された第二次欧州大戦の頃と言って良さそうだった。
電子戦闘の主な舞台は、欧州の夜空だった。欧州大陸奥深くまで進攻する英空軍の重爆撃機による夜間爆撃に対して、独空軍も夜間戦闘機を投入して盛んに迎撃を行っていたからだ。
迎撃側の夜間戦闘機は、接敵するまでは地上配置の捜索電探の支援を受けていたし、大戦中盤以降は夜間戦闘機自体にも各種電探の装備が常識化していた。
その一方で、第一次欧州大戦とは規模も精度も桁違いとなった英空軍の夜間爆撃も、電探だけではなく英本土から発振される無線を利用した航法支援を受けていた。
例えば、2箇所に別れた陸上の固定基地から発振される電波を高精度の逆探で捉えて、その強度が一定となるように針路を保って飛行すれば、特定の箇所に無線で誘導が出来るのだ。
そのような電波を用いた航法や索敵の支援が広く使用される一方で、その妨害も積極的に行われ始めていた。欺瞞電波の発振による針路韜晦や、電探の妨害も常識化され始めていたのが第二次欧州大戦終盤の夜間戦闘だった。
英本土に展開していた日本海陸軍航空隊もこの電子戦闘をただ横目で見ていた訳ではなかった。
当初から戦略爆撃に対しては日本軍航空関係者は海陸軍を問わず冷淡だったが、陸軍航空隊はソ連空軍に対して行うはずだった航空撃滅戦を欧州沿岸各地に展開する独空軍基地に向けて行っていた。
勿論独空軍の電探は夜間にだけ起動しているわけではないのだから、航空撃滅戦を挑む日本軍機も次第に英軍に倣って電探潰しなどの電子戦闘を実施するようになっていたのだ。
こうして日本軍によって昼間の間にこじ開けられた穴から英空軍の爆撃機隊が進攻していったのだが、護衛戦力の不足から日本軍の夜間戦闘機の随伴も珍しくはなかった。
欧州上空の夜間戦闘と並行して行われていた目には見えないが激しい電子戦闘を経験していた日本軍関係者は、五二式重爆撃機でもその機体容量を活かした専門の電子戦闘型を要求していた。
五二式重爆撃機は主力である五一式爆撃機と比べて重装備の機体となる予定だったが、巨人機故の鈍足は隠しようも無かった。そこで編隊内に電子戦闘型を編入して電波妨害や索敵を担当させる予定だったようだ。
直接攻撃力を持たない電子戦闘型を投入しても、高価な大型爆撃機の損害を低下させようとしていたのだ。
だが、折角早い段階から開発されていた電子戦闘型だったが、原型機から改造されたこの機体の仕様が、後退翼とジェットエンジンに換装された制式生産型でもそのまま派生型として導入されるとは限らなかった。
電子戦闘が日本空軍で軽視されている訳ではなかった。直接攻撃力を犠牲にしても電探の妨害など電子戦闘で損害を抑えるほうが結果的に戦果に繋がるという認識は、海空軍の航空関係者にとって現在では常識的な考えになっていた。
むしろ、電子戦闘の重視が派生型としての電子戦闘専用機の出現を阻害していると言えるかもしれなかった。五二式重爆撃機の制式生産型には、石井少尉が操縦するこの電子戦闘型の為に設計開発された電子兵装の一部が搭載されるからだ。
大規模な電波妨害などを行う専門性が高い機材はともかく、これから先は電探に加えて艦艇のように逆探の搭載も大型機であれば常識化していくのではないかと考えられていたのだ。
その宙に浮いた形になった試作機の電子戦闘型に海軍が目をつけていた。大規模な水上戦闘の支援機として転用できないかというのだ。前後の経緯からすると、どうやらあのタービンライトによる支援の再来を目論んでいるらしい。
当初は大きな期待がかけられていなかったタービンライトとは違った理由で、電子戦闘型の五二式重爆撃機の予備機は存在しなかった。貴重な空中指揮官機を投入する危険は冒せなかったし、電子戦闘型はこの試作機一機のみしか存在していないからだ。
ただし、石井少尉が操縦する電子戦闘型が単機で作戦に投入されている訳ではなかった。断雲の隙間を探して海面を視認できる空域を飛び続けている電子戦闘型には空軍の夜間戦闘機隊が護衛についていた。
電子戦闘型の飛行高度は高かった。直接海面を探照灯で照射したタービンライトとは違って、対水上電探という電子の目を持つ電子戦闘型は、高角砲の射程に踏み込むことなく海面の観測と電波妨害をこなせる筈だったからだ。
尤もあれから10年経った現在の戦場では、イタリア戦艦の対空射撃で撃墜されかかったタービンライトよりも電子戦闘型の方が安全とは限らなかった。
水上戦闘だけではなく、対空射撃でも射撃管制に電探の支援を受けるのは当たり前になっていたし、米陸軍航空隊にもジェット化された夜間戦闘機が配備されているのが確認されていたからだ。
奇しくも随伴する空軍の夜間戦闘機は五二式重爆撃機の原型機と同じセントーラスエンジンを積み込んだ四五式夜間戦闘機だった。
四五式夜間戦闘機のレシプロエンジンや機体構造は旧式化しているが、電子兵装は刷新されている筈だし、銃塔に据えられたエリコン20ミリ機銃に加えて対空誘導噴進弾を懸架しているというから、相手が鈍重な夜間戦闘機ならジェット機でも対抗できるのではないか。
おそらくは連合艦隊司令部がそのような条件となる日時を狙っていたのだろうが、糸のように細い月は海上に淡い光しか届かせていなかった。石井少尉が操縦する電子戦闘型の周囲も闇に包まれていた。時たまセントーラスエンジンが後方に吐き出す光も僅かなものだった。
電波による航法支援や充実した操縦支援用の機材がなければ、まださほどこの機体に習熟していない石井少尉が安定した操縦を行うのは難しかった筈だ。
周囲に展開する護衛の夜間戦闘機の姿も確認出来なかった。電波の干渉を避けるためらしいが、護衛機は間隔を保って飛行しているらしい。昼間ならともかく、夜間に目視確認するには難しそうだった。
だが、空中指揮官機程ではないにせよ、通常仕様機よりも増備された各種電探は離れて飛ぶ護衛機編隊の姿を捉えていた。それどころか、対水上電探は既にグアム島方面から北上する敵艦隊らしき反応を捉えていたし、逆探によってこの機体にも敵電探波が降り注いでいる事も確認されていた。
闇夜の中にいるにも関わらず、電子戦闘型は周囲の状況を昼間の目視で得られる以上の精度と範囲で把握していた。既に夜戦は明るいものとなっていたと言ってよいのではないか。
―――だが、本当に自分がこんな所にいてよいのか……
石井少尉は自分がこの大海戦を上空から見守ることになった奇縁のことを考え続けていた。
水上戦闘機による艦隊勤務という奇妙な状況の後に、当時はまだ下士官搭乗員だった石井少尉は飛鷹乗り込みの艦上戦闘機隊に配属されていた。
そのまま行けば順当に空母航空隊の要員となっていてもおかしくは無かった石井少尉の運命を狂わせたのは、おそらくは隼鷹型が第二次欧州大戦後に予備艦指定を受けた事にあるのではないか。
日本海軍の数ある商船改造空母の大半は、その目的を達成出来なかった。日本軍参戦直後は事前に空母に改造される予定だった客船の多くはユダヤ人輸送計画に従事して欧州からマダガスカルに向かう航路上にあったからだ。
初期の兵員輸送が一段落した後に何隻かが空母改造工事を受けていたが、事前計画とはその運用は様変わりしていた。最前線任務どころか、船団護衛ですら既に海防空母の仕事になっていたからだ。
改造艦故に性能が揃った同型艦を増やしようがない商船改造空母よりも、ある意味では最前線の艦隊以上に集団航行を強いられる船団護衛任務においては数を揃えて統一行動を取りやすい海防空母の方が便利だったのだ。
性能面では海防空母を上回る部分を持ちつつも、本格的な航空艤装すら省かれて大半が単なる航空機輸送艦として運用されていた商船改造空母の中で、改造時期が早かった事と元々の商船としての性能が高かった事で唯一前線で艦隊運用されたのが2隻の隼鷹型だった。
だが、それまで船団護衛についていた隼鷹型が英本土で再改装された上で、石井少尉達元水上機乗りまでかき集めて前線に配備されたのは一線級空母が不足するという事態があったからだ。
隼鷹型に乗せられた航空隊は寄せ集めの搭乗員ばかりだったが、その中には地中海で撃沈された赤城や龍驤の生き残りも含まれていた。おそらくは地中海の激戦で失われた空母が無ければ隼鷹型が最前線に展開することもなかったのではないか。
第二次欧州大戦後、隼鷹型は遣欧艦隊から離れて日本本土帰還すると予備艦指定を受けていた。他の商船改造空母の中には特設艦籍から外されて元の客船の姿を取り戻したものもあったが、隼鷹型など一部の特設艦は海軍に購入されていたから転籍も出来なかったのだろう。
地中海戦線における隼鷹型の戦績は確固たるものだった。速力にやや劣るものの概ね蒼龍型に準じる中型正規空母として運用されていたからだ。
だが、既に日本本土では大戦に間に合わなかった大鳳型などが就役を控えていた。蒼龍型でさえ第2艦隊に配備される一線級空母部隊を離れて第1艦隊で戦艦部隊の直衛任務を与えられる状況では、第2艦隊に隼鷹型の居場所などなかったのだ。
航空隊の要員達が次々と艦を離れるなかで、しばらく石井少尉は隼鷹型の予備役化作業に追われていた。
この頃、海軍航空隊内部では陸軍航空隊と合流して誕生する空軍の創設で混乱していたのだが、石井少尉は取り残されていたことを大して気にする事も無かった。
空軍に編入される海軍航空隊は、陸上攻撃機など基地航空隊が中核となるという話だった。水上機の頃から艦隊勤務ばかりで大戦中を過ごした自分は、空母航空隊かその予備航空隊に転属することになるだろうと高を括っていたのだ。
だが、実際に飛鷹を降りた石井少尉が再配置されたのは対潜哨戒機部隊だった。海軍の基地航空隊は大半が空軍に編入されていたのだが、専門性の高い対潜哨戒機部隊はその例外となっていたのだ。
当初は、対潜哨戒機として始めて設計された零式陸上哨戒機東海を使用していた対潜哨戒機部隊だったが、東海が主翼折りたたみ機能などを備えて二式艦上哨戒機として海防空母に載せられていったのに対して、大戦中から陸上哨戒機の主力は一式陸攻に切り替えられていった。
航続距離が長い一方で脆弱な一式陸攻は、緒戦で大損害を出した後は徐々に前線から引き上げられて、東海用に開発されていた対潜機材を満載して対潜哨戒機に転用されていたのだ。
生粋の空母乗り込み乗員ではない事が石井少尉が対潜哨戒機部隊に配属された理由なのかは分からなかった。奇妙な噂も流れていた。海軍の中には、空軍の創設で陸軍航空隊に基地航空隊を奪われたと考えているものもいるらしい。
東西の米ソ両国と事を構えた場合、空軍は対ソ戦線の航空撃滅戦に集中して、対艦攻撃を疎かにするのではないかという懸念もあったのだろう。その為に対潜哨戒機部隊にはいざという時は対艦攻撃に転用可能な一式陸攻が配備されていたのではないか。
だが、石井少尉が基地航空隊に配置換えされた頃には、大戦中に予期せぬ低空飛行の連続で酷使されていた一式陸攻の機体寿命に軒並み限界が来ていた。
しばらくして代替機が配備されたのだが、石井少尉達寄せ集めの乗員達は揃って顔を見合わせていた。配備された新型機という触れ込みの四六式哨戒機大洋は、一式陸攻から自衛機銃を省いたものと言っても過言では無かったのだ。
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